三日目は嘉吉祭の神饌・御供作りの最終日。
文様が美しい和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供作りは最後の調製に入っていた。
全神経を集中させる作業を撮っていたNHKの取材クルー。
この夜に訪れた二人の写真家に「ストロボを焚かずにお願いします」と伝えて作業の隙間を撮らせてもらう。
果実盛りの御供には最上部に緑、赤、黄に染めた米を乗せる。
薄く切ったダイコン?を敷いて染め御供を手でパラパラと落とす。
落とす直前には米御供が動かないように竹ヘラで糊を広げておく。
子供も手伝っている米御供落としであるが、糊付けや色遣いは大人の繊細さが要る。
一方、主たる4本の和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供も最後の調製に入っていた。
赤、黒、黄、白に彩色された垂木餅の一枚、一枚を糊でくっつける。
一周すれば、まるで広がる羽根かプロペラのように見える。
丸切りの餅を挟んでさらにもう一段を重ねて調える。
さらに上にも餅を乗せて赤い実を周囲に並べる。
中央の空間は果実盛りと同じように米の染め御供を落とす。
糊を塗って動かないようにして出来あがる。
取材クルーの狙いは和稲作り。
大部分はこれまで自宅で一人作業。
静寂の宅間で作業をする。
この日は上部の飾り付け。
色付けした垂木餅の小片は息を止めるくらいにそろりと乗せる。
その姿をがっちり撮ってできあがれば製作者のインタビュー。
作る難しさなどを収録して、最後はあーしてください、こうしてくださいの画面作り。
終わったのは夜8時半が過ぎていた。
和稲の文様は多武峯妙楽寺仕様と考えられるの「卍」型や「◇」型、「△」型に六辺形などの幾何学模様。
それぞれが彩色されており、いずれも美しい円柱である。
「ここが難しいのよ」と指さす村の職人たち。
手ほどきを教わってきた作り方。
代々の先人たちから受けて継いできた作りはこうして今年もできあがった。
嬉しさと喜びが込み上げる。
取材クルーが引き上げても、細かい部分を手直しされる婦人の手は食用紅で染まっていた。
なお、荒稲(あらしね)は既に完成している。
自宅で一人、精魂込めて作られた。
長い稲穂の芒(のぎ)を用い、毛は逆立ち、荒々しい形状に見えることから「毛御供(ごく)」とも呼ばれている。
刳り木の台に載せた下部はギンナンにカヤの実。
粳(うるち)を使った白穂にモチ米を使った黒穂の芒(のぎ)が美しい。
天頂にそれぞれ真っ赤なホオズキを添えているが、右は剛毛のように見える。
なお、調製した御供は祭典当日の朝に社殿に移される。
その際だと思うが、果実盛りや和稲の天長にはトウガラシ、ピーマン、スダチなどを挿しておくと話していた。
調査時間がとれず和稲・荒稲とも高さ・直径などを計測し忘れた。
四角い大きな餅は二日目に当家が2升のモチゴメで搗いた。
倉餅(くらもち)と呼ばれる餅は三日目に色付けされる。
緑、赤、黄の彩色は三角形。
祭典後に切り分けて御供提供者に分配される。
六辺形の小片餅は垂木餅と呼んでいる。
これは家が建つほどに富み繁栄するように願った餅であると長岡宮司が話していた。
つまり、「倉(若しくは蔵)」の屋根を支える垂木(たるき)を模した倉餅なのである。
果実盛の御供作りにストロボを炊いたのは取材クルーが去ってからだ。
クルーがとらえた映像は「新日本風土記」で放映される。
1年後或いは2年後にもなるかもしれないと云う。
おそらく四季折々の風景を撮って繋いでいくのだろう。
半年後の平成27年4月7日に「新日本風土記」の取材デイレクターが送ってくれたハガキが届いた。
編集された映像が4月10日に放映されるという案内である。
「その節はフラッシュなどお心遣い、ご協力をいただきありがとうございました」とあった。
これまで何度かテレビ取材とご一緒させていただいたことがあったがお礼のハガキを送ってくださったのはこの人だけだ。
電話をかけて逆にお礼を伝えた。
(H26.10.10 EOS40D撮影)
文様が美しい和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供作りは最後の調製に入っていた。
全神経を集中させる作業を撮っていたNHKの取材クルー。
この夜に訪れた二人の写真家に「ストロボを焚かずにお願いします」と伝えて作業の隙間を撮らせてもらう。
果実盛りの御供には最上部に緑、赤、黄に染めた米を乗せる。
薄く切ったダイコン?を敷いて染め御供を手でパラパラと落とす。
落とす直前には米御供が動かないように竹ヘラで糊を広げておく。
子供も手伝っている米御供落としであるが、糊付けや色遣いは大人の繊細さが要る。
一方、主たる4本の和稲(にぎしね)と呼ぶ米御供も最後の調製に入っていた。
赤、黒、黄、白に彩色された垂木餅の一枚、一枚を糊でくっつける。
一周すれば、まるで広がる羽根かプロペラのように見える。
丸切りの餅を挟んでさらにもう一段を重ねて調える。
さらに上にも餅を乗せて赤い実を周囲に並べる。
中央の空間は果実盛りと同じように米の染め御供を落とす。
糊を塗って動かないようにして出来あがる。
取材クルーの狙いは和稲作り。
大部分はこれまで自宅で一人作業。
静寂の宅間で作業をする。
この日は上部の飾り付け。
色付けした垂木餅の小片は息を止めるくらいにそろりと乗せる。
その姿をがっちり撮ってできあがれば製作者のインタビュー。
作る難しさなどを収録して、最後はあーしてください、こうしてくださいの画面作り。
終わったのは夜8時半が過ぎていた。
和稲の文様は多武峯妙楽寺仕様と考えられるの「卍」型や「◇」型、「△」型に六辺形などの幾何学模様。
それぞれが彩色されており、いずれも美しい円柱である。
「ここが難しいのよ」と指さす村の職人たち。
手ほどきを教わってきた作り方。
代々の先人たちから受けて継いできた作りはこうして今年もできあがった。
嬉しさと喜びが込み上げる。
取材クルーが引き上げても、細かい部分を手直しされる婦人の手は食用紅で染まっていた。
なお、荒稲(あらしね)は既に完成している。
自宅で一人、精魂込めて作られた。
長い稲穂の芒(のぎ)を用い、毛は逆立ち、荒々しい形状に見えることから「毛御供(ごく)」とも呼ばれている。
刳り木の台に載せた下部はギンナンにカヤの実。
粳(うるち)を使った白穂にモチ米を使った黒穂の芒(のぎ)が美しい。
天頂にそれぞれ真っ赤なホオズキを添えているが、右は剛毛のように見える。
なお、調製した御供は祭典当日の朝に社殿に移される。
その際だと思うが、果実盛りや和稲の天長にはトウガラシ、ピーマン、スダチなどを挿しておくと話していた。
調査時間がとれず和稲・荒稲とも高さ・直径などを計測し忘れた。
四角い大きな餅は二日目に当家が2升のモチゴメで搗いた。
倉餅(くらもち)と呼ばれる餅は三日目に色付けされる。
緑、赤、黄の彩色は三角形。
祭典後に切り分けて御供提供者に分配される。
六辺形の小片餅は垂木餅と呼んでいる。
これは家が建つほどに富み繁栄するように願った餅であると長岡宮司が話していた。
つまり、「倉(若しくは蔵)」の屋根を支える垂木(たるき)を模した倉餅なのである。
果実盛の御供作りにストロボを炊いたのは取材クルーが去ってからだ。
クルーがとらえた映像は「新日本風土記」で放映される。
1年後或いは2年後にもなるかもしれないと云う。
おそらく四季折々の風景を撮って繋いでいくのだろう。
半年後の平成27年4月7日に「新日本風土記」の取材デイレクターが送ってくれたハガキが届いた。
編集された映像が4月10日に放映されるという案内である。
「その節はフラッシュなどお心遣い、ご協力をいただきありがとうございました」とあった。
これまで何度かテレビ取材とご一緒させていただいたことがあったがお礼のハガキを送ってくださったのはこの人だけだ。
電話をかけて逆にお礼を伝えた。
(H26.10.10 EOS40D撮影)