マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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ちゃんちゃん祭のお旅所祭典

2013年07月23日 09時03分21秒 | 天理市へ
神遷しの儀式が始まったその間、一段低い広場ではシートを広げて各大字が座って会食をする。

その場は大字の旗を立てている。

雨天の日となった場合は座の会食の場は中断されたこともあったと話す座中。

ある年では降った雪が積もったこともある。

その日は中断でなく実行されたと三昧田の座中が話していた。



爽やかな風が吹いてクルクル回るカラフルなカザグルマ(風車)が見られる佐保庄と三昧田の座。

頭人児の脇にそれぞれ2本だ。

兵庫はカザグルマでなく風車のないハナカザリである。

この年の三昧田の羽根は6枚だが、佐保庄は4枚。

羽根の枚数は特に決まりがないようだが羽根がない「ハナカザリ」とする兵庫が原型のように思えた。

それぞれ鏡餅やパック詰め料理がある。

箸といえばハコヤの木で作った中太の箸である。

ちなみに佐保庄の座では二束の粽を添えている。

大字の座は毎年替る。

聞くところの話では座の場を決めるのは大字中山だそうだ。

中山はその場でなく御旅所坐神社の西側にある歯定大権現を祀る鎮守社の歯定(はじょう)神社である。

その建物内が中山の座なのである。

中山の会食献立は決まっている。

ソーメンとセキハン(赤飯)、シロメシ(白飯)の握り飯だ。

雨が降るようにという縁起かつぎのソーメンだそうだ。

佐保庄の宵宮参りの際に同行取材させていただいた雑賀耕三郎氏の案内で先駆を勤めていた年預が持つ平鉦を拝見した。



「天下一常陸大掾宗味作」の文字が刻印されていたちゃんちゃん鉦である。

かつて大和神社の神宮寺であった長岳寺山主は岸田市場に鎮座する休み場での祭典を終えるころに合流して、平鉦を叩いてお渡りの隊列に加わったとされる。

現在では参列することなく鉦を打つのは宮総代の年預総務が勤める先駆である。

拝見した平鉦の作者名。

「常陸」の国の「大掾宗味」と名乗る人物である。

「天下一」の称号は織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものである。

手鏡などに「天下一」の刻印があることはよく知られている。

カマ納めのカリヌケの際に拝見した大和郡山市の田中町に住む人が所有していた手鏡には「千鳥」の文字とともに「天下一藤原政重」の名が刻まれていた。

年代を示すものは見られなかったが「天下一」の一事例である。

やがて江戸時代ともなれば新しく生みだされた鋳造法によって大量生産されるようになり、鏡師のほとんどが我も我もと刻印した天下一は乱用を防ぐために、天和二年(1682)に「天下一」称号の使用禁止令が出されたのである。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享(じょうきょう)伍ハ辰(1688)七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」の刻印がある六斎鉦を拝見したことがある。

大和郡山市の白土町で行われている念仏講が叩いている鉦である。

作者は常陸ではなく、「出羽」の国の「大掾宗味」である。

この鉦には「天下一」の称号は見られない。

禁令が発布された天和二年(1682)以降に作られた六斎鉦から考えるに、ちゃんちゃん鉦を呼ばれる平鉦は撞木で叩く仏具のタタキ鉦。

行列迎えの供奉であるのか判らないが、その鉦の音色がちゃんちゃん祭の語源であったかも知れない。

明治時代の神仏分離によって僧侶が叩いていた鉦は神社側に移ったのであろう。

白土町の六斎鉦から推定するに、ちゃんちゃん鉦は天和元年(1681)以前に作られた模様である。

重要な鉦を拝見させていただいた雑賀耕三郎氏に感謝する。

また同氏とともに昨日訪れた佐保庄には寛文十二年(1672)、宝暦六年(1756)の座當家箱があると云う。

江戸時代は9ケ大字の宮座が勤めていたちゃんちゃん祭。

大字の在り方とともに長岳寺との関係も深かったようだ。

早めに会食を済ませた大字中山。

他の大字はお酒を飲む余裕もあるが中山はそういうわけにはいかない重要な役目を担う。

若宮さまに捧げ奉る神事があるのだ。

三方に載せたカマス、湯葉や神酒徳利を捧げ奉る。

その後、それぞれの大字から献供されるものをしきたりにそって受け取る。

代わりに粽やお神酒を賜っていく。

次から次へと大字の献供が行われるのである。

昭和5年4月1日に記された大字中山上垣内の『神事渡御御物品順序記載』の献供と賜物によれば神事受け渡しの品はそれぞれ大字ごとに異なる。

壱番は「大明神様へ粽4れん 酒二合 へいじ入 但数八十かわらけ一つ せいごのつる(竹ノ輪ヲ四角ニマゲタモノ)」だ。
二番は「猿田彦へ粽4れん、酒一合、へいじ入 但数八十」。
三番は「新泉村へ粽三ツ四口 酒一合 かわらけ四つ 但同村より上り物弊(田楽幣)一本」。
四番は「兵庫村へ粽三ツ 酒一合 へいじ入 但同村より上り物そうめん二ワ 箸(ハコヤの木)一揃」。
五番は「岸田村へ粽十本二口 酒一合 かわらけ二ツ 但数二十」。
六番は「猿田彦へ(※下垣内は結粽十六) 酒二合 へいじ入参る事」。
七番は「大明神様へ結粽二十五、酒一合、へいじ入 但座内一同持参して参ルコト 尚幣を持つこと」。
八番は「三昧田村へ粽三十 酒一合 丁子入 但同村より上り物凡ソ三升糯(※下垣内は鏡餅)御供」。
九番は「大明神様へ申上酒一合 へいじ入、但当家人参ること」。
十番は「長柄村へ粽十(※下垣内は三十)、但同村より上り物塩鯛(目の下三寸の大鯛)一枚」。
十一番は「萱生村へ粽二十(※下垣内は三十)、但同村より上り物酒一升樽返戻事」。
十二番は「佐保庄村へ粽十、但同村より上り物酒一升樽返戻こと」。
これらはそれぞれの大字が献供・賜物をされる決まった順である。
最後に「明治二十一年子四月改 右村々より上り物若宮様へ供 御下り物は座中へ納有之事」とある。

平成22年4月1日に拝見した大字中山下垣内の『神事渡し物品記載』史料によれば壱番よりも前の冒頭に「大明神様から 神饌物の御下りは座中へ」や「猿田彦様から 神饌物の御下りは座中へ」が書かれていた。

その次には「若宮様へ 神酒徳利 カマス ユバ共に 三宝(方であろう)に載せる事 全員申し上げの事 神饌物の御下りは座中へ」とある。

同史料では「へいじ入」ではなく「せいじ入」であった。

お旅所の祭典における献供は大字中山が仕切る。

大明神様、猿田彦への献供は直接祭典の場に移す中山座中。

新泉、兵庫、岸田、三昧田、長柄、萱生、佐保庄の7カ大字についてはその都度呼出を受けて歯定(はじょう)神社へ献供を持っていく。

受け取った中山から手渡された粽やお神酒を賜って戻る。

賜った粽の本数は大字によってそれぞれであるが、かつて馬の担当だった岸田の宮総代が云うには馬、牛の腹下しの薬にしていたそうだ。

下垣内の史料によれば中山座中が用意しておく粽の本数は「結粽41本 粽320本 作り粽若干」である。

相当な量を揃えるカヤの入手が難しいと話していた兵庫区長の話を思い出す。

お旅所祭における献饌は大字中山によって行われる代替献饌には成願寺は含まれていない。

中山の献饌の最後は御幣に括りつけた洗米の包みを開くことである。

御供を周囲にばら撒くのは散米。神職が行う。

献饌を終えれば粽撒き。

中山座中が何本もの粽を放り投げるのである。

そのころは会食を済ませた座もお開き。

手に入れたい大字の人たちは群がるように集まってくる。

その後はすべての大字の頭人児による玉串奉奠だ。

大字ごとの頭人児は二人。

兄頭人児は額に紅で「大」の文字。

弟頭人児は「小」の文字があったがその頃はとうに消えていた。

そうして始まった兵庫と新泉の奉納所作。



本社神輿、増御子社神輿の両神輿の周りを反時計回りに三周半回る龍の口舞いを奉納する。

お旅所の祭典はこれで終わりではなく新泉の所作がある。

翁に扮する者が前に出る。

かつては翁面を被っていたようだ。

平成22年のときに聞いた新泉の翁面。

かつての新泉の翁の舞は演者が白木の面を被って所作をしていた。

樫の葉を放り投げるときも被っていたと長老のMさんが語っていた。

小さな穴が開いた翁の面。

見えにくいながらも所作をしたという。

いつしか被らなくなった翁面は大和神社に納めたようだと話していた。



竹の皮で作られた円形の田植笠を左手に持って頭に翳して右手の鋤で田を耕す。

スジを切るような鋤の作法である。

水はけをよくする溝を掘っているような作法である。

2スジ掘って鋤を振り上げて肩のほうに上げる。

2回された所作、それは麦作と稲作の2毛作を表しているのではないだろうか。

その所作を終えて半切り桶(コシキとも)に入れられた樫の葉を新泉の座中に配る。



円陣を組んで一握りずつ樫の葉を手に持って一斉に頭上に放り投げる。

その際に「オオミタラシ(大御手洗)ノカミー ワー」と唱和して放り投げる。

翁の舞(田の実の舞とも)と称される奉納所作であるが、この葉は雨を現わしているそうだ。

農作に必要な雨乞いだともいうから豊作予祝の作法であろう。

新泉の「翁の舞」はほぼ同じ人が演じているそうだ。

平成19年は頭屋が演じたというが、演者は村中で適宜決められるようだ。

樂太鼓が打たれてお旅所の祭典を終えれば還幸の渡御。

行列は神幸のお渡りと同様に隊列を組んで大和神社に戻っていく。

その頃の時間は夕方の5時だ。

(H25. 4. 1 EOS40D撮影)