6月ともなれば村の人がめいめいでこしらえたチマキを供えていた室生無山の九頭神社。
節句の習わしであったと思われる日は6月5日だった。
今はそれもしなくなったと話す氏子たちは1日に参るツイタチ参りは欠かせない。
ツイタチを充てる漢字は朔日であろう。
村の行事は負担がある。
何年か前に改正されてチマキを作って供えることもなくなったと話す。
挽いた米粉を水で練る。
蒸した米粉は笹の葉(カヤかも)に包む。
崩れないようにイグサ(藺草)で巻く。
5本ずつ作って2束。
合計で10本のチマキを供えた後に食べる。
そのままでは堅くて味気もないから蒸してからゴマシオで食べるのが一番美味いと口々に話す婦人たち。
かつては毛掛けのコモリに供えていた御供があった。
三角の形にしたご飯は、その形から「スズキ」と呼んでいた。
稲刈りを終えて刈りとった藁を積んでいる。
その姿は県内各地で「ススキ」若しくは「スズキ」と呼んでいた。
その形状から名付けられた「スズキ」のご飯であった。
いつしか「スズキ」は洗い米に小豆をぱらぱらと落とした朔日参りでの御供に替った。
かつては「スズキ」に「セキダモチ」もあったと話す婦人も居た。
朔日参りは朝8時半ころに集まって参籠所で歓談をしていた。
4月にはヨゴミ(ヨモギ)でヒシモチを搗いた。
形は二段で上には白い丸餅を置いていたという。
これも村の改正でしなくなったと話す。
隣村の上笠間では田植えを終えた残りのナエサンを広げてカシワモチの葉を置いた。
葉にはご飯を乗せてキナコを掛けていたという。
出里のことだから今ではしていないと思うと云う。
そのような農村の風習を聞いた参籠所には木製の手桶があった。
マツリの際に使われていたと想定される手桶は使っていない。
そこには木で作られた当番札がある。
昭和22年9月1日に作られた当番札には「献燈順番札」とある。
九頭神社の毎月朔日、15日は「さへ」の日。
この日の朔日参りもそうであった。
当番の札が回ってきた家は九頭神社に献火を灯す「サヘの献燈桶」である。
(H25. 6. 1 SB932SH撮影)
節句の習わしであったと思われる日は6月5日だった。
今はそれもしなくなったと話す氏子たちは1日に参るツイタチ参りは欠かせない。
ツイタチを充てる漢字は朔日であろう。
村の行事は負担がある。
何年か前に改正されてチマキを作って供えることもなくなったと話す。
挽いた米粉を水で練る。
蒸した米粉は笹の葉(カヤかも)に包む。
崩れないようにイグサ(藺草)で巻く。
5本ずつ作って2束。
合計で10本のチマキを供えた後に食べる。
そのままでは堅くて味気もないから蒸してからゴマシオで食べるのが一番美味いと口々に話す婦人たち。
かつては毛掛けのコモリに供えていた御供があった。
三角の形にしたご飯は、その形から「スズキ」と呼んでいた。
稲刈りを終えて刈りとった藁を積んでいる。
その姿は県内各地で「ススキ」若しくは「スズキ」と呼んでいた。
その形状から名付けられた「スズキ」のご飯であった。
いつしか「スズキ」は洗い米に小豆をぱらぱらと落とした朔日参りでの御供に替った。
かつては「スズキ」に「セキダモチ」もあったと話す婦人も居た。
朔日参りは朝8時半ころに集まって参籠所で歓談をしていた。
4月にはヨゴミ(ヨモギ)でヒシモチを搗いた。
形は二段で上には白い丸餅を置いていたという。
これも村の改正でしなくなったと話す。
隣村の上笠間では田植えを終えた残りのナエサンを広げてカシワモチの葉を置いた。
葉にはご飯を乗せてキナコを掛けていたという。
出里のことだから今ではしていないと思うと云う。
そのような農村の風習を聞いた参籠所には木製の手桶があった。
マツリの際に使われていたと想定される手桶は使っていない。
そこには木で作られた当番札がある。
昭和22年9月1日に作られた当番札には「献燈順番札」とある。
九頭神社の毎月朔日、15日は「さへ」の日。
この日の朔日参りもそうであった。
当番の札が回ってきた家は九頭神社に献火を灯す「サヘの献燈桶」である。
(H25. 6. 1 SB932SH撮影)