マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

別所町の風の祈祷

2012年11月20日 09時28分32秒 | 奈良市(東部)へ
前夜の15日は風の祈祷と称する宮籠りだった奈良市の別所町。

一番トウ、二番トウ、三番トウ、四番トウと呼ばれるマツリの4当家は布団を持ち込んで社務所で籠るのであるが、形式を保つことなく不籠りになった。

ゲヤは社務所に上がれず、極楽寺本堂で籠ることも聞いていたがそれも不籠りであった。

翌朝は村の長老たちがお参りをする。

早朝に集合場所としていた会所の前。

車に同乗して向った先はカイトノモリ。

漢字を充てれば垣内の森と思ったが、神社の年中行事表記には「かいとの守り」とある。

その地は別所町と杣ノ川町との境界の山中。

鬱蒼とする林の中に佇む社がある。

平成21年に氏神さんの金刀比羅神社の造営の際に新しくした。

同時に鳥居も新しくしたという。

尤も、昔は社もない「山がご神体で、山の神さんそのものだった」と話す。

カイトノモリの社は、桜井の大神神社から勧請した三輪大明神社というそうだ。

カイトノモリが鎮座する「カイト」名は山の地番。

隣村の奈良市の田原の里から別所町、杣ノ川町の境界とする山道を通って都祁に向かった。

かつては伊勢街道で賑わったそうだ。

街道は今でも歩くことさえ困難な山道。

それゆえ車を走らせて新道を回りここまで来たのである。

集まった人たちは社に手を合わせて境内をぐるぐる回る。

時計回りに12周するが、この年は閏年。

そうであれば周回を13回。

4年に一度は13周するというから新暦の閏年。

かつての旧暦閏の月数のあり様を残していると思われる。

お参りを澄ませると再び便乗して別所に戻った。



長老らは金刀比羅神社の境内でも同じように13周した。

同神社の境内には遥拝棚がある。

その方角にあるのがカイトノモリである

二か所に亘ってお参りを済ませた別所町の行事。

二老の話によれば「昔は風の祈祷やいうて御供もあった」という。

風の祈祷の所作にぐるぐる回る処がある。

隣村の長谷町や和田町。

回数や作法は若干異なるが、その様相は間違いなく風の祈祷である。

ちなみにカイトノモリでも籠りをするという。

真っ暗な中で境内に火を灯す焚火。

その灯りで会食を共につするというカイトノモリの籠り。

日程はマツリの日に決めるそうだ。

(H24. 9.16 EOS40D撮影)

伊豆七条町牛頭神社のむかしよみや

2012年11月19日 07時42分08秒 | 大和郡山市へ
盆地部で行われている福丸迎え

貴重な行事を今でもしている大和郡山市の伊豆七条町。

集落の南側に鎮座するのは牛頭神社。

境内には八王子神社も祀っている。

牛頭神社を地元住民は「ごすじんじゃ」と称しているが紛れもない「ごずじんじゃ」は小高い墳丘のように見える。

向いに住む男性の話によればかつては前庭にあったという。

先代はそういうことを云ってなかったが村人がそうだと伝える。

集落中央にはもう一つの神社がある。

それは子守神社と呼ぶ。

伊豆七条町には2社を氏神さんとして祀っている。

この日は牛頭神社で行われる「むかしよみや」。

村の人らは「むかしよいみや」と呼んでいるが長老の話によれば「むかしよみや」だが、充てる漢字は判らないと云う。

「むかしよみや」の祭典に特別なものは見られない。

御供もなく境内に12個の丸型提灯を一列に掲げる。

12個の数値は月数であるのか、十二支であるのか明白ではない。

かつては祭りに巡行していたお神輿の回りに付けていたという赤い提灯。

子守神社に参ってから町内を巡行。

そして牛頭神社にやってきた。

日暮れになれば提灯に火を灯す。

神社鳥居には高張提灯。

集落七か所の辻にもそれぞれ掲げている。

むかしよみやの印しだそうだ。



そうして参拝者を待っている当番の人たち。

旧村50軒からなる伊豆七条の各戸を4組に分けた組当番だ。

水利組合の組もあるがそれとは混じらない家々は飛び飛びだという。

お参りはめいめいの家族単位。

暗闇に包まれる社に賽銭を捧げてお参りする。

これも祭りのあり方なのであろう。

参拝者を迎えていた当番の人たち。

ほどよい時間になれば撤収する。

来月のマツリは子守神社の営み。

かつては10月13日であったが体育の日に移った。

施主のトーヤは礼服姿でお渡りをする宵宮。

かつては紋付き袴だった。

いつしかモーニング服になった。

それからも簡略化されて礼服にしたという。

11時に集まったトーヤの家を出発するお渡り。

トーヤ主は御幣を持っていく。

後続の一老はサカキの葉を口に銜えてのお渡り。

その日は若槻の巫女さんが神楽を舞うらしい。

てんのうさんに参ると云ってむかしよみやに出かけたと話していた婦人。

トーヤが提灯を吊るして村人が参る。

その日は横田町もよみやと呼んでいた。

(H24. 9.12 EOS40D撮影)

南田原町イセキの祭文音頭

2012年11月18日 08時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
9月8日に行われていたことから八日薬師のイセキと呼ばれる行事は村人が集まりやすい日曜日に替った奈良市の南田原町。

「イセキ」は「会式」が訛った仏事の行事。

薬師堂の行事として行われている。

本尊前にケト(ケイトウ)などのお花を飾る。

祭壇には特異な形のオソナエが並ぶ。

年番の「にんにょ(年用)」たちの手によるものだ。

造りもののお供えはベイナスに赤トウガラシとマメを挿した人の顔のような形をしている。

両脇には薄く切った5枚のパン。

本来はフ(麩)で飾りつけをするのだが、手に入らず仕方なくパンに切り替えた。

2年前に訪れたときもそうであった。

後方には大きなズイキとダイコンも立てている。

高く盛った仏飯に箸を立てる。

お賽銭を捧げて参る村人たち。

元は南福寺と呼ばれるお寺があった南田原。

明治時代までは南福寺に住職が居たそうだ。

菩提を弔うイセキはお参りを済ませれば集会所に集まって会食していた。

子どもも一緒になった家族ごとに飲食する。



それから1時間半後。

おもむろに始まった盆踊り。

数人が会所の中で列を作って踊っていく。



唄を歌う音頭取りは小学6年生。

3年間も練習してきた音頭取り。

茗荷町に住むOさんが指導してきた。

かつては東山中のそれぞれの村でイセキにつきものの盆踊りをしていた。

南田原をはじめとする田原の里では大野の十輪寺から始まって中之庄、矢田原、日笠、今井堂、長谷、別所などで次々と行われていた。

隣村の盆踊りを見にいったことを覚えている人は少なくない。

いつしか廃れていったイセキの盆踊りは語り草。

村起こしのきっかけに練習してきた祭文音頭はこの日初のお披露目。

後継者の育成の方向性が見えてきた。

田原の里が全域に亘って復活すればと願っての初披露は一曲で終えた。

Oさんの話によれば、長谷のイセキではかつて音頭取りに番傘をさしていたと云う。

音頭取りが3人なら三つの番傘。

足元には生タマゴと酒と湯のみが置かれたそうだ。

何故に生タマゴかと問えば「声が枯れてかすれたら湯のみに割った生タマゴを入れて飲みほした」と云う。

酒を飲むのも喉に良いからと飲んでいたそうだ。

番傘は何故に挿すのか。

この答えは「夜通し歌うから夜露に濡れたらあかん」と云うわけだ。

盆踊りは村人が溢れて二重にもなったそうだ。

続けて話すOさんの思い出。

「吉田踊りではちょんちょんと前に出るときに、前にいてる踊り子の娘さんのマタグラ辺りにちょいと足を出したんや」と奥さんが居る前でも話された。



ところで南田原のイセキはトーシミがつきもの。

会食を終えるまでは火を絶やすことはできない。

灯心の灯りは十三灯。

2年前に拝見した燭台は油でこてこて状態だった。

黒光りしていた燭台に歴史を感じたが、そうではなくなった。



お皿はそのままだが下部は竹製。

申しわけないがつり合わないように思える。

(H24. 9. 9 EOS40D撮影)

山田町杵築神社八朔座

2012年11月17日 08時51分27秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市山田町の杵築神社で行われる秋祭りの「でんでらこ」。

なぜにその呼称であるのか判っていない。

宵宮の晩に大きなとんど松明を境内で燃やす。

その直前に行われるカシの木を引っぱり合い。

子供が作法する行事である。

その行事に先立つこと一か月前。

かつては旧暦の八月十三日だったそうだ。

それは満月の二日前だとも云う。

当時の暦は知る由もないが、いつしか敬老の日の9月15日に行われていた。

ハッピーマンデーの施行によってまたもや催事日を移した八朔座の行事。

かつては「むかしよみや」とも呼ばれていたようだ。

杵築神社の境内には三つの神殿がある。

中央に位置するのが本殿。

明治以前は牛頭天王社と呼ばれていた。

明暦二年(1656)八月吉日に寄進された石燈籠には牛頭大王の刻印がある。

「奉寄進 山田邑 牛頭天王御前」だ。

素戔嗚尊を祭神として祀られている証しでもある。

もう一つの石燈籠には「牛頭天王 山田村中 宝暦五年(1754)」もある。

阿吽の像には「嘉永元年(1845)の銘がある。

歴史を物語る刻印である。

それはともかく、境内の二社。

右の小宮は夏祭りのときだけに御供を供える。

八王子ではないだろうかと宮司が話す。

一方、左側に大きな神殿がある。

造りは本殿と大きく異なる。

村人の話によれば矢田新邑にあった本殿を譲り受けたという。

移転時代は不明だが、その社はかつて松尾の神さんを祀っていたと云う。

八朔座のこの日だけは神さんがお戻りになると云って神饌を供える。

この日は朝から神社境内のみならず松尾寺へ向かう道も清掃してきた村人たち。

松尾寺から神さんが降りてくるので草刈りをしていたという。

一旦は家へ帰って汗を流して再び神社に集まった村人たち。

「昔はここにいやはってむかしよみやをやっていた」と話すA氏。

日本最古の厄除け霊場である松尾寺と深い関係にある山田の地であった。

松尾山に鎮座する松尾山神社は松尾寺の鎮守社。

松尾大明神を祀る。

明治時代の初めに神仏分離令によって山田の地に遷宮された。

その場所が杵築神社である。

遷座された社は本殿の左側。

松尾寺の神さんを祀っていたという社がそれである。

狐狸もあったという山田の遷座地であったようだ。

昭和32年に解体修理して松尾山神社は元の松尾山に復興創建した。

そうして山田の地に遷されていた神さんは再び元の場所に遷ったというのである。

それからは杵築神社に祀られていた社へは参ることがなくなった。

「昔はここにいやはってむかしよみや・・・」という件は、当時の祭典を云うようだ。

神さんが通る道は奇麗にしなくてはならないから清掃する。

いわゆる清めの道造りなのであろう。

かつては寄付集めをしながら太鼓台を担いでいたそうだ。

提灯を持っていたというから夕刻以降であったかも知れない。

そうこうしている頃には小泉神社の宮司と松尾寺の僧侶がやってきた。

この日の祭典は「八朔座」。

始まるまでは4人のトーヤ(当家)は設営にせわしく動き回っていた。

拝殿の両座に一つずつ椀の膳を置いたあとは社に御供を供えた。

集まった氏子は26人。

そこには法被を着た子どもたちもいる。

共に神事に参列する。

子どもたちは秋祭りの「でんでらこ」で重要な役目を勤める子たち。

この日はお披露目の式典でもある。

神事は一般的な式典だが、松尾山神社の元社に対しても御供を供えることに違いがある。

御供はセキハン(赤飯)、洗米、塩、酒などだ。

宮司が拝礼される古社。

それから本殿に向かって祝詞を奏上する。

玉串奉奠なども本殿である。



松尾寺の僧侶も玉串を奉奠する。

神事を終えれば拝殿に場を移す。

円座に座った氏子たちは右と左の座に分かれる。

年齢順の席になっている。

上座に登るのは宮司と僧侶。

直会に配膳するトーヤたち。



カワラケに盛るのはジャコと共に煮たメイ(和布)料理。

ごっつぉのメイは手に入らなければヒジキになることもある。

今年はそうであった。

膳にはトーフの汁椀も盛られる。

湯とうに入れておいたトーフが細かく砕いておく。

でなければ湯とうの口から出てこない。

手でぐちゃぐちゃにするのだという。



予めに料理しておいたトーフ汁を湯とうに入れるトーヤ。

それを座の人らに注ぐのはトーヤだが、お神酒は子どもたちだ。

一人、一人の座に回ってお神酒を注ぐ。

足元は草鞋である。

それをよばれる氏子たち。

宮司や僧侶も交えてくみ交わす直会である。

かつては大きなニギリメシだったと云うセキハン。

当時のニギリメシはキナコと塩を塗して食べていた。

それにはアズキ(或いはササゲ豆)もあったというモチゴメのセキハンはアカゴハン或いはアカメシとも呼ばれていたようだが、現在はお店で購入した調理品。

戸数が40軒の山田町。

その数を作らなくてはならなかった。

時間、労力を簡略化されてお店のセキハンになったそうだ。

(H24. 9. 9 EOS40D撮影)

あきんどスシロー学園前店

2012年11月16日 08時39分39秒 | 食事が主な周辺をお散歩
待つこと20分。

行列ができていた「あきんどスシロー学園前店」の席に着いた。

土曜、日曜ともなればどの店でも行列ができるスシローである。

3年ぶりにやってきた。

おふくろが奈良にやってきた。

久しぶりの外食はどこにするかいつも迷う。

この日は次男の誕生祝い。

希望を彼に任せて行列に加わったのである。

くるくる回転寿司の中でもお気に入りの店。

一年ぶりの日本の地で味わうくるくる寿司だ。

2日の夜に元気な姿を見せてくれた。



(H24. 9. 2 SB932SH撮影)

土産はおにぎり。



口口美味に満足とある沙茶焼肉三角飯。

成分に寿司飯とある。

くるくる回ってくるのはそれではない。

れっきとしたにぎり寿司だ。



向い側には外人夫妻も食している。

英語で一言交わしたいそうだが・・・。

軍艦ねぎまぐろ、〆さば、真いかなどが皿に盛られて回ってくる。



そのほとんどがオーダー品。

水色、黒色などなど。

それを見て注文したくなった。

電子式注文パネルを開いてプッシュする。

しばらくすると回ってくる。



真いかに甘タレの真いかみみだ。

座席の壁にはいくつかの特別品がある。

プリプリ歯ごたえの明石産たこ串天ぷらに目がいった。

値段は260円。

美味そうだから注文した。

待てども、待てどもレーンには現れない。

ひょっこり現れた店員さんの手にあった。



パクつくたこ天。

サクサク感の天ぷらは美味いのだ。

もう一つ注文したのは云うまでもない。

にぎりサンマは生姜で食べる。



天ぷらついでに海老天にぎりも注文した。

意外といける口である。

まぐろ山かけ、生サーモンに焼とろサーモン、ビントロ、えんがわ、つぶ貝、こういか、生たこ・・・などなど。




満腹してから気がついた。

定番のハマチやタイがなかった。

売り切れたそうだ。

今夜の食費は4人で7000円ほど。

お店の支払いは現金払い。

業界大手のくるくる寿司であるのにクレジット扱いがない。残念なことだ。

(H24. 9. 8 SB932SH撮影)

シンカン祭りの宵宮

2012年11月15日 06時45分58秒 | 天理市へ
海知町倭恩智神社シンカン祭りはかつて9月7日、8日、9日に行われていた。

祭典は集まりやすい土曜、日曜に移された。

それゆえ7日は金曜日である。

前日に行われた大当屋家での神事を終えてこの日は宵宮。

昼間にお渡り行幸の儀式を終えた人たちは一旦家に戻る。

日が暮れるころにやってきた大、小の当屋。昨日と同様に烏帽子と素抱姿だ。

二人は拝殿に登って座った。

本殿の拝殿の間に設えた古い釜。

手伝いさんが藁束に火を浸けて燃やし湯を沸かす。

煙がもうもうと立ちあがる。

藁火が勢いをつけて燃えだせば湯が沸く。

燃え尽きた藁は湯釜から離しておく。

そこに登場したのは里の女児巫女。

昨日に行われた大当屋家での御湯之儀と同様に作法をする。

この日の宵宮には神職が登場しない。

巫女が神事を勤めるのである。

巫女は田原本町法貴寺の女児。

池坐朝霧黄幡比賣神社の宮司婦人が作法を伝えている。

始めに一礼をして湯釜を祓う。

シデを括りつけた幣を持って湯釜にそろりそろりと混ぜるような作法をする。

チン、チン、ドンに合わせて笹と幣をもって舞う。

右手に鈴を、左手に笹と幣だ。

鈴を鳴らしながら舞う神楽の舞い。

本殿に向かった際に一礼する。

幣と笹を釜に置いて塩、洗米、御酒を注ぐ。

丁度、その頃には夕陽が射しこんだ。

二本の笹を持つ巫女が作法を続ける。

始めに本殿の神さんが坐ます北に向かって拝む。

そして東、南、西に向かって三度の一礼をする。

それから笹を湯に浸ける。

前方に湯を飛ばす。

5回、繰り返して後方にも笹を振り上げる。

その数は10回だった。

次に鈴を右手に持ち替えて神楽を舞う。

チン、チン、ドンに合わせて舞う。

左に右に2回ほど回る。

それを終えて二人の当屋に鈴で祓う。

こうして終えた御湯之儀。



しばらくすれば村人たちがやってきた。

本殿を後ろにして拝殿側に立つ。

先ほどと同様に大、小の当屋が奏でる音に合わせて左回り、右回り。

巫女が鈴を手にして舞う神楽。

シャンシャンと鳴らした鈴で参拝者に祓いをする。

作法もそうだが、このように2度に亘って湯立て神事を行うのは珍しい。

この日も奈良県の民俗芸能緊急調査の関係でビデオ記録をさせていただいた。

この場を借りて厚く御礼申しあげる次第だ。

(H24. 9. 8 EOS40D撮影)

北村町役の行者参り

2012年11月14日 06時45分53秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市北村町。

戸隠神社から西方400mの山を越えれば京都府の加茂町。

山は県境である。

その山にあった行者さんの石像。下山から土を採掘したことによって崩れそうになった。

それでは可哀そうだと移した地が会所の傍ら。

行者石像は周りも天井も石で覆われている。

風化を防ぐという意味であろうか。

その左横には石塔がある。

村の人たちが修行してきたという大峰山。

出かける際には田んぼに参って夕立ちをもらうようにと祈った。

石塔は「昭和22年9月8日 大峯山三十三度之供養」とある。

「ならとく」さんが寄進したと伝わっている。

その名が刻まれている。

そんな話をしてくれたD婦人によれば記念の石塔も村の西側(水道局)辺りにあったそうだ。

会所に集まってきたのは自治会長他当番の人や参拝者。

いつもなら大勢が参拝するのだが、稲刈りが始まった北村ではそれどころではないという。

この年の3月に訪れたときの会所前とは随分違う。

車も停められる場はアスファルトが敷かれて奇麗になった。

手すりもある。

雑草採りもしなくて済むようになったと喜ぶ参拝者。

会所のテーブルを斎壇代わりに置いて御供を供える。

今では自治会が用意するお菓子になったが、以前は参拝者が一品、一品を供えていた。

少しずつ品数が増えていった。

高騰する御供に困った村人たちは自治会運営に切り替えて適量にしたと話す。



行者さんに線香とローソクを灯してお参りする参拝者。

般若心経を一巻唱えてお参りを済ませた。

3月もそうだったがこの日も見られたパトロールカー。

盗人が出没するそうだ。

農作業に使うクワ、カマ或いはツッカケまでが盗られたと話す。

賽銭泥棒もいるらしい。

そういう事件があって巡回している警察官。

要請はしなくとも代々引き継がれた警察官が村を守ってくれるのだという。

そんな話題も出た直会。

昔はお酒もあったが今はお茶。

御供のお菓子を食べてしばらくの歓談で時を過ごす。

(H24. 9. 8 EOS40D撮影)

シンカン祭りの七日座

2012年11月13日 09時03分47秒 | 天理市へ
天理市海知町に鎮座する倭恩智神社で祭祀されている代表的な行事にシンカン祭りがある。

シンカン祭りは三日間にわたって行われる祭礼である。

初日は神饌の御供を作ることから始まる。

その作業は大当屋の家だ。

小当屋を始めとして隣近所の人たちが支援にあたる。

海知町の宮座制度は昭和の初めまでは特定の座家に限って営まれていた。

いつしか営む家が少なくなくなった。

12戸もあった座の家は諸事情で昭和の始めには6、7戸。

その後も減り続けて3戸まで落ち込んだという。

このまま状況では祭祀を継承することができなくなった。

そうして昭和10年からは宮座制度を廃止して地区住民における年交替輪番制で営むことにした。

奈良県の民俗芸能緊急調査対象に選択されたことにより急遽調査にあたることなった。

調査の中心は里の女児によって行われる湯立ての神事である。

平成16年、18年、19年にも訪れていたのでその様相は存知しているが、毎年交替される大当屋の家は予めの挨拶はできていなかった。

当日は朝から降り続ける雨の日。

集落を巡ってみるものの注連縄を張る家が見つからない。

大雨の中では田畑に人はいない。

時間は刻々と過ぎていく。

傘をさして集落を巡っていたときだ。

煙が立ち登る家があった。

おそらく湯を沸かすときの藁火であろうと判断して伺った。

今まさに始まった湯立ての神事がその家。

急なお願いに許可を得て撮影に入った。

今回の調査は湯立て所作の記録だ。

セットアップもままならないままのビデオ撮影である。

神職は田原本町法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社藤本宮司。

祭り取材にずいぶんとお世話になった。

大当屋の家で行われる湯立ての神事の斎場は屋外。

大当屋家の敷地内にある作業場である。

四方に竹を立てて注連縄を張る。

シデを取り付けた場が神事の場なのである。

三本の足がある湯釜は羽釜。

刻印は見られないものの古から使われてきた釜である。

始めに宮司が行われる祓えの儀。

大、小の当屋を始めとして大当屋家族に手伝いを勤める人たちも並ぶ。

湯釜の前に立った宮司は一礼をする。

釜湯を清められて「オオオオー」。

神さんを大当屋の家に呼び起こす。

そして幣を巫女に手渡した。

巫女は湯釜を祓う。

雨がしとしと降り続けるなかでの作法である。

左手に笹をもって右手に鈴だ。

チン、チン、ドンの音色に合わせて神楽を舞う。

チンは摺り鉦の音。

ドンは太鼓を打つ音だ。

この役目は烏帽子と素抱を身につけた大と小の当屋と決まっている。

大は太鼓で小はチャンボと呼ばれる銅製の鉦を受け持つ。

次の所作が湯立てである。

二本の笹束を置いて塩、洗米、御酒を湯釜に注いで清める。

静かに作法を見守る氏子たちの前で所作をする。

次に、北、東、南、西の方角に向かって三度の一礼をする。

それから笹を湯に浸ける。

笹を持った巫女は前方に湯を飛ばした。

何度か繰り返して後方にも笹を振り上げた。

撮影後に確認すれば前方が5回で後方は10回だった。

右手に鈴に持ち替えて神楽を舞う。

チン、チン、ドンに合わせて舞う。

左、右に2回ほど回る。

それを終えて二人の当屋に鈴で祓う。

並んでいた参拝者たちにも祓った。

再び宮司が登場する。

湯釜の前に立って湯を祓う。

「オオオオオー」の声が聞こえてきた。

神さんは天に戻ったのであろう。

こうして終えた湯立ての神事は正式には「御湯之儀」と呼ばれている。

暗雲立ち込める中での神事を終える頃は小雨になっていた。

神事を終えた人たちはもう一つの作業場に移った。



この夜は神饌御供作り。

一斗粳米餅を現代的な機器で次々と搗いていく餅搗き神事である。

その場は大当屋家の卓球場。

隣の棟はカラオケ会場。

村の人たちが集まって楽しめるようにと建てたという父兄が話す。

大当屋を勤めるK氏のお顔は見覚えがある。

お聞きすれば小当屋を平成19年に勤めた方だった。

手伝いされている人の中には平成18年大当屋を勤めたO氏、19年のH氏もおられる。

当時のことは鮮明に覚えてくださっていた。

ありがたいことである。

大当屋のK家には昭和拾年三月吉日に記された座帳の写しを残しておられた。

座帳を記録されたのはK氏のひいお爺さん。

K氏の父親兄が話すには息子に伝えなくて孫に伝えた話がある。

それはかつての倭恩智神社。

当時は海知町集落の北部にあった。

戦時下において空路になったそうだ。

神社を現在地に移転したのはひい爺さんらの尽力の賜物であったそうだ。

戦中に移したという話があるが、実際はマッカサーに逆らって戦後になってから移したという。

そのひいお爺さんが書き遺した文書があるそうだ。

それにはシンカン祭りの営みが事細かに書き記されている。

本書から写された文書。

それによればシンカン祭りは7日から9日における祭礼であった。

初日は七日座と記されている。

『一.前日六日ニ大當家、小當家揃ッテ神饌ノ買物ニ行ク 一.七日早朝ヨリ小當家壱名大當家へ手傳ヒニ行ク 一.前後ノ當家大當家ヘ手傳人ハ八日祭典神饌ノ準備ヲ整フ 一.夜ノ御供搗ニハ小當家ヨリ更ニ壱名大當家へ手傳ニ行ク 一.飲食ニ要スル諸入費及ビ御供搗ノ入費ハ大當家負担トスル 一.神官、神楽人ハ大當家ニテ饗應スル』とあった。

なお、七日座の御湯之儀には『神官、神楽人ニテ御湯上ゲ 大小當家装束ヲ付ケ太鼓、チャンボラヲ神楽ニ合ス 一.白米五合ヲ供ヘル大當家ヨリ (×)一.締縄七五三壱筋 神楽人帯ビル 一.締縄御湯ノ上ニ張ル 一.笹弐束御湯ニ用ユ 一.竹ノ柄ノ御幣 一.塩、洗米、酒』である。

ちなみに九月一日は初作座と称していた。

その日の早朝に二人の當家は氏神さまに参って三巻の般若心経を唱えていたようだ。

八日は御神渡を経て宵宮式と御湯之儀。

翌日の九日は座の名称はなく九日祭典であった。

こうした座の記載はあるものの「シンカン祭り」の文字は見られない。

いつから「シンカン祭り」と称したのであろうか・・・。

この日の御湯之儀が始まるまでは大当屋家では饗応があった。

座帳の写しにはその日の献立が記載されている。

平(ひら)には油揚、いも、みよが、かんぴょ、ごぼうの五品。

横付になすびのからしあえである。

七日の日に大当屋家がもてなす饗応。

それゆえに「七日座」と称していたのであろう。

(H24. 9. 7 EOS40D撮影)

和田町イセキの十九夜さん

2012年11月12日 07時37分43秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市和田町の集会所に集まった村の人たち。

子どもや孫も入れての家族ぐるみ。

それぞれの家族が輪になって会食をしている。

この日はイセキの集まり。

イセキと呼ぶ行事がある地域は県内東山中で散見する。

「イセキ」と呼ぶ地域に奈良市の別所町、南田原、日笠町、北野山町や山添村の切幡がある。

山添村の北野もかつてそう呼んでいたが行事は随分前に中断した。

また、「イシキ」と呼ぶ地域もある。

奈良市都祁来迎寺町だ。

「イセキ」を始めて聞いたときは「イシェキ」だった。

それは北野である。

「イセキ」から「イシェキ」。

それが訛って「イシキ」になったのだろうか。

「イセキ」や「イシキ」の本来は「エシキ」。

つまり「会式」である。

その名から伺えるのは仏寺行事。

寺で行われる処もあれば会所になった処もある。

「エシキ」の名で行われているのは天理市福住町の別所がある。

その殆どで聞かれた「イセキの盆踊り」。

村住民が寄ってきて夜中まで踊っていたと各地で聞いた。

村の楽しみだったイセキの盆踊りはいつしか消えていった。

和田町のイセキもそうであったようだが、昼間に集まって馴染みの顔が揃う会食の場に転じたのであろう。

現在は前月の風の祈祷の日に注文数を確認していたパック詰め料理であるが、かつては各家の献立料理を持ち込んでいた。

その日の会所は天神社の行事。

イセキの日は仏事のようで阿弥陀仏を安置している扉を開ける。

本尊であろう。

ローソクを灯して開放しているのだ。

その左側に安置されているのは如意輪観音の石仏。

そこにもローソクの火がある。

こうして仏さんの前で会食するのがイセキたつ由縁なのであろう。

和気あいあいと長らく歓談していた会場は仏さんの前を空けた。

婦人たちがその前に座って唱える十九夜さんに転じたのだ。

如意輪観音石仏が安置されている床の間に掲げたのは同じく如意輪観音の掛軸。



保管してあった和田町の和讃本を広げて唱える十九夜さん。

酒宴である会食の場で行われる十九夜和讃。

ざわめきの会場で唱える和讃は聞き取り難い。

そんな喧騒もお構いなしに唱えている婦人たち。

ゆったりとした調べで唱えた時間は7分間。

一同が手を合わせて終えた。

今では全員が同じ和讃本を唱えるが、かつては各家が持ち寄った和讃本であった。

古くは大正十年、十四年ものもあるが、昭和二十一年などもある。

如意輪観音石仏には赤いよだれ掛けがある。

子どもが生まれてほしいと願う人が掛けたという婦人たち。

願掛けのよだれ掛けは真新しい。

傍らに置かれた塔婆がある。

「奉高顕供養者為如意輪観世音菩薩十九夜講中家内安全祈攸 施主和田町講中」と願文を書かれたのは田原の里の十輪寺の住職。

こうした塔婆は奈良市大野町、南田原町とも同じだった。

和田町の十九夜さんは年に2回。

9月のイセキと正月の成人の日だ。

かつては毎月の19日に参っていた十九夜さん。

その日は村の集金日と兼ねていた寄合の場でもあった。

給与が銀行振り込みになった契機に集会をしなくなった。

そうした事情で9月と1月の村の行事に合わせて行うことにしたという。

(H24. 9. 2 EOS40D撮影)

<大正十年起の十九夜念佛本>
「きみよちよらへ 十九夜のう ・・・・(欠損)・・・
 ゑかなるしんの くらきよも
 ゑとわずたがわづ きだへなく
 十九夜をどふをへまいるべし
 とらの二月の十九日
 十九夜ねんぶつ はぢまりて
 十九夜ねんぶつ 申すなり
 ずゑぶに あらたに しよじんし
 をふしよしおじの ふだをうき
 しゑしてじよどへ ゆき人は
 みよほりんげのはなさきて
 十ぼう はるかにしづまりて
 ふきくる風もおだやかに
 天よりによゑりんくわんぜおん
 たまのてんがゑさし上げて
 八万ゆじよの ちの池は
 かるさの池と 見て通る
 ろくわんおんの そのうちに
 によゑりんぼさつの をんりひに
 あまねきすじよを すくわんと
 かなしきによにん あわりさは
 きさまですみしが はやにごる
 ずんざがしたの 池の水
 すすゑで 子をすたつ時は
 天もじゆじんも すゑじんも
 十九夜おどうへ いる人は
 ながくさんづの くわのがり
 ごくらくじよどへ いちらへず
 万ざかゑきの ななじようも
 ゑつか心も うかみきる
 きよ十九夜と ゑきとくに
 によらへ見えども ありがたや
 じしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへ くわんぜおん
 しよくしんりょぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ」

<大正十四の志ゅくねんぶつ本>
「十九夜念佛
 きみやう ちよらい 十九夜の
 ゆらいを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらき夜も
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜どうへまいるべし
 とらの二月十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九夜ねんぶつ もうすなり
 ずいふにあらたに しよじんせ
 おうしょしよじの ふだをうけ
 ししてじよどへいるときは
 みよほうれんげの はなさきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 ふきくるかぜも おだやかに
 てんよりによいりん くわんせおん
 たまのてんがい さしあげて
 八まんよじうの ちのいけも
 かるさのいけと みてとほる
 六わんおんの そのうちに
 によいりんぼさつの おんぢひに
 あまねくすじよを すくわんと
 六とうすじよに おたちあり
 かなしきにょにんの あわれさは
 けさまだすみしが はやにごる
 ばんざがしたの いけのみづ
 すすいでこぼす たつときは
 てんもじしんも すいぜんも
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ いるときは
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだがいけの なんじよも
 いつかこころも うつれける
 けふ十九夜と しきとくに
 によらいみいども ありがたや
 ずしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへや くわんぜおん
 そくしんぢよぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ
 なむあみだぶつ なむあみだ」

<十九夜念佛巻本>
「きみよちよらへ 十九やのー
 ゆらへを くわしく たづぬれば
 にょゑりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらき夜も
 いとわずたがわづ きたへなく
 十九夜をうとへまへるべし
 とらの二月の十九日
 十九夜ねん佛 はぢまりて
 十九夜ねん佛 もうすなり
 ずいぶに あらたに 志ようじんし
 をうしょしょじの ふだをうき
 しゑしてじょうどへ ゆく人は
 みよほりんげの花なさけて
 十ぼう はるかにしづまりて
 ふきくる風もをだやかに
 天よりにょいりんくわんぜをん
 たまのてんがいさしあげて
 八万ゆぅよの ちの池を
 かるさのいけと みてとふる
 六わんおんの そのうちに
 にょいりんぼさつの をんりひに
 あまねきすじよを すくわんと
 かなしきによにんの あわりさは
 きさまですみしが はやにごる
 ばんざがしたの 池の水
 すすゑでこぼす たつときは
 天もじゅしんも すゑじんも
 十九夜をどへ いるひとは
 ながくさんずの くわのがれ
 ごくらくじようどへ いちらへす
 まんざかいきの ながじょも
 いつか心も うかめきる
 きよ十九夜と しきとくは
 によらへみゑども ありがたや
 じしんのをやたち ありあれと
 すくはせ給へや くわんぜおん
 しょくしんりょぶつ なむあみだ
 十九夜ねん佛 なむあみだっ なむあみだ」

<昭和二十一年十九夜念佛帳>
「きみやちょらい 十九夜の
 ゆらいを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 雨の降る夜も 降らぬ夜も
 いかなるしんの 暗き夜も
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜お堂へまいるべし
 寅の二月十九日
 十九夜ねんぶつ 初まりて
 十九夜ねんぶつ 申すなり
 ずいぶに新に しよじんし
 おうしょしよじの ふだを受
 ししてじょどへ入る時は
 みよほうれんげの 花さきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 吹きくる風も をだやかに
 天よりによいりん くわんぜをん
 玉の天がへ さし上げて
 はちまんすじょうの 血の池も
 かるさの池と 見て通る
 六わんおんの 其の内に
 にょいりんぼさつの おんじひに
 あまねくすじょうを 救わと
 六堂すじよに お立ちあり
 かなしきによりんの あわれさは
 けさまだすみしが 早やにごる
 晩ざが下の 池の水
 すすいでこぼす 立つ時は
 天もししんも 水神も
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ 入る時は
 長く三寸の くをのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだが池の ながじょも
 いつか心も 移りける
 きょ十九夜と しきとくに
 によりんみいども ありがたや
 じしんの親たち ありありし
 救わせたまへや くわんぜおん
 そくぜんじょぶつ なむあみだ
 十九夜念佛 なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」

<昭和二十一年九月十九日十九夜念佛紙>
「きみようちよらい 十九夜の
 ゆらいをくわしく 尋ねれば
 によいりんぼさつの せいぐわんじ
 雨の降る夜も 降らぬ夜も
 いかなりししんの 暗き夜も
 いとわずたがわず きらいなく
 十九夜御堂へ 参るべし
 寅の二月十九日
 十九夜念 初まりて
 十九夜念佛 申すなり
 随分改め しよじんし
 おうしよしよじの 札を受け
 しして浄土へ入る人わ
 妙法れんげの 花咲いて
 十方はるかな 鎮まりて
 吹きくる風も をだやかに
 天よりによいりん 観世音
 玉の天がい 差し上げて
 八まんすじょうの 血の池も
 かるさの池と 見てとをる
 六わんおんの 其乃内は
 にょいりんぼさつの 御じひん
 あまねきすじよ すくわんと
 六どすじよの おたちあり
 かなしき女人の あわれさわ
 きさまだすみしや 早やにごる
 ○○わしたの 池の水
 すすいでこぼす 立つ時わ
 天もぜぜんも すいぜんも
 ゆるさせ給へや 観世音
 十九夜御堂へ 入る人わ
 永くさんづの 苦をのがれ
 ごくらくじょどへ いちらいす
 まんだら池の ながじよも
 いつか心が うかめける
 今日十九夜と しきとくる
 めわかめいどの ありがたき
 じしんの親たち ありありと
 すくわせ給いや 観世音
 しよくせん成佛 南むあみだ佛」

<十九夜念佛本>・・・印刷した和讃本を念仏
「十九夜念佛
 きみやうちよらい 十九夜の
 ゆらいをくわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいぐわんに
 あめのふる夜も ふらぬ夜も
 いかなるしんの くらきよも
 いとわずたがわず きだいなく
 十九夜おどーへまいるべし
 とらの二月十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九夜ねんぶつ もうすなり
 ずいぶにあらたに しよじんし
 おうしよしよじの ふだをうけ
 ししてじよどへいるときは
 みよほうれんげの はなさきて
 十ぽうはるかに しづまりて
 ふきくるかぜも おだやかに
 てんよりによりん くわんぜおん
 たまのてんかい さしあげて
 八まんすじようの ちのいけも
 かるさのいけと みてとほる
 六わんおんの そのうちに
 によいりんぼさつの おんじひに
 あまねきすじよを すくわんと
 六とうすじように おたちあり
 かなしきによにんの あわれさは
 けさまだすみしが はやにごる
 ばんざがしたの いけのみづ
 すすいでこぼす たつときは
 てんもじしんも すいぜんも
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九夜みいどへ いるときは
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじよどへ いちらいす
 まんだがいけの ななじよも
 いつかこころも うつりける
 きよ十九夜と しきとくに
 によいりんみいども ありがたや
 じしんのおやたち ありありと
 すくわせたまへや くわんぜおん
 そくしんじょぶつ なむあみだ
 十九夜ねんぶつ なむあみだ なむあみだぶつ なむあみだ」





野遊び⑤in矢田丘陵

2012年11月11日 09時41分26秒 | 自然観察会
今回の観察会は夕刻前から始まる。

里や野にいる虫の声。

鳴く虫を観察する時間帯は騒がしい日中の喧騒を避けて日が暮れるころに始まるのだ。

夜の観察に備えて草むらなどにいる虫を見ておく。

場所はといえば大和民俗公園。

矢田東村に近い広場が第一場。

集合時間は16時だった。

その時間帯は田中町で湯立て神事を取材していた。

大急ぎでやってきた広場には観察を済ませて少年自然の家に戻るときであった。

「いつの間に来ていたん」と云われる。

「そう、神出鬼没なんです」と答える。

久しぶりに見るT先生。

大きな声は100m先からでも聞こえてくる。

この日は後半しか参加できない重なり日。

小休止をとる間もなく観察に紛れ込む。

湿気でしょうか、衣服が汗でびっしょりの観察会であった。

夕食弁当を摂ってしばらくの休憩タイム。

夕陽も沈んで夜の佇まいに移った時間帯。

「虫を驚かさないように静かに歩きましょう」の声が聞こえたでしょうか。

虫の鳴き声を静かに聞く・・・そんなことに気を使うことない子供たちからは元気さをもらった日でもある。

ライトに照らされた昆虫に群がる子供たち。

まるで光りに誘われる虫のように見えたのは私だけか。

夜間の観察会は真っ暗。

ペンライトは虫を探すときだけに使う道具。

これを忘れてしまった観察会。

メモを残しておいたが判別できないぐらい文字は○□!△?☆・・・。



カマキリの眼は夜中になればサングラスになるのか。

それとも光りを当てるからサングラスになるのか。

よく判らないが、ぱっとライトが当たったときだけサングラスであったような・・・気がする。

ライトを消せば元に戻ったのか、確認のしようがない。

じっくり観察する時間がいると思ったが、行程は次に向う。



もう一匹現れたのはオオカマキリだ。

同じようにライトを当てればサングラス状態になる。

さてさて、だ。



次に現れたのはウマオイ。

メモを残していたから名前は判るが、一人で行くときゃ△?○□!☆だろう。

この日も附小の若手先生方が教育実習のための採集をされている。

これが見つかったとライトに照らしてくれたのがこれ。



少年自然の家近くの水田にいたというタイコウチだ。



さすがに附小の先生は眼が若い。

暗闇でも目利きができる。



これは一目で判るカブトムシのメス。

闇の中でじっとしていた。

三ノ矢塚を通り抜けて丘陵地へ向かった。

草むらには数々の鳴き声が聞こえてくるが、正体は判らない。

いつまで経っても耳利きができない。

あれは○、これは□と云われてもどれがどれやらさっぱり。

そんな場にいた昆虫。



タテハチョウ科目のツマグロヒョウモン♂だそうだが、文様が丸、四角、三角、五角形などなどで実にサイケデリックな文様に惚れ惚れする。

お休み中に起こしてしまって申しわけない。



じっと佇んでいたのはウスバキトンボ。

ストロボを当てすぎると真昼間のようになってしまった。

そうはならんようになんとか駆使して撮ったが、どうだか・・。

夜の虫の生態を撮るのは難しい。

私は見つけることができないが、子供たちは難なく探してくる。



これは夜の踊り子のように見えたクサキリだ。

この場に咲いているのが夜の花。



照らしぐあいをなんとかして撮ったカラスウリ。

夜に咲く花は怪しい姿に見えるのだ。



その場にいたのはコクワガタは小型のクワガタである。

そろそろ大合唱が聞こえてくる時間帯。

時計を見れば19時36分だった。

ガチャガチャ、ガチャガチャ、ガチャガチャ。

クツワムシが生息する地域に到着した。



これは後ろ姿のクツワムシ。

視線にはメスがいる。求愛しているオスの姿であった。

真っ暗な林道。

クロマドボタルが怪しい光りを放っている。

ちっちゃな姿はライトペンで探しても見つからない。

目を凝らしてじっと観察すれば、ジワーと見えてきたが、撮影は三脚がなければ無理だ。



クロマドボタルの撮影は諦めてトゲナナフシを捉えた。

これも附小の先生が見つけた。

真っ暗な中でようまぁ探しだすもんだと思うのである。

「よっ、達人」ってことだ。



ハヤシノウマオイは撮り逃がしましたが、ラストショーに魅せてくれたクツワムシ。

白くとじわー見えるのが激しく擦っているガチャガチャの発生源だ。

大汗をかいたが、一夜の観察に感動した。

(H24. 9. 1 EOS40D撮影)