マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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東佐味茶屋出垣内のとんど

2014年06月27日 07時20分37秒 | 御所市へ
鴨神下垣内住民に教えてもらった東佐味のとんどは3カ所で行われている。

すでに北垣内・南垣内の2カ所は火点けされて残り火。

時間的にも間に合わないと判断して思ってモーテル付近に出かけた。

平成5年辺りに建てられたモーテルは「御所ホテル リトルチャペルクラシック」である。

それより僅か北側は風ノ森だ。

そのモーテル西傍に立ててあったとんどは茶屋出垣内。

とんどの横には門松もあった。

しばらくすれば、何人かがやってきた。

高鴨神社に飾っていた門松をいただいて一緒に燃やすと云う。

当番の人が持ってきたゴゼン(御膳)はお神酒、洗い米に塩だ。



導師が前に立って大祓えの詞を3度唱和された。

とんどを立てた通り道はアスファルトになっているが、古来行き交う人が多かった街道。

面影は見られないが、高野街道だと云う。

当時往来する旅人に摂待する茶屋を営んでいた家は今でも屋号は「まっしゃ」と呼んでいる。

名字が益田やから「まっしゃ」で通っていると話すのは弥勒寺の檀家総代の一人。

毎年、4月18日に山の上にある峰山百体観音で観音祭をしていると云う。

「今年は奇麗にしたので見にきてくれや」と話す百体観音は西国・坂東・秩父の写し霊場。

103体もあるという観音さんはレンガ造りの祠で囲っていると云う。

「落慶法要をしますんや」と云っていた。

かつては峰山こと、観音山の広場で稽古した村芝居もしていたと云う観音祭。

相撲もあった祭りはそうとうな賑わいであったと話す時代は昭和26年頃の様相である。

とんどの煙がなびく右側の山がそうである。

子供が少なくなった茶屋出垣内のとんど。



昔しは小学校が終わった夕方ぐらいに行っていたが、今ではそれより早い15時に点火をすると云う。

かつては子供が大勢やってきた。

とんどの火に習字の書を翳して天に向かって飛ばした。

それは「天筆(てんぴつ)」の名があると云う。



燃えたとんどの火はランタンで持ち帰る人もおられた。

以前は提灯が多かったようだが、今は僅か数人になったと云う。

下火になれば先を割いた二股の竹にモチを挿して焼いていく。



その場で食べるモチ焼きである。

「そういえばモチ焼くときに「ブトノクチ カノクチ 云々」とかの台詞があって、千切ったモチをとんどに入れてたな」と話す人もおられたが行為はなかった。

72歳の男性が云うには、「持ち帰ったとんど火で荒神さんや竃の神さんにおました。翌朝はアズキ粥を炊いて一年間の無病息災を祈った。穂があるカヤススキを刈り取ってきて、それを箸代わりにアズキ粥を食べている」と云う。

「アズキ粥はビワの葉を小皿代わりに載せて、実が成るカキとかミカンの木の下に供えている」とも云う。

「おばあさんがおった頃は門屋の両脇にもおました」と話すとんどとアズキ粥の風習だ。

「アズキ粥を炊いているときは鍋蓋から噴きこぼれないようしやんとあかん。大風が吹いて米の出来が悪くなる」とおばあさんに云われたことを話してくださった。

そのおばあさんは田んぼの苗代作りをする場に12本のカヤススキを立てていたそうだ。

それはしなくなったが、11日の早朝にはオカガミを苗代場に供えていると話す。

ここでもとんど火とアズキ粥の風習があったことを知ったのである。

男性が話した正月のモチ搗き。

12月30日に杵で搗いたモチは高鴨神社に供えると云う。

そういう話しを聞いていた16時頃、高台で煙が上がった。

高天(たかま)でもとんどが始まったようだ。

(H26. 1.14 EOS40D撮影)