マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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楢町薬師堂の薬師法会

2014年12月02日 09時13分29秒 | 天理市へ
天理市楢町の行事取材は楢神社ばかり、お火焚きの火舞神事御田祭り春季大祭であった。

それより数年前、楢町にあるかぼちゃ薬師の場を教えてもらったことがある。

夏場になれば初成りのかぼちゃを供える人があるらしいのであるが、いつ、誰が供えるのか不定だと聞いていた。

楢神社の取材のおりに貰った『楢町史』は昭和63年10月刊。

それには4月8日に融通念仏宗派の興願寺でアマチャのまつりがあると書いてあった。

その様子を知りたくて訪れたが行事の気配を感じることもなく立ち去ったことを覚えている。

付近を歩いていた婦人に尋ねても判らずであったが、5月8日は薬師講の寄り合いがあると話していた。

その婦人は講中に入ったばかり。

詳しいことは存知しないと云っていた。

そのような状況であったが、とにかく行ってみるかと思って出かけた楢町薬師堂。

そこはどなたもおられなかったが、興願寺本堂前でなにやら作業をされている男性がおられた。

声をかけてみれば楢神社行事でお世話になった神主さんだったのだ。

「よぅ、久しぶり」と笑顔で応えた神主さんに、「今日はなんですのん」と聞いた答えは「薬師講の講元もやっとてな、朝から法会の準備してるんや」と云うのだ。

寺住職がお堂に上がって念仏を唱える薬師法会をしていると云う。

講中は男性が数人で、ほとんどが女性たち。

合計で24人になると云う。

講中が揃う前に薬師堂に安置している仏さんを「撮っといて」と云われるが、ブログでは公開できない。

薬師堂はかつて興福寺社領の興願寺の脇侍寺。

享保二年(1717)の火災で興願寺は焼失した関係で、古文書も消えたため薬師堂の創建は明らかでないが、「鎌倉時代やった」と伝わるそうだ。

興願寺の再建は元治元年(1864)三月。

比較的新しく、安置仏は阿弥陀如来坐像である。

薬師堂安置仏は木造薬師如来坐像で台座に天保十一年(1840)の修理歴墨書があるそうだ。

修理願主は大和郡山の若槻村嘉兵衛と郡山町の忠兵衛。

なんでも耳や眼の病いが治ったので台座を修理したそうだ。

「しゃくの病い」を治すと信じられている薬師さんは、初成りのカボチャを供える信心があって、そのようなことからかぼちゃ薬師と呼ぶようになったと『楢町史』に記されている。

お堂にぶら下げているワニ口は文化四年(1807)の銘がある薬師堂は大正11年に改築後、平成のころから朽ちてきたことから、平成11年に再建したと云う。

そのときに薬師如来仏や弘法大師、行者像とともに塗り替えた。

落成した際に作った下がり藤紋の幕や五色の幕を掲げる。

お花は造花で、籠に盛って上から吊るしていた。



お供えはかぼちゃ薬師なので、かぼちゃそのものを細かく刻んで練り込んだネコモチだ。

黄色い色のネコモチ数本を盛っている。

保管していた香炉を探されたときのことである。

奥にアマチャかけのお釈迦さんが隠れていたのである。

「こんなとこにいやはったんや」と思ったのである。

講元らが線香に火を点けて講中に一人ずつ。



一本を受けとって順番にお参りをされる。



お堂の前に並べた椅子に座って法会が始まる直前にもお参りをされる講中である。

薬師さんは春日厨子に納められた瑠璃光薬師如来坐像。

厨子は塗り替えることなく、「昔のままや」と云う。



勤行は香偈、礼文、散華、日中、浄三業、懺悔文、開経偈、般若心経三巻、回向で「おんころころせんだりまとうぎそわか・・・」。



法会を終えれば興願寺に登って薬師講が摂待するすまし汁に入れたカボチャモチをいただく。



話題は楢町のことである。

寺前の民家屋外に立ててあった四角い大型の舟をご存じな方はおられたらと思って尋ねてみた。

持ち主は檀家総代の方だ。

今では使わなくなったジャコ採りの舟。



お爺ちゃんや父親が白川池や広大寺池に運んで池に浮かべた。

4、5人も乗れるぐらいのジャコ採り舟は安定が良くて投網がしやすかったと云う。

「そういやお爺ちゃんは牛の草鞋も作っていたな」と話していた。

(H26. 5. 8 EOS40D撮影)


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