マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭

2013年08月29日 06時43分55秒 | 御所市へ
蛇穴の野口行事の日は朝が早い。

夜が明ける前から始まった野口行事は太鼓打ち。

頭屋(トヤ)家垣内の役員らが集落を巡って合図する。

数時間に亘って地区を巡る振れ太鼓であったそうだ。

朝も6時になれば自治会館に集まってくる青壮年会(評議員)の人たち。

頭屋家を手伝う垣内の隣組の人たちも自治会館に集まってくる。

野口行事に参集する村の人たちを接待するご馳走作りに心を尽くして料理される婦人たち。

お揃いの帽子を被っている。

振る舞い料理の下ごしらえは昨日もされていた。

カラアゲの鶏は下味をつけてタレに浸けこむ。

ウインナーソーセージは飾りの切り込みを入れていた。

3日に搗いたモチは袋に詰めた。

なにかと忙しい婦人の作業である。

集合時間ともなれば、揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる村の男性ら。

そうしてやってきた三人の男性。



座敷に並んで座った区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と挨拶をされる当主の頭屋。

挨拶を受ける自治会館の炊事場では美味しそうな香りが漂っている。

一つ一つ割って玉子焼き。

出汁が良いのか、朝食を食べてきたにも関わらずお腹がサインを送る。

大鍋で煮たタケノコ、コンニャクなども良い香りだ。

口上を受けた人たちはこの日の朝まで野口の神さんを祀っていた頭屋家に向かう。



振れ回った太鼓は「昭和拾四年四月参拾日 新調 野口神社用」とある。

頭屋家の玄関前に置いていた。

お渡りの一行がやってくる前に駆け足で急いだ頭屋家。

前日に納めた蛇頭がある。

一行が到着するまでの僅かな時間に座った頭屋家の婦人。

この日を最後に神さんが野口神社、次の受け頭屋へ行く。



平穏無事に一年間も守り続けてきた安堵する頭屋家のご婦人。

お嫁さんととも座した祝いの記念写真を撮らせていただいた。

「野口神社」の高張提灯を掲げた頭屋家の手前で手拍子が始まった。

伊勢音頭である。「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。



一同は揃って一年間を祀ってきた頭屋の神さんに向かって頭をさげる。

今日のお祝いに区長が一節歌う謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという。「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして頭屋家の御礼挨拶を述べたあとに蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に桶に納めたご神体の龍(蛇穴ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長。

提灯、蛇担ぎの一行はドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせて野口神社を目指してお渡りをする。

集落の道を通り抜けて旧家の野口本家が建つ集落道をゆく。



高張提灯は鳥居に括りつけて、ご神体の龍は本殿前に置く。

頭屋家で一年間守ってきた神さんは一年ぶりに本殿に戻ったのである。



拝殿内には蛇頭も置かれてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓に移動するので、僅かな時間帯だけの蛇頭の立ち位置である。

まずは、櫓を組んだ場所に蛇頭を穴から引き上げる。



長い胴体になる「ホネ」が三本。

ぶら下げた状態で見ればまるでダイオウイカである。

モチワラを継ぎ足して胴体を作っていく。

掛け声を揃えて三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという胴体作りは力仕事。

およそ2時間半も続く。

その間のご神体は新しく掛けた注連縄下の本殿で静かに見守っている。

大きな鏡餅、米、塩などを盛った器にタケノコ、ダイコン、ニンジン、ナスビなどの生御膳がある。

野菜の生御膳は立て御膳だ。

パイナップルやリンゴなどの果物もある。

中央にはのちほど作り立てのワカメ汁を入れる椀もある。

その前が桶に大量に盛った紅白のモチである。

中央には汁かけ祭で営まれる杉葉の祭具もある。

一方、接待料理をこしらえていた炊事場奥の部屋にはできあがった料理を大皿に盛っていた。

作業を手伝ってくれた人たちや村人に振舞う頭屋家のご馳走である。



タケノコ、コンニャク、キュウリ詰めのチクワ、カマボコ、サツマアゲ、ゴボウテン、コーヤドーフ、ウインナーソーセージに玉子焼きだ。

別途にカラアゲもある。

これらは神主・評議員が座る社務所、宮さんの広場、子供の広場、曳き手・青壮年・青年団らが飲食する自治会館用に分けておく。



運び間違いがないように場所を示す札も付けておく。

汁かけ神事に仕掛けるワカメ汁は大釜で作られた。

四方竹で囲われた神事の場に据えた大鍋にできたてのワカメ汁が注がれる。

一杯は黒い椀に盛ってご神体を祭った場に置く。

そうして始まった野口行事の神事は関係者が拝殿に集まって執り行われる。

神事を終えた神職は胴体とともに境内に持ちだされた蛇頭を祓う。



一升びんすべてのお神酒を蛇頭に注ぐ。

赤い目、赤い口がとても印象的だ。

集落を巡行する安全を祈願する祓い清めだと思われる作法である。

そして、神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った杉の葉を持つ鴨都波神社の神職。

シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。



それを参拝者に向けてぱぁーと振った。

各地で見られる御湯(みゆ)儀式の湯祓いのようだ。

左右にひと振り、ふた振り、み振りの僅か3秒で行われた一瞬の作法である。

身を構える余裕もなくワカメ汁を被る参拝者たち。

邪気祓いとも思える汁かけ祭の神事はこうして終えた。

なお、ワカメ汁の汁かけ儀式は、平成2年より形式が整えられた作法と聞いている。

前日の蛇頭作りの際に拝見したかつての湯釜。

区長総代らの了解を得て釜の刻印を確認した。

15年前に社務所を建て替えた際に発見された湯釜だそうだ。

湯釜をどのように使っていたか、時期も伝承もなく不明であるが、「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田(こめだ)磯七 文化十四年(1818)九月吉日 淠(津)田大名(和)大様(掾) 藤原定次」とある。

大切なものと判断された湯釜は三本脚。

一本が欠損していたことから倒れないように特注のガラスケースで収納している。

刻印の周囲全容が判るように動かしてくださった区長総代に感謝する貴重な湯釜である。


(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

三室村はどこにあるのか。

村人に尋ねた結果は蛇穴から国道を越えた西北地にこんもりとした森が見える。

そこは孝昭天皇山上陵。

在地の大字は三室。

小高い丘に坐ます御陵がある「三宝塚」とも呼ばれる台地の小字は博多山だ。

三室は御室を意味していたのである。

その辺りかどうか判らないが、湯釜を寄進した頭主は米田(こめだ)磯七だと記す刻印である。

およそ200年前には御湯の儀式があったのか定かでないが湯釜の製作者は津田大和大掾藤原定次に違いない。

津田大和大掾藤原定次は香芝市五位堂に代々続いた鑄物師。

五位堂は香芝市下田鑄物師のあとを受ける形で16世紀末から17世紀初頭にかけて台頭してきた。

慶長十九年(1614)、「国家安康」で著名な京都方広寺大佛殿の梵鐘鋳造がある。

協力した脇棟梁鑄物師の一人が五位堂の津田五郎兵衛。

功績が認められ「藤原求次周防少掾」の名を賜わった。

津田家子孫はその後の享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の呼名許状を拝領したと伝わる。

蛇穴に残された湯釜の「藤原定次」は名を継いだ後裔であろう。

「文化五年(1808) 明日香村 岡寺鐘 禁裏御鋳物師 大和大目藤原定次 津田五郎兵衛 周防少掾藤原末次 杉田六兵衛石見掾藤原昌次 小原善次郎」の記銘があるという明日香村岡寺の鐘。

蛇穴の湯釜製作とほぼ同時期の製作者である大和大目藤原定次だ。

湯釜がどのような形式で祭事されたか判らない野口神社の遺物。

新暦ではあるが、9月の末に行われる宵宮祭がある。

詳細は聞いていないが、トヤ提灯を掲げて御膳帳を披露するようだ。マツリの宵宮祭は10月4日。

そのときであったのかも知れない。

かつてはその宵宮祭において御湯神事があったと推定したのだが果たして・・・。

蛇穴地区にはかつてススキ提灯があった。

御所や葛城圏内の広い範囲で見られるススキ提灯。

地区によっては十二振り提灯と呼ぶこともある。

戦前までは氏子域の鴨都波神社のマツリに出仕していたススキ提灯。

戦時中にあった砲火。

葛城の二上山(ふたかみやま)の向こうの大阪が焼夷弾によって真っ赤になった。

昭和20年3月のことだ。

蛇穴では防空頭巾を被って竹ヤリで防戦しようとしていた練習の場は墓地である。

藁人形を作って竹ヤリで突いていた頃は、二カ月後の5月であったと話す高齢者たち。

汁かけ祭を終えれば頭屋が接待する振る舞い食の直会。

手伝いさんらが作っていたご馳走をよばれる。

ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらう頭屋の接待食は大賑わいだ。

村人の接待食であるにも関わらず、一般の人たちが我も我もと先に群がっている。

地域の行事に大勢が集まることは好ましいが、その様相が見苦しく心が痛む。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

12時の出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込む青年団長。

三代目の団長が着こなす法被は代々の引き継ぎ。

歴史を物語るかのような色合いになった。

団長に続いて駆けずり回る太鼓打ちの団員の汗が噴き出す。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体をそのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

野口神社を出発して北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家の野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周する。

太鼓、笛、掛け声は遠くの方まで聞こえている。



戻ってきた蛇曳きの一行は北上して南口垣内辺りを練り歩く。

1時間後、1回目の休憩場で休息をとる。



例年5月5日は天気が良い。

日射も厳しく暑さが堪える。

飲み物やアイスキャンデーに潤う曳き手たちのやすらぎ時間は短時間だ。

南口からは東口、中垣内、北口、西垣内、中垣内の順で六垣内を巡行する。

藁で作ったジャの長さは全長が13m。

胴体だけでも10mもある。

胴体の径は20cmでウロコ部分も加えると50cmにもなるジャである。

Y氏とともに計測した蛇頭は径が30cmで長さは70cmであった。

野口本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されていると聞く。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。

桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと家屋の土壁を打ち抜いているのだ。

木製の扉は閉まったままで、土壁がもろくも崩れてボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図である。

その件について尋ねた當麻のY氏の答えはこうだ。

ジャはどこなりと通り抜ける。

土塀に穴を開けたのもジャが通る道だ。

邪悪なものは何でもかんでも、このように土壁を崩してでも通すのである。

その絵図の土塀は本家の野口家の門屋口であるかも知れないと話す。


(H24. 5. 5 EOS40D撮影)

一軒、一軒巡って太鼓を打つ。

ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れた青年団はピッピの音とともにすばやく立ち去る。

そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。



その姿はまるでフライングしているかのようなジャである。

旧家である西京本家にも祝いのジャがなだれ込む。

そこからは北口垣内だ。



墓地向こうの民家にもジャを曳いてきた一行は疲れもみせず巡行する。

中垣内辺りに着くころは15時を過ぎていた。



何度も何度もジャを振り上げる子供たちは常に元気である。

およそ100軒の旧村を含め新しく住みついた新町の家も巡ってきた。

蛇穴の集落全域を巡るには3時間半以上もかかる。



もうひと踏ん張りだ。



平成16年に頭屋を務められたMさんも笑顔で応えて祝儀を手渡す。

ご主人とお会いするのも実に久しぶりである。

ほぼ10年前のことを覚えてくださっていたご主人の手を握った感謝の握手である。

その年に撮影したひとこまは『奈良大和路の年中行事』で紹介した。

紙面スペースの関係で短文になったことをお詫びする。

昔は頭屋が村の人にワカメ汁を掛けていたと話す額田部に嫁入りしたS婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。

そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代の様相である。

雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちがいる。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行ったり戻ったりで前進後退を繰り返してきた。



蛇穴の家々の邪気を祓ったジャは野口神社に戻ってきた。

なぜか今年の頭屋受けをする家には向かわなかった。

これまでは垣内を12組にわけた1組から12組の回りであった。

翌年からは13組も加わるそうだ。

これまでは手伝いさんは垣内の隣近所であったが、村全体の行事にすべく手伝いさんは村の組、それぞれが担うことになるだろうと話す。

村行事の在り方の改革である。



戻ってきた太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技である。

曳いてきたジャは蛇塚石に巻き付けて納めた。

昭和30年代までの蛇巻きの場は鳥居下であったと話す村人。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受け頭屋には向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

およそ30分で戻ってきたご神体を桶にとともに頭の上に掲げて旧頭屋を先頭に受け頭屋家に向かう。

西日が挿す時間帯の行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団。



ひと目見ようと村の人が門屋の前で出迎える。



受け頭屋の座敷へあがりこんだ一行は、野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った。

拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など厳かに神事が行われる。

こうして頭屋渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく分霊神を受けた受け頭屋も御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。

最後に頭屋家の振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

こうした蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭の行事の様相を季刊雑誌の奈良地域づくりマガジン『俚志(さとびごころ)』の夏号に掲載させていただいた。

地域研究会俚志の編集長の願いで今特集の「地域の絆を支える祭り」に寄せた事例のひとつ。

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(H25. 5. 5 EOS40D撮影)


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