毎年5日は下三橋のノガミサン。
大和郡山市内に唯二残る野神の行事である。
施主さんが長年続けられてきた行事は、前年から引き継いで自治会運営に移された。
肩の荷を下ろされた施主さんもやってくる。
以前は朝の4時半ころだった。
朝日が昇る前の時間帯だ。
「もっと遅くできないか」と意見がでて、開始時間を遅らせた。
ノガミさんを祀るヤカタは建てなおすこと2回目。
銅板の屋根は25年ほど前に張ったそうだ。
「おじいさんがやっていたときは、朽ちたような建物で、もっと小さかった」と話す施主さん。
かつてはこの地よりも南方の住宅地の中にあったそうだ。
そこの小字に西野神と東野神の字名があるからそうなのであろう。
店じまいしたAコープ辺りはタイコデン。
東野神の東側は神楽田の字名もある。
さらにその東側は油田の名もある。
また、馬場障子や的場の字名もある下三橋。
小字に名は残されたが、面影を示すものは見られない。
当時のノガミの地はM家の本家だったそうだ。
昭和初期のころはそこにあったという。
その地は国に譲って移転した。
昭和19年生まれの男性が云うには、ヤカタごと運んで現在地の佐保川土手に移したそうだ。
お札を納めていたという記憶もあるが、無かったと語る人もいる。
かつては牛を連れて参っていたノガミサン。
角に赤い布を巻き付けていた。
牛はよく暴れていたと語る村人たち。
ノガミサンにはチマキを作って供えた。
洗い米、塩、お神酒も供える。
ヤカタの屋根にはショウブとヨモギ。
それぞれ2束ずつだ。
ローソクに火を灯して参拝する。
施主に合わせて自治会役員も手を合わせる。
祝詞奏上も唱えることなく神事はあっという前に終わる。
下三橋の田植えは6月27日、28日辺りだった。
麦を栽培していたのでそれぐらいの日だった。
刈りとった麦を乾かしていたら、大雨で水ツキになった。
せっかく乾かした麦が川に流されていったというから梅雨まっただ中だったろう。
下三橋から東へ3km。
『帯解町郷土誌』によれば夏至のころが田植えの真っ最中だったというから、かつて二毛作の時代はそうであったのだろう。
ちなみにO家では、4月21日にヨゴミダンゴを搗いていたという。
ヨゴミはヨモギが訛ったもの。
モチゴメを入れて搗いたそうだ。
(H24. 6. 5 EOS40D撮影)
大和郡山市内に唯二残る野神の行事である。
施主さんが長年続けられてきた行事は、前年から引き継いで自治会運営に移された。
肩の荷を下ろされた施主さんもやってくる。
以前は朝の4時半ころだった。
朝日が昇る前の時間帯だ。
「もっと遅くできないか」と意見がでて、開始時間を遅らせた。
ノガミさんを祀るヤカタは建てなおすこと2回目。
銅板の屋根は25年ほど前に張ったそうだ。
「おじいさんがやっていたときは、朽ちたような建物で、もっと小さかった」と話す施主さん。
かつてはこの地よりも南方の住宅地の中にあったそうだ。
そこの小字に西野神と東野神の字名があるからそうなのであろう。
店じまいしたAコープ辺りはタイコデン。
東野神の東側は神楽田の字名もある。
さらにその東側は油田の名もある。
また、馬場障子や的場の字名もある下三橋。
小字に名は残されたが、面影を示すものは見られない。
当時のノガミの地はM家の本家だったそうだ。
昭和初期のころはそこにあったという。
その地は国に譲って移転した。
昭和19年生まれの男性が云うには、ヤカタごと運んで現在地の佐保川土手に移したそうだ。
お札を納めていたという記憶もあるが、無かったと語る人もいる。
かつては牛を連れて参っていたノガミサン。
角に赤い布を巻き付けていた。
牛はよく暴れていたと語る村人たち。
ノガミサンにはチマキを作って供えた。
洗い米、塩、お神酒も供える。
ヤカタの屋根にはショウブとヨモギ。
それぞれ2束ずつだ。
ローソクに火を灯して参拝する。
施主に合わせて自治会役員も手を合わせる。
祝詞奏上も唱えることなく神事はあっという前に終わる。
下三橋の田植えは6月27日、28日辺りだった。
麦を栽培していたのでそれぐらいの日だった。
刈りとった麦を乾かしていたら、大雨で水ツキになった。
せっかく乾かした麦が川に流されていったというから梅雨まっただ中だったろう。
下三橋から東へ3km。
『帯解町郷土誌』によれば夏至のころが田植えの真っ最中だったというから、かつて二毛作の時代はそうであったのだろう。
ちなみにO家では、4月21日にヨゴミダンゴを搗いていたという。
ヨゴミはヨモギが訛ったもの。
モチゴメを入れて搗いたそうだ。
(H24. 6. 5 EOS40D撮影)