マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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奈良県における民俗芸能の保存と伝承in西大寺サンワシティビル5F

2015年10月27日 08時38分27秒 | 民俗を聴く
奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲氏からメールが届いた。

なんでも近鉄西大寺駅近くのビルに出向いてほしいというのだ。

それも著書の『奈良大和路の年中行事』を何冊か持ってきてほしいという願いである。

何のことかさっぱり要領を得ない伝言に電話をかけた。

どうやら鹿谷氏はある会に頼まれて講演をするようになったようだ。

鹿谷氏が発刊した著書『奈良民俗紀行 西大和編』がある。

どうやら会の人からも頼まれたようで、会場販売をするようだ。

販売価格の設定は両者とも一致しておくことで決まった著書販売。

十数冊をバッグに詰め込んで会場に向かう。

場は西大寺サンワシティビル5階だ。

着いた時間帯は少し早くて設営中だった。

その場におられたご仁。

どこかでみたような・・。

思いだした。平成24年3月22日に霊山寺の食事処でお会いしたNPO法人奈良ソムリエの会・保存継承グループ理事の鈴木英一氏だった。

鈴木氏が云われたのか、それとも鹿谷氏が云われたのか、二人の著書を聴講生に是非ともというわけで販売することになったようだ。

事前に案内された参加者募集にあるテーマタイトルは「滅び行く奈良の民俗芸能」だ。

鹿谷氏が講演するテーマはこれだったのだ。

ちなみに当日配布する資料はまだ届いていない。

直に鹿谷氏が持ってこられるとのことだ。

受付・聴講席が整備されたころに到着された。

この講演は無料ではない。

資料代として500円。

ただたんに著書も持ってきただけで帰るわけにもいかない。

むしろ鹿谷氏がどのような話題提供をされるか聞きたくなって聴講することにした。

著書はいつどこで販売するのか。

受付である。

聴講生が目につくように手造りのPOPパネルを持ってこられた鹿谷氏。

両著書を受付テーブルに並べたら早速手にした受付嬢。

頁を広げて食い入るように見られる。

興味が湧いて買いたいといった人は6人。

少ないか、多いかは別にして、買ってくださる人がいることに感謝する。

さて、講演だ。

資料のタイトルは「奈良県における民俗芸能の保存と伝承(1)」とある。

(1)とついているから2回目もある。

始めに「正月ットンどこまで くろくやまのすそまで おっかえりおっかえり おっかえりの道で かんころうにであって ちょっと手水へかくれて びっちんくそですべって かったんくそで鼻ついて あーくさツン ツギ屋のおばんに ツギもろて ツーンとかんだら ようなった」を唄う鹿谷氏。

正月の唄は大和高田市に住む男性が母親から聞いた唄だそうだ。

正月ドンが遠くから家にやってくる様相を子供が歌うわらべ唄だ。

二上方面、香芝町史によれば詞章が若干ことなるものの基本的なキーワードが同じ唄がある。

正月ドンはなぜにうんこまみれになるのか。

便所を綺麗にしたら綺麗な子供が生まれると信じられた。

正月ドンは出産、誕生を意味しているのでは、と投げかける。

この話しを聞いていて昔のことを思いだした。

小学生のころに囃していた唄がある。

「みっちゃん みちみち ばばたれて・・・」だ。これは何を意味するのか。

正月の神さんを正月サン、歳徳サンと呼ぶことが多い。

いわゆる年神サンだ。

神迎えの行事にフクマル迎えがある。

神さんを迎える砂の道がある。

これもまた正月サンを迎える行為である。

逆にトンドは迎えた年神サンを天に戻ってもらう神送りの行為だ。

正月にまつわる食事がある。

一つは一部の地域であるが、奈良県内しか見られないきなこ雑煮である。

山添村、奈良市山間東部、桜井市の座でよばれたことがあるきなこ雑煮は独特な食べ方はマメの文化だと云われる。

話されたことをメモ筆記していたが文字は判読できないが紹介しておこう。

松の内のツチヒキである。

目出度いときに亡くなる人がある場合は、ヨコヅチで叩いた縄をかけてずるずる引っ張る。

春鹿酒造ではカケヤを引っ張ることをツチヒキというらしい。

元興寺町の風習にも似通ったようなものがあり、伊勢音頭を歌いながら引っ張っていたらしい。

ツチヒキは死者の連続を恐れるまじないの一種。

何らかの民俗神と思われるが、地域の神社には登場せず、風習に現れる。

次の項目は大和万歳だ。

正月などに目出度い言葉で唱える「祝福芸」。

元は「千秋万歳」になるようだ。

14世紀、すでに知られた存在だった大和万歳は宮中にも参内した。

江戸時代、京都・大阪を巡って京都御所・所司代、大阪城代へと広がる。

大和万歳は安堵町・窪田と広陵町・箸尾の二系統があった。

宮中参内は大正末期まで続いて昭和30年に奈良県文化財に指定された。が、伝承は続かず昭和52年に指定解除される。

その後、装束、道具など一式が寄贈され奈良県民俗博物館に保存された。

その後の平成24年に有形民俗文化財として新たに指定された。

鹿谷氏が云うには、太夫と歳三の二人一組。

春日おん祭に奉納される細男(せいのう)が着用する白装束だった。

また、丸に橘の紋があったと話す。

三つめの項目は民俗芸能とその特質だ。

プロ集団ではなく、土地に暮らす人々が自ら育てて伝承してきた演劇、舞踊、音楽など、それらの要素を備えた儀礼や行事等は郷土芸能、郷土芸術の呼称であったが、昭和30年代初めに日本全体を考えて民俗的な特色をもつ芸能として「民俗芸能」と呼ばれるようになった。

ちなみに民俗芸能はフォークロア。民族芸能はエスノロア。

諸外国の民族音楽や舞踊がある。

日本の民俗芸能も世界レベルのグローバル感でみれば日本の民族芸能になる。

太鼓踊りは村の決定で行われる。

費用も村の持ち出し。プロ集団ではなく村人が演じる踊りは民俗芸能だ。

各地に出向いて商売として行われている太神楽はプロ集団。

吉野町の国栖奏は外にでることはなく、村の氏神さんに奉納する芸能だ。

国栖以外の人がしてはならない地域の伝統芸能である。

次の項目は民俗芸能の種類。

1.神楽に巫女神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽(かつて神楽廻しと呼んでいた)。
2.田楽に予祝の田遊び、御田植神事。
3.風流に念仏踊、盆踊、太鼓踊り、鞨鼓獅子舞、小唄踊り、綾踊り、つくり物風流、仮装風流、練り風流。
4.祝福芸に来訪神、千秋万歳、語り物。
5.外来派に伎楽、獅子舞、舞楽、延年、二十五菩薩来迎会、鬼舞・仏舞、散楽、能・狂言、人形芝居、歌舞伎が挙げられる。

次は太鼓踊りだ。

太鼓踊りは風流。華やかな飾りを付けて嫌なものを追い払う。

イベント等で披露されている創作太鼓は民俗の中に含まれない。

太鼓踊りの名がついているように太鼓はつきもの。

現在、残存している古いものがある。

徳治三年(1308)がある吉野吉水神社、正和五年(1316)・文安元年(1444)・貞和三年(1347)があるは唐招堤寺、慶長十九年(1614)がある奈良市十輪寺。

太鼓は寺の法会に用いられた。

太鼓は呼び出しにも使われる。

ホラ貝も同じでもっと緊急な場合は半鐘になる。これらはいずれも連絡手段である。

太鼓踊りの呼称はさまざま。

神をいさめ・願掛けのイサミ踊り(勇踊・諌踊)、南無阿弥陀仏のナモデ踊り(南無手踊・南無天踊)、雨乞い踊り、願いが叶った願満踊り、ナラシ(セ)踊りなどだ。

確か京都南山城村の田山では花踊りだったような・・・。

歴史的な調査は古文書や奉納絵馬が挙げられる。

在所が判る一例、文明三年(1471)八月の「経覚私要抄」に「・・八島(奈良市八島)ヲトリ在之、雨乞・・」とある。

永禄十年(1567)七月の「多門院日記」に「・・布留宮(石上神宮)祈雨オトリノ用意道具・・」がある。

文禄三年(1594)八月は「布留之社祈雨曜・・・」だ。

鹿谷氏の資料に出展が書かれていなかったが、年代と所在地が判る記事がある。

桜井市大神神社の太鼓踊りは寛文十二年(1672)・貞享四年(1687)・寛保三年(1743)。

「大安寺文書」にある春日大社付近は寛政元年(1787)・同二年(1788)・同五年(1791)・同六年(1792)・同九年(1795)があるそうだ。

付近というのは春日大社ではなく近くの所在地を巡ったという行程だ。

寛政元年の行程は、たちから→うねめ宮→南大門→十三かね→大鳥井→まつの下→御たび→ひゃうし神江戻り橋の下とあるそうだ。

絵馬が残る地域は享保八年(1723)・宝暦二年(1752)・文政四年(1821)の高取町下子島・小島神社、宝暦六年(1756)の安堵町東安堵・飽波神社、天保十三年(1842)の川西町結崎・糸井神社、嘉永六年(1853)の明日香村稲淵・飛鳥坐宇須多岐比売命神社がある。

現在、中断になった現行太鼓踊りもあるが直近までは以下の在所で行われていた太鼓踊りを列挙する。

奈良市大柳生(2007年から三垣内合同→2012年を最後に中断)、奈良市旧都祁吐山、奈良市月ヶ瀬石打、宇陀市室生大野がある。不定期在所は下市町丹生、吉野町国栖、川上村烏川がある。

次は盆踊りであったが、時間不足で詳細解説は見送りの時間切れ。

十津川、旧大塔村阪本、川上村の盆踊りもあるが、サシサバや橿原市東坊城のほうらんや、奈良市八島・安堵町東安堵などの六斎念仏、奈良市田原の祭文音頭も聞きたかったが・・。

続きは2回目に廻されるかも知れない。

盛況に講演が終わって一息つく講師と主催者。

甘いものを食べたいと云って場所を移動する。



近鉄ビル2階にある甘処は「はんなりかふぇ・京の飴工房」こと「憩和井」だ。

私はキナコアイスを注文した。



これが美味しいのである。

男性3人とも頼んだ甘味に満足する。

このような機会を作ってくださった両氏にお礼は言うまでもないが、嬉しさもあって進行役を務めた鈴木英一氏に一冊を献本した。

なにかのお役に立てていただけば幸いだ。

(H27. 1.17 SB932SH撮影)

三郷町の伝承文化をたどる講演会in三郷町立図書館

2015年07月10日 07時35分28秒 | 民俗を聴く
前月の24日に訪れた三郷町の勢野。

薬隆寺八幡神社の下見の際に絵馬殿に貼ってあった講演会の案内があった。

薬隆寺八幡神社創建500年祭を記念する講演会は三郷町の史跡や歴史文化を調査・報告されている「史学さんごう」が主催する。

一回目は大和川を通じて、二回目は近代化というテーマだったそうだ。

3回目の今回はこの年に奈良民俗文化研究所を立ちあげられた鹿谷勲氏が語る「三郷町の伝承文化をたどる」である。

「史学さんごう」は町内の文化財を纏めた冊子『三郷路(みさとじ)ふるさと散歩~文化財と史蹟のガイドブック』を編集・発行された歴史愛好家団体。

大字勢野・立野・南畑からなる三郷町の文化を紹介している。

講演会場は町立図書館の視聴覚室。

会場には薬隆寺八幡神社に収蔵する絵馬や三日オコナイに掲げられる仏画4幅などが展示されていた。



特に興味を惹かれたのは慶応三歳卯(1867)正月吉日に奉納された「御祭礼の図」である。

当時は9月25日に行われていたお渡りの様子や神事、献饌、御湯などを描いている。

展示物は撮影禁止であったが、前月の25日の行事取材で伺った際に神社役員の承諾を得て撮らせてもらっていた。

全景は今も昔も変わらない様相だが、かつての祭礼の在り方を表現している。

「ここに何代か前に出仕しているのです」と教えてくださる巫女を勤める坂本さん。

度々の行事取材でお世話になっている母・娘さんだ。

本殿前で幣を持つ巫女姿がある。

かつてはナギナタの所作はあったが、幣を持つ姿は初めて拝見したと話す。

御湯の場は今でもされている本殿階段下の鳥居付近だった。

鈴を手にして神楽を舞う姿の横にあるのが、つい最近の2年前まで使われていた御湯釜である。

「和平群郡東勢哩八幡御釜 貞享二年乙丑(1685)九月吉日 和葛下郡五位堂村津田大和大掾藤原定次作」の刻印がある。

御湯の作法を見ている村人の姿は大勢で群がるようだ。

そのような絵が描かれている状況をゆっくり見ている時間はない。講演会が始まったのだ。

視聴覚室の客席は180人も収容できる。ざっと数えてみれば100人を大幅に越えていた。

これまで開催された講演会のなかでも過去最高だと主催者は話す。

冒頭に日本六十余州を記した『人国記』の「大和国」を挙げて、「大和国之風俗表郡は人之気大形(おおかた)名刹を好むもの多ふし。奥郡之者は隠る気有之、蓋し此国之人は大体山城之国人に風俗似たる処多し。昔日王城之地と成が故に其風俗漸く似たる処多しといへども、山城之国より人之気少し、尖(するど)成所有。雖然表郡者名刹にかゝわる人多く而常に詞に偽を巧みにして、上分は巧みすくなふ而名を挙んことを願ひ、下劣は於言句之下而偽を述て両舌を吐く風俗也。若是国之人を味方に従はしむるには讒者を以て人之気を可分名刹無き則は速に分つ。亦奥郡之人は隠るゝ気質自然と生れつきたり。是は山深く而常に人倫に交道理を談ふる人も寡ければ、自を如斯に而道理を不知風俗也。」、「自然に実を振舞ふ人は猶以て隠遁之気発し、世を無き物となす。形儀をのみ見聞が故に如斯之風儀多し。されば古より芳野山奥は人の気五畿内之人に勝れて、いさぎよき也。雖然物之形儀を不知が故に智あつて道理に従ひ、謹とはなけれども邪僻之為に驕を禁ずるもの也。故に自を愚成人多し。若是を取をば、其威を仰て気を悦ばしめて、我が国を全ふ而国人を不労而自を愚を行はせよ、さある時は陰却而陽に変じ、驕奢之気出るものなり。都而名刹名聞につながれて気質に勝ちたると可知也。千万人に一人二人は国風を忘れたる人もあり」の口伝全文より一部引用されて紹介されて奈良県民性や県内における変容、民俗文化圏による異相を話される。

奈良大和の国は『人国記』ですべてを物語るわけではなく、地域的に分けた文化圏によって大きく異なる。

平坦はクンナカ(国中)。東山間の東山中に対して西山中に吉野川南の奥吉野などだ。

三郷町がある西山中は生駒山地・矢田山地・西ノ京丘陵地に生駒川・平群川・龍田川・生駒谷・平群谷・富雄谷地域。

ケンカ相手になったヘイタンのことを「ヒロミ」とも呼んでいた人もいるそうだ。

三郷町に勢野、立野と呼ぶ「野」がある。

今では一般的に呼ぶ「野原」があるが、「野」と「原」は異なる地である。

「原」は広々とした草原地に対して、「野」は低木が繁った里の地。

「山」、「岡」、「谷」、「沢」、「野」、「原」の語を下にもつ地名は大体にして開発以前からあった。

「野」と呼ぶ地は山の裾野や緩斜地を意味していたのである。

現在の三郷町は「野」を開発された都市化の様相である。

大和の伝統民俗行事に「ノガミ(野神或いは農神)」がある。

「ノガミ」は人が暮らし生活する以前からあった。

「ノ」の「カミサン」が居た地に住みついた「ヒト」が「ノガミ」を祭ったと思っていると云う。

三郷町には三カ大字それぞれに神社がある。

勢野には薬隆寺八幡神社の他に秋留八幡神社、春日神社が、立野には龍田大社、神南備神社、琴平神社、瘡神社、坂上天神社がある。

南畑には盞嗚尊神社、大山祇神社がある。勢野の春日神社は姫大神命を祀る。

奈良市の春日大社の本殿は4神を祀る。

2神の藤原氏の守護神に祖神と天児屋根命(あめのこやね)のみことの妻である比売命を祀ったと思われる勢野の春日神社の祭神である。

春日大社に比売命の子神を祀ったとされる若宮神社がある。

12月に行われる「春日おん祭」は若宮さんの祭りは崇める大和武士によって始められたとされる。

伊古麻都比古神・伊古麻都比売神を祀る生駒の往馬大社。

男神・女神を祀る神社は各地にある。

それらは原初的な産土大神。

もしかとすれば、であるが、若宮さんも元々鎮座する産土大神であったかも知れないと話す鹿谷氏が奈良市狭川で聞いた二つの面を紹介する。

拝見することはできなかった男の面と女の面に両面を合わせて藁で括っていたそうだ。

さて、今年の春に創建500年祭が行われた薬隆寺八幡神社には宮座があった。

祭祀を勤めていたのは十人衆で東の宮座と呼んでいた。

北垣内の東南の美松に八幡堂跡がある。

かつて八幡神社がそこにあったと伝わる地である。

そこから見れば西に秋留八幡神社がある。

現在地から見れば北側である。

東の宮座と呼ばれるのは西にある秋留八幡神社に対する座の呼び名であったと思われる。

薬隆寺八幡神社と呼ばれる神社には寺は存在しないが、慶応三年に奉納された絵馬図に描かれている。

今では絵馬殿と呼ばれているが、おそらく座小屋。

その右手に描かれていたお堂が薬隆寺ではないかと推定される。

廃仏毀釈のおりに廃寺となった薬隆寺本尊の薬師如来坐像は勢谷寺(せいこくじ)に遷されて客佛・安置されたそうだ。

寺はなくとも三月三日に絵馬殿で「三日オコナイ」と呼ぶ行事を十人衆によって行われている。

平成10年までは十人衆の家で行われていた行事である。

一老・二老・三老が手分けして保管されている佛画の掛軸を絵馬堂に掲げて法会に般若心経を唱えていると話す。

県内各地で行われている村行事に「オコナイ」がある。

正月初めに村の安全や五穀豊穣を祈念する寺行事である。

野迫川村で行われている弓手原・北今西で取材された映像で解説される。

3月3日に行われる地域に大和郡山市小林町の「オコナイ」も紹介された。

小林町では「神名帳」の詠みあげや「ランジョー」の作法はあるが、勢野には見られない。

十人衆が勤める薬隆寺八幡神社行事は「三日オコナイ」の他に9月12日の「前宵宮」や10月24日の「イトナミ」がある。

「前宵宮」は10月の秋祭りとは別にある行事で、「宵宮」の名がついているが一日限りの行事である。

おそらく田原本町・大和郡山市・天理市などで行われている「ムカシヨミヤ」と推定される。

「イトナミ」は十人衆の行事であるが、翌日の25日は氏子のマツリである。

それより前週には30年前から始まった赤・白・赤の布団太鼓を曳く村行事のダンジリ祭りもある。

ダンジリに紹介された龍田大社の太鼓台、斑鳩の布団太鼓台に県内各地の山車(だんじり)。鹿谷氏は山車を「ダシ」と呼んでいた。

秋留八幡神社の宮座行事に1月16日に行われる「鬼打ち式」がある。神饌や鬼の御供に矢を射る行事である。

宮座行事の紹介に柳生や狭川の在り方を詳しく解説されたが、この当稿では省かせていただく。

その他にも生駒・往馬大社の宮座や生駒・高山の宮座もスライドショーを展開して紹介された。

三郷町の宮座は立野や南畑もあるが、南畑は平成13年までで以降は自治会行事に移ったと聞いている。

なぜにカミを祀ってマツリをするのか。

土地に住む人々が伝承する土地の文化を育んできた。

県内各地のそれぞれの地域ごとにある民俗文化が人間形成を育ててきた。

急いで開発された「野」の地。開発の波は落ちついてきた旧村の町。

旧村住民、新住民交えて共存共栄をはりながら地域の文化を継ぐ、或いは改良される際に少しでも参考にしていただくことを願い講演を終えた。

終わって再び、鹿谷氏や坂本さん、神社役員らと拝見する「御祭礼の図」には「覗きからくり」も描かれてあった。

むかし懐かしい「覗きからくり」。30歳まで住んでいた大阪の住吉さんの祭りを思い出した。

そこには各種の演芸場があった。

怖いもの見たさに小さな窓から覗いた「からくり」はろくろ首だった。

「覗きからくり」の下には三味線を奏でる女性も居る。

その左手で棒のようなものを振る男性もいる。

法螺貝を口にあて「でれえーん、れーえん、れーえん」と唱え、右手に持った錫杖を押し出すように振り鳴らす姿は祭文語りである。

平成20年3月16日に取材した奈良市日笠町の今井堂天満神社で奉納された「田原の祭文語り」を思い出した。

昭和3年の昭和天皇大典慶祝の際、慶応三年に踊りを経験していた古老から習って復活したものの再び中断。

昭和58年に保存会が結成され、記憶をもとに復元されて現在に至っている伝統芸能である。

もしかとすればだが、「御祭礼の図」に描かれた祭文語りは田原の里でも行われていたものと同じではないだろうかと思ったのである。

「御祭礼の図」にあった献饌。

神饌を手渡しで献じているのは裃姿の十人衆だ。

衣装は残されていないと話す神社役員は復活してみたいという声があがった。

(H26.11. 9 SB932SH撮影)

三つの「野」講演会in大淀町文化会館

2014年12月24日 07時21分54秒 | 民俗を聴く
大淀町文化会館小ホールで講演があった。

平成26年度事業の「あらかし土曜講座-世界遺産・吉野の自然と文化-」である。

これまで「吉野に残る“海”の伝承」、「吉野-その自然と人-」、「源流から里・街へ」であった。

所用と重なり出かけることはできなかったが、これは是非とも聴講したいと思って出かけた。

講師は大淀町教育委員会の松田度氏だ。

度々、お世話になっている学芸員が話すテーマは「三つの“野”-吉野・熊野・高野を深める-」である。

4話シリーズの土曜講座の〆である。

講演が始まるまでは、これまで講話されたレジメをいただいて拝読していた。

吉野歴史資料館館長の池田淳氏のレジメにある「潮淵の潮」。

大和特有のオナンジ参りの際に持ち帰る川中の小石拾い。

その場は妹山を背に鎮座する大名持神社下に流れる淵である。

「シオブチ」と呼ばれる深い淵から湧き出る水は「口に含めばピリッとしてサイダーのようだ」と古老が話す記事だ。

その味は津風呂川の流域にも存在するらしく同じように泡が湧きでていた。

津風呂は温泉がある地。泉質は炭酸食塩水。

その話しで思い出したのが下市町の新住(あたらすみ)。

オカリヤを立てられたN家の当主が話した件だ。

氏神さんの八幡神社は山の方角だ。

鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。

水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」の名がある。

温めだからその名が付いたようだが、ぷくぷくと泡が浮いていた。

コーヒーに丁度いいまろやかな味だと話していた。

ピリッとした温泉で名高い有馬温泉。

その泉質を利用した有馬サイダーがある。

ピリッした味は潮のように感じた「シオブチ」に興味をもったとは言うまでもない。

三つの世界遺産に共通する“野”を取りあげて話す松田度氏の講演が始まった。

「世界を代表する聖地があるのは吉野山の金峯山寺である」と述べたのは管長だそうだ。

「吉野」と呼ぶのは「吉野山」であろうか。「熊野」は広々とした“野”。

高野山は広い盆地であるが「高野」はどこであるのか。

これらの疑問を解いていく。

“野”は「の」或いは「ぬ」。

「ぬ」は草深くさまざまな食物が生えている地。

クリやアワとか四季折々に草が生えているが、稲作には不向きな地である。

“野”は狩場でもある。

野を駆け巡る動物を狩る場は豊かさの象徴だと話す。

“野”はいつのまにか、“山”にすり替わって聖地になった・・・・。

“野”は一つに絞られる解答を求めることなく、意味を探っていく。

吉野山・奥駆道は世界遺産に指定された「吉野・大峯」。吉野山・大峯山信仰は平安時代からだ。

吉野町で最も古い木造を安置する世尊寺は飛鳥時代には存在していたと云う。

東塔跡がその時代を示すと云ってスライドに映し出す。

平安時代の貞観十六年(875)に京都醍醐寺を開創した聖宝が吉野山の基礎を作った。

金峯山寺の中興の祖でもある。

吉野山に鎮座する吉野水分神社も平安時代の創建。

その時代以前はさっぱり判っていないと云う。

飛鳥時代には吉野山でなく、吉野ノ宮離宮の地である宮滝であろう。

象山(さきやま)の南にそびえる山が吉野山だ。

大淀町の土田(つった)に縄文時代から弥生時代にかけて使われていたとされる土器類が発掘されている。

その後の平成14年の発掘で発見された竃がある堅穴住居や掘立柱建物、庭園などの遺構によって当時の郡役所であったことが判った。

かつて「吉野」と呼んでいたのは大淀町・吉野町の北岸の平野部。

吉野宮も吉野監(よしのげん)=(郡衙;ぐんが)が存在していた。

その地は「えー野原」から「良き野原」となり、「よしの」になったのではと話す。

「みよしのの象山・・」と万葉集に謡われた「みよしの」の地は飛鳥の宮を世話する人たちが住んでいたようだ。

「熊野」の話題提供は熊野の地に所縁のある和歌山の加太(かだ)の浦から始まる。

熊野の岬から常世に渡ったとされる少名彦命。

和歌山沿岸地に熊野の神を祭る白浜。

円月島がある地だ。

奇岩が多い景勝地は三重県尾鷲や盾ケ崎まで延々と続く。

三重県熊野市有馬町に花窟(はなのいわや)がある。

神庫神社のご神体は大きな岩のゴトビキ岩。

蛙がのそっとやってきて綱を掛けられた様相からその名がついたと云う。

「熊野」の“野”はどこであるのか。

古い史料に「クマノオオカミ」の名がある。

熊野本宮大社の祭神は「スサノオノミコト」。

神話によれば「クマノオオカミ」が「スサノオノミコト」になったそうだ。

「スサノオ」は渡来系の神さん。

神話が記すに降りたった地は「クマナリノミネ」。

いつしか「クマナリノミネ」は遷座されて出雲の国に移った。

その「クマナリ」を何度も呼ぶうちに「クマノ」になったと話す。

熊野は常世の海であり、海人たちの伝承がある。

「アマノ」と呼ぶ海人は「クマノ」に伝えた。クマノノクニツクリ(熊野国造)は奈良時代。和歌山南部に作った地が「クマノ」。

「熊野国」の成立であると話す。


世界遺産の一つに「高野山がある。

丹生・高野明神とともに栄えた真言宗のメッカ。

高野山の地の一角にある丹生都比売神社。

空海が高野山内に寺を開く都度、許可を得た神社である。

本家は和歌山かつらぎ町天野の丹生都比売神社。

分霊を何度も勧請して高野山に遷したそうだ。

かつらぎ町天野(あまの)の天野は広々とした“野”である。

三谷薬師堂の女神神像が最近発見された。女神の神像は丹生都比売神像であると云われている鎌倉時代の作。

神像は吉野川から流れ着いて高野山に行ったと云う。

「ニウ(フツヒメ)伝承がある。

「天野」の地はどこから・・・である。

仮説を話す松田講師。

それは有馬野(あまの)では・・と云う。

有間の皇子は天智天皇の皇位争いの策略に巻きこまれて和歌山海南市の藤代(ふじしろ)坂で処刑されたという説がある。

白浜温泉を「牟婁の湯」と呼んでいる和歌山の景勝地。

藤代より170kmを三日間で往復したと史料にあるらしい。

かつらぎ町天野に鎮座する丹生都比売神社は「菅川(つつがわ)の藤代峯」と推定されるそうだ。

鎮魂の地に祀った「スサノオノミコト」は高野山に連れていった。

神聖な地は「神山」。「神の峯」は「高野の峯」になったであろうと話す。

「太政官符案併遺告」より高野山の四至(しいし)を続けて話す。

四至とは東西南北の境界を示す語。

天平十二年‘740」の籍文によれば、東は丹生の川上で、南は有田川の南の長峯。西が星川の神勾(かみまがり)の谷で、北は吉野川に囲まれた地であるそうだ。

1時間半に亘って講義をされた松田節。

知ることが多く、興味深く拝聴させてもらった。

「野」のテーマを詰めるにさまざまな地を訪ねてこられた。

教わること多しの三つの「野」。

それぞれの「・・野」の文字(漢字)が初出される文献にはどんなものがあるのか。

「高野」は「こうの」でなくて、何故に「こうや」と呼ぶのか。

「聖地」と呼ばれるようになったのはいつかなど、謎は深まるばかりだ。

松田氏は「クマナリ」の語源を用いて論を展開されたが、「クマソ」はどうなのか。

また、紀伊半島を海から眺めた場合はどうであるのか、10年後に纏められると云う10年後を「待つ」ことはできない年齢に達する。

奈良県内旧村名に「・・野」のつく村がいくつかある。

「春日野」、「桃香野」、「大野」、「的野」、「北野」、「井戸野」、「鹿野園」、「深野」、「都介野」、「御経野」、「青野」、「萱野」、「勢野」、「立野」、「巻野内」、「猪木野」、「長野」、「上芳野」、「下芳野」、「平野」、「冬野」、「五条野」、「樋野」、「磯野」、「染野」、「宇野」、「上野」、「表野」、「久留野」、「西久留野」、「島野」、「牧野」、「上野地」、「内野」、「新野」、「塩野」、「栗野」、「御吉野」、「南芳野」、「殿野」、「滝野」、「老野」、「神野」、「宗川野」、「西野」、「入野」、「南大野」・・・・がある。

三つの「野」の考えた方と一致するのか、それとも物理的・地域的な違いはどこにあるのか。

現地調査に何年かかるやら・・と思った。

帰路について地元に戻ってきた。

大和中央道に咲いていた野の花を撮っておいた。



大和郡山市にある地名で“野”がつく旧村は井戸野がただ一つ。

松田氏が話したキーで答えを探るが見えてこない。

(H26. 6.14 記)

国際博物館の日in県立民俗博物館特別講演

2014年12月09日 09時03分13秒 | 民俗を聴く
国際博物館会議が1977年に制定した記念日は「国際博物館の日」。

毎年5月18日に年ごとに決められた世界共通のテーマでさまざまな企画が行われる。

今年は日曜日。

奈良県立民俗博物館では帝塚山大学名誉教授の赤田光男氏(九州宗像出身)が記念に「奈良の民俗」を講話される。

聴講料は無料だが、入館料は要る。

案内チラシに載っていた写真のなかには、山村、六斎念仏に紅白の御幣を持つ祭礼があった。

写真ではどこの行事であるのか判らなかった。

それを知りたくて聴講した。

矢田山で自然観察会を終えて直行した奈良県立民俗博物館。

講師の紹介をされていた講義室。席はほぼ満杯だ。

見渡せば若い人たちが半数を占めている。

どうやら帝塚山大学の学生だ。

日本全国の民俗を調査された講師が奈良の民俗の本質に迫るという講議は、「江戸中期の村の数はいくつあったのか」から始まった。

幕藩制を敷いていた江戸時代の国々は270国。

江戸時代の調査史料によれば、全国津々浦々、村の数は10万村もあったそうだ。

村落の文化はそれぞれ。いわば10万種の民俗があった。

それを言ったのは柳田国男。

奈良県は1406村であった。

隣村間の共通文化はあるものの、個性をもつ村落民俗で成り立っていた。

奈良の村ではそれぞれ区割りがあり、「垣内(かいと)」或いは「組(くみ)」と呼ぶ地域が多い。

その単位は村落分けの共同体組織でもある。

共通の民俗文化は地理的条件によって大きく異なる。

吉野川を境に文化が違っていた。

立地条件は南の奥吉野山地に東の大和高原。

最近はそう呼ぶようになったが東山中である。

「山」と「処」で成り立っているから「やまと」と呼ぶようになったを話す。

稲作ため池が多いのは国中(くんなか)と呼ばれていた盆地平坦部。

東日本は同族親族だが、西日本は地縁親族。

仏教王国の大和を山添村峰寺の墓制事例を紹介し解説される。

峰寺は北に9戸の植村組、中央・六所神社が鎮座する峯寺組は9戸に西の8戸の押谷組の三つの垣内がある。

その六所神社には会所がある。

村の決めごとを議論する場はかつてお寺。

安置する薬師さんが見ている場で案件を決めるのだと云う。

六所神社の祭礼は峰寺・松尾・的野の三カ大字が廻りで行われる。

昨年は大字の的野、一昨年は峰寺で、その前年は松尾であった。

大字の在り方に特徴が見られるため、私は三カ年に亘って継続的にマツリを調査してきた。

ジンパイを奉納するガクニンは、会所とも呼ぶ参籠所に上がって神社総代に挨拶を述べる。

参籠所は長屋とも呼ぶが、薬師さんは見られない。

氏が述べる会所はおそらく境内に建つ建物であると思われるが、ガクニンらは立ち入ることはない。

さて、峰寺には共同墓地と5カ所に点在する石塔墓がある。

組ごとの石塔墓であるが、地縁血縁によって分かれるのであろう。

さらに墓地には区分けがある。

墓地入口は若年層で奥は年寄り。

中間は右に男性、左に女性となっているそうだ。

共同墓地の在り方も含めて「両墓制」をもつのは大和の特徴であると話す。

ちなみに峰寺には本家・分家で組織されるキタムラ一統があるそうだ。

それもまた、大和の特徴である「与力」組織。

また、伊勢講、愛宕講、庚申講、二十三夜講などの講組織もあると云う。

中世、平城・城下町が形成された時代の民家は4間。

それ以前は2間であった。

元禄時代、木材の必要性から林業が盛んになった。

当時の吉野の山林は村の共有林であった。

村とは関係のない資本力をもった商人が木材を買い出すようになった。

下市・上市・五條や国中の金持ちが買い占めた木材。

立木所有林経営は商人で村の人が山守となって城造り・家造りの木材を供給してきたと前置きされるお話しは始まってから50分も経過していた。

レジメには「福マル呼び・狐の施行・トンド・鬼の宿・岳ノボリ・客仏」などの年中行事もあれば、「仏教寺院分布・念仏信仰・両墓制」の先祖信仰に「雨乞・野神」の精霊信仰もあった。

講演時間は足るのだろうか。

そんな心配をついしてしまうこの日の講話は氏が長年に亘って調査された民俗学に関してだ。

神道・仏教ではない村の民俗は「神」を「カミ」、「仏」は「ホトケ」と書くと話す。

カタカナで表現するのは、神道でなく村の「カミ」で、「ホトケ」は村の先祖のこととする考え方だと云う。

村の共同体で行われる「カミ」や「ホトケ」が村を支えると話されて「福マル呼び」に繋げられた。

<フクマル呼び>
配られた資料の「福マル呼び」の写真は山添村の切幡(きりはた)。

奈良の民俗を調査されてきた保仙純剛氏が纏められた『日本の民俗―奈良―』に掲載された写真であると話す。

刊行は昭和47年11月。今から42年前よりも前の様相である。

私が高校を卒業した数年後、社会人で動き始めた二十歳代のころである。

先人が記録した写真の様相に感動するのである。

切幡は昨年の大晦日にある家のフクマル迎えを取材した。

40年前はどこともしていたらしいが、現在はぐっと少なくなっているそうだ。

大晦日の夕刻に行われるフクマル呼び。

家を出た辻に出かけて「フクマル コイ コイ」と三回唱えて我が家に「フクマル」を呼びこむ。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市伊豆七条町の映像を映し出す。

大晦日には「ホトケ」である先祖がやってくる。

正月にも先祖さんがくると信じられていた。

「ミタマ(御霊)のメシ」と称してご飯などを縁側や竃に供える風習があるのは東北地方。

「ミタマのメシ」とか、「ミタマのダンゴ」である。

大和ではなぜか「フクマル」と呼んでいる。

室町時代に「フクジン(福神)」信仰が流行ったそうだ。

火を焚いて先祖さんを迎えた。

それは「フクジン」信仰と重なっていく変化があったと云う。

「フクマルコッコー」と呼ぶのは「フクジン」を迎える在り方。

山添村北野では玄関口で、箒で掃いて扉をピシャッと閉める。

フクマルを迎えた火は神棚や「イタダキ」に供える。

文明十年(1478)から元和四年(1618)にかけて記された興福寺『多門院日記』に書かれてあった正月の餅飾り。

膳の配置が図式化されていた。

飾りの品々にムキクリ(5個)、アカキモチ、トコロ、イリコメ、キクキリ、ホタワラ、クシガキ、カンジ(1個)、ユカウ(1個)、タチハナ(3個)、モチカス(五個)、アカキマヲ(6個)がある。

ムキクリは剥き栗と判るが、アカキモチは赤色のモチであろうか。

トコロは根が髭のように見える長寿の印しのトコロ芋、イリコメは煎った米だ。

ホタワラはホンダワラ。

雑穀町旧家の三宝飾りで拝見した稲藁で作ったタワラ(俵)のことであろうか。

クシガキは室生下笠間で拝見したいつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキと同じと思われる。

カンジはキンコウジとも呼ばれるコウジミカン。

ユカウはユズであろう。

タチハナは橘の実。

キクキリ、モチカスはなんであろうか。

アカキマヲは括弧書きにアカキメカとある。これも判らない。

図には「次ニ大圓鏡イタタク」とある図絵は三方に乗せたイタダキの膳。

ホタワラ(5個)、合米一合、タチ花(五個)である。

正月早々に毘沙門天や弁財天に祈祷する。

これも「フクジン(福神)」であると云う。

「毘沙門 カネくれ」と呼ぶのは縁起担ぎ。

招福信仰の本質は先祖迎えであると話す。

<東安堵の施行>
かつて調査された安堵町東安堵の古老が話した狐の施行。

施行と書いて「センギョウ」と呼ぶ。

寒中に野辺の狐に施しをする。

アブラアゲやアズキメシを野らに出かけて施した。

神社や寺辺りの5カ所にも施した。

集団でなく、個人個人が出かけて施した「ノマキ」と呼ぶ風習だそうだ。

古い農業神はキツネとされてきた。

豊作神はやがて稲荷神へと移った。

大和では屋敷信仰がほとんど見られないと云う。

<茅原のトンド>
正月14日、15日は各地でトンドが行われる。

県立民俗博物館より提供された大和郡山市城町(じょうちょう)のトンド写真を映し出した。

子供たちが竹に挿したモチをトンドの残り火で焼いている写真だ。

城町のトンドは主水山がある。

我が家から歩いて数分のところだ。

映像を見る限り当地ではないと判った。

講演後に聞いた話では城町でも西側。

つまり西城(にしんじょ)である。

かれこれ40年以上も前は1月31日に行われていた。

いつしか小正月の1月15日に移った。

その後、成人の日がハッピマンデー施行によって近い日曜日になった。

現在では実施日の決定は正月明け新年会一週間後の日曜である。

西城も同じ日である。

このことは主水山住民から聞いている。

新暦の小正月にトンドが行われる地域は多くあるが、地域によっては2度目の正月と称して1月31日、或いは2月1日や2日もある。

氏はそのことには触れなかった。

1月14日に行われる御所市茅原(ちはら)の吉祥草寺では大きなトンドが燃やされる。

雌雄の大トンドや太い化粧回しの綱を作る作業を撮った写真で紹介される。

トンドの場は吉祥草寺。かつては真言宗派であった。

トンドの火点けは玉出住民が行う。

寺で迎える茅原住民と合流する。

寺に入堂されて般若心経を唱える。

そしてトンドの火点け。

玉出住民はオヒカリから移した長い松明でトンドに移す。

かつては修正会の行事であったようで、結願にトンドを燃やす。

今では茅原・玉出両地区で行われる村行事。

おおげさであるが、1月15日は小正月。

この日は旧暦。

ほんとの正月迎えであり、先祖迎えであると強調される。

満月の日が良いとされる先祖迎え。

大和では大晦日とトンドの日の両方がある。

<鬼の宿>
天川村に天河弁財天社がある。

弁財天は水の神さんでもある。

「フクの神」でもある前鬼を祭る家が3軒ある。

柿坂家は村長を勤めた家で、分家におばあさんが住んでいた。

若い分家は神主家。

天河社の社家である。

2月3日は節分。

京丹後地方では祓い追われた鬼を迎える「鬼の宿」がある。

「鬼の宿」は大和にもあるのかと調べてみたらあったと云う。

天河の前鬼末裔の家で行われる節分前夜。

かつてはおばあさんの家であったが、現在は神主家。

斎壇を祭り、二つの布団を敷いた写真を映し出す。

床の間の斎壇に向かって般若心経や祝詞を唱える。

前鬼の先祖を呼び起こすのは「先祖降ろし」だそうだ。

社家はこっそり井戸に行って、晒しを水に浸けて桶に貯める。

これを幾度も繰り返す。

貯めた水桶は縁側にそっと置く。

終わり直近に鬼が降りてきたと「ホォーーー」と声がでて、ピタリと終える神事。

直ちに布団をさっと敷く。

ひと晩寝ると云う布団は左が男で、右は女。

翌朝に去っていくという「鬼の宿」。

京丹後ではこのような作法もなく、「鬼の宿」と呼ばれているだけだそうだ。

山辺郡の人たちは薪を平城京に持ちこんでいた。

「春来る鬼」という記載があるらしい。

日本の古い観念は春来るフクジン(福神)な「カミ」である。

仏教が与えた影響が「フクマル」、「トンド」、「オニ」に。それは当たっていると思うと話す。

<ダケノボリ>
旧暦、山に登って楽しんで下りてくる。

春の農耕始めにダケノボリをしていた。

二上山のダケノボリが有名だ。

里山に登って山の神と共食する。

下りた山の神は農の神になる。

古いのがよく残っている大和のであると云う。

<キャクボトケ(客仏)>
山辺郡によくあるキャクボトケ。

お客さんがホトケ。

我が家に不幸ごとが起これば、縁側にショウロウダナを作る。

先祖さんは縁側に祭る。

ニワにはガキダナを置く。

それはムエンサン。

山辺郡ではそこにもうひとつつく。

我が家から出ていった人。

当主からみれば叔父や叔母である。

その人らが先に亡くなれば、霊魂が故郷の家に戻ってくる。

それがキャクボトケ。

兄弟姉妹は実家に戻ってくるのだ。

嫁さんの両親・兄弟姉妹も嫁ぎ先の山辺郡の家で霊魂を祭る。

真言宗派が広めた仏教の教えであると思っていると話す。

ここまでの講話は1時間半。先を急がれる。

奈良県の仏教寺院の分布表を提示された。

1796寺のうち、断トツなのは浄土真宗。

609寺もある。

2番目は338寺の浄土宗。

3番目は297寺の真言宗。

4番目は208寺の融通念仏宗である。

以下、曹洞宗、日蓮宗、法相宗、華厳宗、真言律宗・・・である。

庶民民俗が多く見られるのは浄土宗、真言宗、融通念仏宗で、浄土真宗には民俗行事はまずないと話す。

念仏信仰のひとつに十三仏がある。

死んだつもり修行する生前修行は逆修。

そうすることで阿弥陀さんの世界にいけると信じられた。

念仏風流・辻念仏の例示は「古市氏」。

お盆になれば念仏風流していたのは応仁時代。

念仏講碑の金石文が多くある大和の国。

他の地域では確認できないくらいに少ないらしい。

大和の特徴だそうだ。

講演時間は2時間を越えた。

雨乞は飛ばされて野神を話す。

稲作始めにジャマキをする大和の野神行事。

水の神は日照りに水を潤す「カミ」。

田の神となって出現するが、滋賀県では豆の収穫時期。

子供の相撲の褒美に大量の豆をあげるそうだ。

(H26. 5.18 SB932SH撮影)

第25回天理考古学・民俗学談話会聴講

2014年11月20日 08時19分43秒 | 民俗を聴く
始まってから25回目を迎えた天理大学天理考古学・民俗学談話会。

なんと今年で四半世紀にも亘る。

私は天理大学の卒業生でもないごくごく普通の一般人。

天理考古学・民俗学談話会を聴講するようになったのは平成24年からだ。

発表されるテーマによっては知りたいものがある。

そう思って今年もやってきた。

学生、一般人の受付は別個だ。名を記して500円の資料代を支払って、ふるさと会館こと天理大学9号棟に入る。

この日の午前1時。真夜中の棟内は人でいっぱいになったそうだ。

宇宙飛行士の若田光一さんが船長を務めている国際宇宙ステーションと米国NASAに天理大学雅楽部を結んだコラボ演奏があったという。

管楽器の笙(しょう)を奏でたのは若田さん。

NASAではバイオリン演奏で雅楽部学生が共演した。

ユニークな試みである。

長期間に亘って活動してきた若田光一さんは5月14日に、無事に地球へ帰還した。

それから数時間後に始まった第25回天理考古学・民俗学談話会の第一部は、題して<地域社会と文化遺産>。

1.伏見城と伏見桃山・名古屋大学大学院博士課程の西野浩二、2.水間八幡神社の祭祀組織・天理大学歴史文化学科事務助手の小野絢子(アヤコ)、3.関西における民芸運動の展開・大阪日本民芸館学芸員の小野絢子(ジュンコ)、4.東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―・天理大学考古学・民俗学専攻の齋藤純氏らが発表する。

午前の部はここまでだ。第二部に<物質文化と技術>、第三部に<各地の遺跡調査>があったが、所用が入っており途中下車した。

私が知りたかったのは水間八幡神社の祭祀組織と東吉野村の「魚見石」だ。

水間八幡神社の祭祀は田楽を奉納する芸能行事がある。

マツリに出仕される当家・当人を決めるフリアゲ神事、宵宮に行われる当家の座に真夜中の田楽奉納、大祭の座・馬駆け・子供力士相撲である。

2月11日には名替えが行われると聞いているが未だ拝見できていない。

対象となる男児がいない場合は代理人となる名替えの儀はいわば元服。

村入りの認められる年齢に達した際に幼名から成人の名に替えるのである。

総代が立会する儀式より数時間前には年番の引き継ぎもある。

今では11日に移っているが、かつては1日であった。

その日は弓鏑的の式があったと大正四年調の神社調査書にそう書かれているが、「宮座」の文字は見られない。

水間の八幡神社の祭祀を務める組織は宮座だと推挙された発表者。

いつしか村座に移った変遷を卒業論文にしたためたそうだ。

県内各地には今尚宮座を継承している地域もある。

村座に移った地域も多々あるなかで、なぜに水間を選ばれたのか発表にはなかった。

宮座研究は奥が深い。

調査地をどこにするかで特定することは難しい。

一事が万事ですべてを明らかにすることはできないと思っている。

昭和4年に宮座調査書の質問にある「宮座」の名称に回答はなかった水間。

そりゃそうである。

私が知る地域でも「宮座」の呼称はなく、○○座とか□□座、或いは○○講とか□□講である。

ある地域では「宮座講」の名も見られる。

「宮座」の呼称で呼んでいたのは僅かで、「座」と呼ぶ地域もある。

これはいったいどういうことなのであるのか。

呼称の研究は多くの事例を調査しなければならない。

本質的には地区に残されている文書が一番だと思っている。

場合によっては神社に寄進した燈籠などに「座」或いは「講」の名がある。

そもそも江戸時代には「宮座」の呼称はあったのか、である。

地域によっては「座」は一つだけでなく、二つ、三つの場合もある。

もっと多くの事例を研究する余地がある発表。

若い人だから、水間だけでなく多くの地域に足を運んでほしいと思った。

天理大学歴史文化学科教授の齋藤純氏が報告された「東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―」はとても興味深い。

「魚見石」は氏の談話で始めて知った。

東吉野村の小(おむら)にある「魚見石」の原像はどのような過程があって、そう呼ばれるようになったのか。

「小」の文字一つで「おむら」と呼ぶ訳も始めて知った。

もともとの「小」は「小村」であった。

「村」の字が取れて「小」の一文字になったが、呼び名がそのまま残ったのである。

それはともかく「小」にある「魚見石」の伝承に、「神武天皇が厳瓮(いつべ)を流して戦勝占いをした所だ」がある。

ところが日本書紀にはそのような記述がないのだ。

一方、「高僧の奇跡譚と似た内容を村の人が記憶にある」というのだ。

高僧はおそらく弘法大師。全国各地に弘法大師が発見したなにがしだという奇跡譚がある。

「魚見石」に掲げられている聖蹟碑は村の伝承であるには違いないが、日本書紀の事柄にはないのである。

いつの時点で事実に基づかない「魚見石」が伝説になったのかである。

日本書紀にあるのは、大和侵攻に際して天神の夢告があったということだ。

夢告は「天香山の埴土(はにつち)を以って平瓮(ひらが)、厳瓮(いつべ)を造って丹生の川に沈める」。

厳瓮とは酒瓶である。

思い出したのは、畝火山口神社の埴土取り神事だ。

大阪の住吉に鎮座する住吉大社で祭祀される際に用いられる「神酒壷」と呼ぶ祭器の願材料が「埴土」である。

祭器の原材料は、畝火山口神社の元社になる畝傍山山頂に存在する。

かつては耳成山にもあったことが知られている。

「埴土」は夜行性コフキコガネの糞であると橿原市史に書かれてあった。

樫の木の養分を集めて、土(のなかの精髄を)丸めて団粒にするコフキコガネの習性。

自然界から生まれたものを秘土とした埴土に驚きを隠せない。

日本書紀にある「埴土」は天香山であったのだ。

「埴土」で造った土器を川に沈めて、その浮き沈みで祈い(うけい)をした。

その場は「誓(うけい)の淵」だ。

「土器を沈め、魚が酔って流れたならば、国を平定できるという祈い。

それを見た家臣の椎根津彦は神武天皇に報告したところ、大いに喜んで丹生の川上に諸神を祭った」ということである。

齋藤純氏は続けて話す。

「魚見石」の異伝に「焼魚蘇生譚」がある。

それと同じ類型譚は各地に見られる。

宗派拡大をもくろむ宗教伝播者がいた。

それが各地に広がった「焼魚蘇生譚」。

魚を捕る村の人から料理した魚を提供される。

宗教伝播者は、自己のものとして川に入れる。

すると魚が蘇生して川に棲むことになる。

氏曰く、これをきっかけに在来の村人と訪れた宗教伝播者による教化によって宗教的関係が結ばれる、というのだ。

「小」では「村人から提供されたアマゴは片身を焼いたまま、堰に入れた。するとアマゴは蘇生して堰より俎上する様を村人とともに見た」というのだ。

その場をカンジョウノフチ(勧請の淵)と呼び、宗教伝播者(推定弘法大師)は神仏を勧請し祈願を行ったと記す。

古老が記憶にあった「焼魚蘇生譚」は「魚見石」に改変された。

その際に神武天皇の祈いを加えたのであろう。

伝説はいくつかの要件が合わさった作り話の物語(譚)なのである。

言い伝えはともかく伝説は古譚。

なにがしかの要素が変化を加えて伝わってきた。

事実関係は史料にある。

それを深く考察することが大切だとあらためて認識した講演であった。

ちなみに氏が一覧表にされた弘法大師が由来する「焼魚蘇生譚」の地域は次のとおりだ。

奈良県内では東吉野村小の他、旧都祁村の上深川、旧室生村三本松・同村平原、十津川村出谷・小壁がある。吉野町国栖の由来は弘法大師でなく、天武天皇になる。

和歌山県では高野山内玉川も弘法大師。

大阪府は行基が関係する堺市家原寺だ。

兵庫県伊丹市昆陽池も行基である。

(H26. 5. 3 SB932SH撮影)

葛城地域の民俗学in葛城市歴史博物館

2014年09月11日 09時00分34秒 | 民俗を聴く
3月16日まで展示されている葛城市歴史博物館の冬季企画展は「農家の四季―祭礼と耕作図―」である。

祭礼は當麻山口神社のオンダ祭事例しかなかったが、大きな絵馬と屏風に目がいく。

明治時代に描かれたという耕作図絵馬は磐城小学校蔵。

耕作図の企画展は平成20年にも展示されたが、私は拝見していない。

たぶん違うモノだと思うのだが・・・。

耕作図絵馬で興味をもったのは、牛耕だけでなく馬耕の姿もあったことだ。

奈良県内事例ではまったくといっていいほど登場しない馬耕。

耕す農具はマンガ或いはマンガン(馬鍬)である。

牛が曳いていたのはカラスキ(犂)だ。

もうひとつの耕作図は屏風。

心ある家が寄託された館の所蔵品。

暮らしぶりも含めて稲作の四季が判る。

じっくり拝見している時間はない。

講演会場に急ぐことにする。

話者はこの年の3月末まで奈良県民俗博物館に勤めておられた鹿谷勲氏。

忙しい人であるから一年前から講話を頼んでいたと話す館長。

県職時代は教育委員会で文化財保護に携わっていた。

その頃は同室だったと話す。

県内各地を歩いて民俗文化を探訪してきた鹿谷勲氏が話す葛城地域の民俗を聞きたくてやってきた。

年に数回、葛城市歴史博物館から届くハガキを見てときおり訪れる。

座学は教養知識を埋めてくれる。

そうおもって選ぶテーマ・話者。

葛城地域の民俗にはどういうものがあるのか知りたかった。

「追想・回想は大事なこと。脳を活性化する。身体で覚えている民具で昔の暮らしを思い起こす。集落の記憶は住んでいた土地の記憶でもある。昭和50年に民俗文化財が法令化された。過去の記憶体験が将来に役立つチカラとなる。奈良新聞で毎月掲載されている「民俗通信」が始まったのは平成2年。今月で227回目になった。民俗はどのように調べてきたか。歩く・観る・聞くである。さまざまな土地を訪れて住民の記憶を採取してきた。それを文字化する。集めて比較して思考すれば見えないものも判ってくる。民俗文化の研究は本質と変化する部分を知ることにある。そうしてこれからの暮らしに活かす。生駒高山には茶ガユがあるが、大阪はシラカユ(白粥)である。ちゃんぶくろ(茶袋)を知るようになった。それから茶ガユに関する民俗を調べた」から始まった講話はスライドショーで紹介される。

そこでボールペンのインクが無くなった。

隣の席についた男性は顔見知り。

偶然の遭遇である。

男性は度々お世話になっている御所市西佐味の住民。

これまで山の神や弁天さんにとんど行事まで取材させていただいた。

ありがたい出合いである。

スライドショーに映し出されたコイノボリ。

どこかで見たような映像である。

映像はコンパクトだったので判り難かった。

眼をこすって拝見すれば、御所市多田(おいだ)で取材した杉の葉付きのコイノボリだ。

これを撮ったのは私だと紹介してくださった。

次に映し出した映像は武者絵大幟

これは當麻の映像である。

まさか、この日の講演に映し出すとは思わなんだ。

事前に云ってくれれば、元画像をお渡ししたのに・・・。

(H26. 3. 8 記)

第24回天理考古学・民俗学談話会聴講

2013年08月07日 07時17分15秒 | 民俗を聴く
前回に聴講させていただいた天理考古学・民俗学談話会。

今回も楽しみにしていたプログラムに「誕生における絵馬奉納習俗」がある。

県内各地の神社行事をしてきた私にとっては奉納された絵馬にも興味がある。

絵馬は地域の在り方にも繋がる習俗。

今でも奉納される地域は多いが廃れた処もある。

大きな絵馬もあれば小さな絵馬も。

どのような発表をするのか興味津津である。

談話会は一般の人も聴講できるところがありがたい。

受付で資料代の500円を支払って入室する場は天理大学9号棟の「天理ふるさと会館」。

前回は随分と迷ってしまって到着する時間は開始時刻をとうに過ぎていた。

今回は送れないようにと思って早めに出かけた。

たっぷりある朝の時間帯は苗代探し。

すでに始まっている地域もある。

気になっていた奈良市窪之庄や天理市豊井町の田んぼはどのような状況であるのか、である。

2か所とも荒起こしをしているものの、作業は見られない。

少し早かったようだ。

他所も探してみたいが、ゆっくりとする時間はない。

諦めて会場を目指す。

講内に林立する銀杏の葉が大きく広がっている。

傍らに咲く白い花。藤の木であろう。

受付を済ませた会場の一角にあった展示物品に目がいった。

「越敷山(こしきさん)古墳群の発掘調査」で出土した供献土器の一部を持ってこられた特別展示品。

土師器の杯や高杯に須恵器の壺などである。

越敷山古墳群は鳥取県西伯郡伯耆町。

遠景に伯耆大山がそびえるそうだ。

米子市南部に隣接する町で、120基あまりの小規模円墳が越敷山北麓だそうだ。

土師器とともに須恵器が出土する事例は西伯耆の青木編年と陰田編年の隙間を埋める貴重な資料になるらしい。

現物を拝見する機会を設けて意見を聞きたいと持参されたのは米子市文化財団の主任調査員の佐伯純也氏。

ほぼ完全な土器は祭祀に用いられたものと推定される。

一つは一本、一本の斜めの筋を周囲に刻まれた土器。

間隔は4mmだと見えた条痕。

もう一つの土器の文様は「~」の波線だ。

一つの箇所に「~」の5本波線である。

それが上部周囲に亘って描かれている。

描いた道具は何であろうか。

閃いたのは先を割った竹ヘラ。

細く割いた竹ヘラの先を尖がらしていたのであろう。

展示は他にもある。土器の破片だ。

その一部に光沢がある緑色。

釉薬をかけたのであろう。

この時代には珍しいと話される。

こうした展示物を拝見して始まった第24回天理考古学・民俗学談話会。

天理大学の考古学・民俗学教員や卒業生が最新の研究成果や卒業論文を発表されるテーマは11。

午前午後の部に分けて報告される。

時間的な都合があったこの日の聴講は午前の部だけにした。

トップバッターは2012年卒業生の浅井裕登氏による「誕生における絵馬奉納習俗—奈良県の事例を中心に—」である。

ご本人が誕生したときに上牧町の稲荷神社に奉納された誕生絵馬に興味をもつ。

母親が出里の明日香では誕生絵馬はなかったことに疑問を抱いて県内各地の習俗事例を研究された。

報告に驚いたのは調査された数量である。

上牧町、王寺町、広陵町、河合町、川西町、三宅町、田原本町、安堵町、三郷町、平群町、斑鳩町、香芝市、大和高田市、橿原市、旧新庄町、旧當麻町、天理市、高取町、明日香村、桜井市、大和郡山市、御所市、旧大宇陀町、旧菟田野町、大淀町の412社である。

調査期間が2011年10月から2012年12月までの14カ月間の420日間。

単純計算するだけでも一日、一社を調査していたことになる。

これはすごいことである。

所在を確かめつつ地元住民の聞き取り調査もされた。

おそらくは毎日の出動ではなく、一日に数カ所を調査してきたと思われるのだが・・・。

私自身も神社のみならずお寺や地域を調査してきたが無理である。

時間的な制約もあることから車か単車移動でなければできない。

電車、バス利用の歩きでは到底間に合わない。

神社に到着しても、関係する村人すら遭遇することもままならない旧村の神社調査。

絵馬が掲げられている場といえば特別の絵馬殿に拝殿、参籠所内である。

セキュリティの関係上、扉が閉めてあって入ることさえできない神社は多々ある。

その場合は神社関係者に鍵を開けてもらわなければならない。

相当な苦労があったかと思える多量の神社調査に驚いたのである。

報告者の報告によれば絵馬の確認は目視。

写真は撮らなかったのだろうか。

一枚、一枚の絵馬を現場で見るだけでは気がつかないこともある。

細かな点はそのときには気つきに漏れがある。

私の場合は承諾を得て写真を撮らせていただいている。

枚数が多い場合は撮影に時間がかかるし、帰宅してからの画像確認も時間を要する。

報告の分析結果は勝愛するが、それだけの時間を確保することも難しい調査をされたことに感服するのである。

2番目は太田千波留氏の「共鳴するモノと記憶—中国広東省広州市における毛沢東紀念品の事例から—」。

3番目は安井眞奈美氏の「太平洋芸術祭への若者の参加—第11回ソロモン諸島大会より—」。

4番目が栗山雅夫氏の「考古学・民俗学における写真のデジタル化」であった。

文化財、考古学、民俗学の写真撮影における条件や、近年目覚ましいデジタル画像と銀塩写真の相違点、撮り方などを発表されたが今後はどう対応すべきか、期待に欠ける報告であった。

文化財の記録は直面する課題は時代の流れ。物質的金銭面である目論見は当然であろう。

予算がないということを伝えたかったのだろうか。

被写体撮影もさることながらデジタル化の最大の課題は保存である。

捉えた被写体の確保は絶対である。

複写若しくはサーバーなどのバックアップ体制の確保である。

バックアップ施設の二重化。

最新の状態に保時するコンピュータシステム運営のいろはである。

一瞬に消滅する電磁的記録の保存こそ重要な課題だと思っているのは私だけなのであろうか。

(H25. 4.27 SB932SH撮影)

小林町の牛話

2013年02月26日 09時06分17秒 | 民俗を聴く
かつて牛を飼っていた小林町のH家。

当時を思い出すように話しだす。

その様子を知りたいと申し出ていた県立民俗博物館の学芸員に伝えたところ聞き取りの場が設けられた。

「あんたも来てほしい」と願われて同席した。

1.飼っていた牛は貸し借りをしていた。

相手先は宇陀市の榛原や都祁村の白石だった。

牛は歩いて連れて行く。

裸足では痛かろうと編んだ草履を履かせた。

爪を剥がすから2足要る。

牛は四ツ足の動物やから8枚編んだという。

4枚は道中で傷む可能性があるから予備に持っていった。

榛原や白石は東の山間。

山のほうでは先に働いていた牛が居る。

離し飼いしていた牛は放牧された土地の草を食べていた。

宇陀榛原が出里のSさんはその地を国中(くんなか)と呼んでいた。

逆に小林町などの盆地部を平坦(へいたん)と呼んでいた。

平坦を「ヒロミ」と呼んでいたのはHさんだ。

平坦から見れば山間は「ヤマガ」と云う。

「ヤマガ」はおそらく山側であろう。

牛が平坦に居るのは5月から6月にかけた2ヶ月間。

「しもうたら山へ送っていく」と話す。

牛小屋は「ウマヤ」と呼んでいた。

牛は親戚筋の家と共用で1カ月ずつ交替する。

これを「預ける」という。

その時期は「ムギをしてた」そうだ。

牛の糞を素手で掴んだ。

これを「クマシ」と云う。

ムギを撒く。

田んぼで小水するおしっこは桶に入れて蓄えた。

当時は木の桶の「肥えたんご」があった。

聞いていた私にとっても懐かしい響きである。

肥えたんごは牛がおらんようになって潰した。

肥えたんごにムギを入れたら温かくなる。

5月になれば白石は田植えをしていた。

5月初旬のことであった。

藁は牛の餌にしていたと話す。

2.カラスキは手綱(たづな)でもって「チャイ チャイ」と云いながら引っぱった。

左に向かわせるときに使う言葉だ。

右に向かわせるときは「チャイ チャイ」はなくて手綱を引っぱるだけだと云う。

牛は「ドウド ドウド」で停まる。

「シットレ」が行けという合図だ。

手綱で牛を叩けば再び「歩きだしよる」がムチは使ったことがないと云う。

10歳から20歳ぐらいの牛はよく働く。

若い牛はいうことを利かんと云う。

黒牛はいうことをよく利く優しい雌牛。

チョウセンウシと呼んでいた雄の赤牛は気性が荒いので怖かったそうだ。

発情期は特に気が荒いから働き牛にはならなかった。

百姓屋の牛は長生きする。

牛が死んだとこを見たことがないという。

牛の場は小林町の北部側にあった。

モウモウと鳴いていた。

博労が持って帰ってくる若い小さな牛と交換した。

痩せた牛はお金はいらん、働く牛は金がいる。

博労が競りで落とした牛を連れてきたようだ。


3.宇陀の榛原には赤牛がいたというSさん。

粘り強い牛だったようだ。

伐採した材木を曳く牛車は繋いでいたロープを外したらさっさと家に戻ったという。

牛のハナギは子牛のときに付ける。

焼きヒバシで穴を開けたと思っていたがそうではなかった。

Sさんの姪御さんの嫁ぎ先は稲戸のⅠ家。

昨年までは牛を飼っていた。

生まれた一年牛のときに千枚通しのような道具で穴を開けたそうだ。

ハナギは割れることもある。

柔らかいヤナギの木だった。

ヒノキの曲がった木でもよかった。

道具で穴を開けたら血がじゅるじゅる出たそうだ。

舌でペロペロしてたから可哀そうだと思った。

牛は涙を流すことがある。

涙を流せば作業をしない牛。

牛の顔を見れば健康状態がわかるそうだ。

4.ムギは皮を剥いてぺしゃっとして柔らかくした。

正月にウシのモチを搗いていたS家。

コジキのモチも搗いていたそうだ。

Sさんの実家では「ブトクスベ」をしていた。

ボロギレとワラの紐だった。

夏場は火取り。

ソラマメの莢(さや)を火ばちの上でくすべていた。

人が起きているときにしたという。

よう乾いた藁が牛の餌。

藁は竿に掛けて乾かした。

濡れたらあかん。

乾かした藁は納屋で保管した。

牛を繋ぐイトナワ(糸縄)は青色だった。

細い糸縄だが親指よりも太い。

カラスキにも繋げていた。

「お」(麻の緒)であったら牛の身体が傷つく。

「お」が切れたら博労さんに付け替えてもらう。

県北部で見られた牛を連れて参るノガミさんはなかった。

博労さんは突然にやってくる。

博労の家では何頭も常時飼っていて、連れてきた一頭を交換してくれる。

牛が風邪をひけば博労さんが瓶ビールを飲ませた。

博労さんが処置できる範囲内で注射することもあったようだ。

5.牛の貸し借りに行く博労さんにはソラマメを袋に入れて持たせた。

天理の岩屋や米谷辺りでおち合った。

当時は砂利道だった。

交換しあったあとの帰りはバスと電車で戻った。

着いた先で相手方が来るのを待っていた。

その際には牛を木に結わえていた。

昭和12年生のHさんは二十歳頃に牛を連れていったそうだ。

牛の餌のカイバ(飼い葉)の桶。

それは桶屋で売っていた。

小泉にアラモン屋があった。

そこでは牛の鞍も売っていた。

小泉は庚申さんの道筋。

当時は出店がたくさん出ていたそうだ。

小林の博労以外に生駒の博労さんもいた。

そこでも常時3頭から5頭も飼っていた。

秋には3頭ほどが牛のヘタレの対応で増頭したそうだ。

朝は涼しくて牛はよく働く。

暑くなれば動かない。

もう一軒の家が夜遅くまで牛を働かせていたら翌朝は動かなかった。

牛は毎日交互に使っていた。

1軒だけで牛を使っている家はなかった。

2軒の共同利用である。

昭和39年に嫁いできたときには家には牛はいなかったと話すSさん。

昭和35年に小林に嫁いだHさんの奥さんは牛がいて飼っていたという。

H家では昭和40年初めまで飼っていたという町最後の牛であった。

最後のほうの牛はまだ小さかったそうだ。

飼っていた牛には名前を付けていなかった。

ウマヤ(厩)は門屋の左側にあった。

右側はイネヤ(稲屋)だった。

ウマヤ建物が今でも残っているというのはK家だそうだ。

6.杵築神社の奉納していた絵馬。

小学5年生になれば当村では子供が一団に組んで奉納した。

トラの絵馬とかの絵は西田中に住んでいた絵描きさん。

ガクも作っていたそうだ。

絵馬はマツリの前に奉納していたと話す。

来年の1月初めに杵築神社の建て替えがある。

本殿下の長床や座の建物も壊される。

そこに掲げてある珍しい絵馬はどうされるのか。

この時点で尋ねておけばよかったと思ったが遅しである。

小林町には面塚と呼ばれる地がある。

その周囲の田んぼはH家の所有地。

稲刈りするときには歩道沿いに刈った稲を置いていく。

墓地と同じ扱いなので免税されているという面塚に天から降ってきたと伝わる翁の面がある。

その面を被って翁の舞いを演じていたのは郡山市内の柳町住民。

JR郡山駅から西へ通る商店街。

昆布屋さんがあった。

薬園八幡神社の少し手前。

外堀手前ぐらいの処に住んでおられたご主人が亡くなってからは舞いも消えた。

翁の舞いは小さい子供は怖がって見ていたそうだ。

Sさんが話すに2歳か3歳の頃の光景。

昭和40年の初めぐらいだったようだ。

7.牛は田んぼの盛り土を歩く。

暴れるのは初めてウマヤを出たときのこと。

手で掴んだハナギを持って歩いた。

ハナモチがおらんと急に暴れ出す。

カラスキを引っぱっていく牛。

ぐいと土にめり込んで折れてしまったそうだ。

牛が逃げて他の田んぼに行ってしまった。

見かけた隣の畑の人が捕まえてくれた。

牛はじっとしているときは草を食べているとき。

逃げもせずにススキの葉を食べていた。

牛に子供を乗せたこともあったが乗り物ではない。

牛を刷毛で背中をふいたら美しくなる。

ウンチがついたら水で流してブラシで洗った。

牛の維持費はぬか代だけ。

朝、昼、晩の三食食べていた牛。

当時は16、17万円もした耕運機が出現してから牛にとって替った。

耕運機は気を遣うことがない。

いつなんどきでも使えてラクになったと思ったが耕運機は売れない。

牛はその点で売れた。

安かったら10万だったが売れれば金になるのが牛だった。

牛から耕運機に代わってもシロカキをしているのは駅の西側の小泉町住民のKさん。

8.雌牛は角があった。

腰を突いてきよる。

鞍を付けるときには頭をもってくる。

その際に腰を突くそうだ。

稀には角で人間を突き飛ばすこともある。

牛のツメキリをしたことがない。

それをするのは博労さん。

前爪を抱えて小さな鎌で削るようにツメキリをしていた。

その鎌は今でもH家にあるという。

土瓶のような大きな銅製の茶瓶。

天井からつらくって竃の火で沸かした。

予めに作った米のとぎ汁をムギを混ぜた。

湯だけのときもあったが、それを牛の餌にしていた。

「牛にドウズやれ」と云われて米のとぎ汁を牛に与えた。

ドウズとは米のとぎ汁である。

それを藁に掛けたらえー臭いがしたそうだ。

鍋は一番大きいので竃で炊く。

イネワラを食べた牛は美味かったと話すSさん。

葬儀の日にの最初はシロメシ。

次がイロメシ。

三角アゲやゼンマイを味付けして煮ものにした。

それをゴッツアゲと呼ぶ。

広陵町ではユタテメシと呼んでいるそうだ。

他にもタタキゴボウやカラシアエもあったそうだ。

(H24.10.16 EOS40D撮影)
(H24.12.18 記)

歴史の視座から見た大和の農耕儀礼

2012年08月19日 08時57分20秒 | 民俗を聴く
二上山博物館で武藤康弘奈良女子大学文学部教授が語る『歴史の視座から見た大和の農耕儀礼』の聴講に出かけた。

座学は時間がある限り出席したいものだ。

今回は何を話されるのだろうかと思っていった。

地下の駐車場はとても狭くてすぐに満杯になる。

南側の市役所駐車場へと誘導されて停めた。

次男が子どものころに拝観したことがある博物館。

主な展示物はサヌカイトなど旧石器時代の産地だけに石の文化を知らせる。

発掘された古墳、石棺、埴輪など学習に役立つ展示である。

ボランティアガイドもおられるそうだが、古代史、歴史、有形文化財どまり。

無形民俗の部類はと尋ねてみても答えがなかった。

講座は「奈良は古い祭礼が記録に残されている。大和名所図会、諸国図会、春日大宮・若宮御祭、和州祭礼記などさまざまだ」と話される。

春日御祭はかつて11月26日であったことが記録にある。

数々の史料を通じて歴史を遡ることができる大和の祭礼。

形としては存在しないお祭りや儀礼。

祈りといったものは信仰の姿である無形民俗文化財だと語る。

農村の社会は変貌してきた。

少子高齢化の時代・・・。

現在に行われている祭礼は記録、収集、保存、教育に繋げていかねばならないと話す。

奈良の祭礼は農業や林業の生業と密接に結びついていることが多い。

映像を映しながら解説されたので列挙しておこう。

水口祭り、レンゾ、サビラキ、ノガミ、オンダ、虫送り、夏越し、雨乞い、風の祈祷、念仏踊り・・・の事例である。

ヒイラギ、イワシの頭が描かれている鎌倉時代の春日権現霊記。

それは魔除とされる。

蘇民将来(そみんしょうらい)。

チマキ(粽)、祇園祭で名高い京都八坂神社。

京都の壬生寺境内遺跡に蘇民と書かれたお札が出土した。

急々如律令。クジのゴイッポウ、呪文・・・道教の呪文。

平城京跡。呪符木簡に「八百急々如律令」がある。

おまじないは古い時代からあった。

水口に祀るお札の事例。

桜井の箸中は須佐之男命の牛玉宝印。

水路を通じて苗代に疫神が入らないようにと祈祷するお札。

稲の育ちに対する魔除けとも。

奈良市都祁馬場の水口はウルシ棒。

金龍寺のお札である。

奈良市都祁友田は木の枡を置く。

そこにはアラレを入れたようだ。

桜井の小夫ではアラレがあった。

添える花はイロバナと呼んだ。

田原本町の伊与戸は花だけであった。

天理の藤井ではオコナイがある。

その弓矢を苗代に立てる。

川西町の下永では唐招堤寺の宝扇であった。

この扇には疫神除けの梵字が書かれている。

奈良市都祁針の観音寺のオコナイは動画で紹介される。

ランジョーの在り方は特殊である。

ゴーサンを持って堂内を走り回るのだ。

平成17年には私も取材させていただいたからその様相はよく判る。


(H17. 1.12 EOS KISSⅢ撮影)

牛玉宝印書は版木で摺る。

祈祷を終えれば、ごーさんの朱印を額に押してご加持を受ける。

そして、フジの木に挟んで水口に供える。

生駒市の往馬大社の牛玉宝印。

レンゾとされるダケノボリ。

岳と呼ばれる山に登って咲く花を見る。

花が咲けば田植えを始める。

小夫のサビラキも動画で紹介された。

モミを包んだクリの木を田植え前に挿す。

豊作の象徴とされるクリの木である。

東山中ではフキダワラが見られる。

下永での牛玉宝印書の版木摺り。

かつての神宮寺とされる白米寺の名残である。

ノガミまつりは耕作地の外れ。

昭和40年頃まであった二毛作。

麦の収穫を今に伝えるノガミまつり。

奈良北部は牛回し。

角を赤く塗って連れて回る。

チマキを作って牛に食べさせていた。

牛や馬の絵馬を奉納する。

その姿は大和名所図会に残されている牛小屋の絵。

なんと小屋に絵馬があるのだ。

牛神信仰の一形態とされる。

江戸時代までは祇園系の神社は牛頭社と呼ばれていた。

仏教色が色濃い。

雨をもたらす蛇。

それがでてくるノガミのまつり。

橿原上品寺のシャカシャカ、田原本町今里・鍵のジャマキなどが有名だ。

オンダ事例の一つに大和郡山植槻のオンダがある。

天保十年(1839)正月の銘があるクワが残されている。

大宇陀平尾のオンダではオヒネリ桶に延宝四年(1676)とある。

御田植目録は天保十五年(1844)だ。

手向山八幡のオンダで用いられる桶では文政二年(1819)。

図絵によれば、昔は鈴の神楽舞があったそうだ。

吉野山のオンダには応永二十年(1413)の『当山年中行事条々』が残されている。

古い時代を遡ることができる貴重な史料である。

太鼓と鉦を打ち鳴らして虫を追い出す虫送り。

奈良では見られないが、愛知県で行われているサネモリ。

サネモリは平安時代末期の武将である斎藤実盛を表したとされる騎馬武者人形だ。

京都府相楽郡の和束(わつか)にも虫送りの人形が登場する。

かつて十津川村においても人形が出たそうだ。

夏越しの祓え。飛鳥坐神社に茅の輪がある。

春日大社の茅の輪は町屋にもある。

十津川の風の祈祷が念仏踊りと繋がった。

香芝市狐井の板仏も雨乞いだそうだ。

先生の出生地は東北。

その一つにあげられる豊作占。

ワラを立てる秋田の雪中田植え。

小正月に倒れたワラの本数は月数に数える。

その年の出来不出来を占う行事だそうだ。

第二部は今年の4月に就任された松田真一館長との対談。

前職は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館館長だった。

『弥生の里~くらしといのり~春季特別展』への協力をしたことがある。

その際に学芸員より紹介されて挨拶をした方だ。

忘れもしない、東北関東大地震が発生した3月11日のことだ。

地震、津波が発生したというラジオニュースを車中で聞いた1時間後に附属博物館会っていたのだ。

それはともかく、対談は農業、農耕の在り方は知らないからと質問形式で進められた。

その対談話を列挙しておこう。

盆地部と東山中の違いは・・・。

牛の貸し借り、田植えの時期、農事の相違。

山間は盆地に比べて気温が五度も違う。

11月に稲刈りをしていた盆地部。

サビラキは田植え初めの儀式で山中にある。

サナブリは盆地部で家サナブリと村サナブリがある。

ノガミの行事は山間にない。

母親の出里は都祁村だった。

友田、白石はウラ毛が採れない。

気温の違いが如実にでる。

蘇民将来・・・急々如律令。

急々如律令は台湾民俗。

道教の影響が色濃い。古来から日本は何でも受け入れてきた。

日本の信仰、文化がある。

一つのものにお願いするだけでなく、神さんであろうが、仏さんであろうがあらゆるものにお願いをする。

天王の名がついていた牛頭天王社。

明治の初めに八阪神社、杵築神社、スサノウ神社の名に替えられた。

お田植えは予祝の行事。

神さんを先に迎える。

秋の収穫後はイノコがある。

ワラの棒で地面を叩く。

高田のイノコでは叩くことが見られない。

川に出かけて石を拾うオナンジ参り。

それを社に置く。

禊の在り方である。

ノガミやマツリの痕跡は弥生時代にあったのか。

動物との関わりはどうか。

川魚のコザカナは水田で飼っていた。

ノガミにワカメ汁が見られるが・・・。

吐山のエビス神社のマトウチはシカウチ、それともオンタイジなのか。

吐山は成人儀礼。

播磨国風土記には動物の血を畑に入れれば育ったという話がある。

それは再生への儀礼である。

などなどの対談。

短時間であるゆえ質問も難しかったと思う。

会場に集まったのはおよそ60人強。

数人からも質問があった。

これも列挙しておく。

映像で紹介されたハナカズラはどこでしているのか。

小夫のオンダであるが、シキビが供えられることから仏教的。

祖霊信仰との関係は。

オモチを供えることが多々ある。

モチは人を表す。

ヒトミゴクとも呼ぶ行事がある。

東北のオンダは。あまり見られない。

東方では奈良に近い東海地方ぐらいまで。

ミナクチの鳥とか獣を供えることはあるのか。

そのような事例はない。

長時間に亘った講演、対談を終えて博物館展示を拝観した。

その一部に発掘された木簡が展示されていた。

それには「和世種三月六日 小須流女十一日蒔 種蒔日 伊福部連豊足解 申進上御馬事 今日□ 可命死依此御馬於飼不堪」などの文字がある。

9世紀初頭の井戸から発掘された下田東遺跡だ。

平安時代における種蒔きを示す木簡は聞いたことも見たこともない。

「和世種」は現在でいう「早稲」種。

「小須流女」は品種であろうとされる。

裏面には「小支石田刈」もある古代の文字。

「七月十二日十四日十七日」「田苅五日役」と稲刈りの日を表していたと解説されていた。

(H24. 6.10 聴講)

第23回天理考古学・民俗学談話会聴講

2012年07月23日 07時36分57秒 | 民俗を聴く
ふとしたことから「天理大学考古学・民俗学研究室の日常」ブログの愛読者になっていた。

それにはときおり学生たちが民俗学の探求のために行事を見学している内容もある。

詳細な報告ではないが参照している。

奈良県内では東吉野村木津川の祈祷念仏や奈良市南庄町の腰いた地蔵尊の地蔵盆、同市月ケ瀬桃香野の能楽、同市古市町の御前原石立命神社のマツリ、同市南之庄町のカンジョウカケ、同市西九条の倭文神社の蛇祭り、天理市福住のさる祭り、同市上仁興の元座講・ケイチン、同市荒蒔町のケイチン・アカラガシラ・秋祭り、同市藤井町のオニウチ、同市石上神宮のでんでん祭り・ふる祭り、同市新泉町の大和神社の御田植祭などだ。

他にも数々の地域民俗調査もされている。

或いは、ときおりではあるが調査報告の例会もある。

また、年に一度は天理考古学・民俗学談話会をされている。

その講演内容を見るたびに一度は聴講してみたいと思っていた。

これだと思ったのが第23回の談話会

土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム学芸員の小林善也氏が語られる「土井ヶ浜遺跡研究の現在と展望」に飛びついた。

平成12年9月のことだ。

その年から遡ること5年前から始めた長距離サイクリング。

平成8年は琵琶湖一周、9年は嵯峨野嵐山周回、10年は淡路島一周、11年がしまなみ海道へと続く山口県半周していたときのことだった。

当時はまだ40歳代。

身体も若かった。

山口県半周のコースは新門司→関門トンネル→長府→秋芳洞→秋吉台→萩→長門→油谷→土井ケ浜→レトロ門司→新門司だった。それだけの距離を二日がかりで走り回った。



(H12. 9.27 OLYMPUS TRIP PANORAMA2撮影)

海岸沿いに巡った伊上、粟野、阿川、特牛港、土井ケ浜。考古遺跡も見たくて訪れた土井ケ浜弥生オパーク。

ここには国指定遺跡の土井ケ浜ドームや人類学ミュージアムがあった。

平成5年に開館された施設だ。

出土人骨約80体の発掘状況を忠実に再現した土井ケ浜ドーム。

かつての弥生人類がどう思って生きていたのか、実に感慨深い構成であった。

弥生人はどういう生活をしていたのだろうか。

その後の発掘調査を待つしかなかった。

山口県にはその後訪れることはなかったが、今回の講演で明らかにしてくれる。

その願いが叶えられると思ったのである。

ブログの案内では関係者限りとはアナウンスされていない。

一般の者でも聴講できるのだろうか。

不安な気持ちで天理大学にやってきた。

ところがその講演場所が判らない。

天理のよろず病院は長男、次男もお世話になった施設だが、大学の位置が判らないのだ。

何人かの道行く人に尋ねてようやく辿りついた講演会場は天理大学9号棟のふるさと会館だった。

この日の談話会のプログラムは、天理大学考古学・民俗学研究室の桑原久男氏が語る「天理の考古学、その伝統と新たな展開」からだったが既に終わっていた。

会場は受付がある。

一般の者だが受け付けてくれるのだろうか。

不安な気持ちで尋ねてみた結果は・・・OKだった。

資料代500円を支払って聴講席についた。

2番目のプログラムは同室の安井眞奈美氏が語る「天理大学の民俗学20年」。

前述した民俗行事の祭礼見学や巡見の旅・実習、民具調査、聞き取り調査など歴史を振り返る。

得た資料、情報、研究成果は地元地域への還元が課題だと話される。

三つ目は天理大学附属天理参考館の山内紀嗣氏が語る「イスラエルにおける発掘調査の20年」である。

1987以前のテルゼロール遺跡の発掘はシャロン平原にある中期青銅器時代から紀元前八世紀~十世紀にかけての弥生時代。

弥生時代は日本のことだ。

旧約聖書には現れない地名であるが、青銅のヤリ先が出土したそうだ。

「列王記」、エンゲブは「アフィク」の可能性が高く、そこが河床の意味を持つと話されても行ったこともない遠く離れた地。

映し出された映像を見るだけだ。

シリヤ時代のゴラン高原は、第三次中東戦争(1967年)以降はイスラエルとシリアが領有権を争っている。

停戦以降は国連平和維持部隊が平和維持に従事している高原だ。

前期青銅器時代からローマ時代に至る盛衰を物語る遺跡。

オリーブ油の搾油施設が見つかったという。

四つ目が土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム学芸員の小林善也氏が語る「土井ヶ浜遺跡研究の現在と展望」。

興味津津、耳を傾けた。

1950年代、土井ヶ浜の発掘は天理大学名誉教授の金関恕(かなせきひろし)氏の父、金関丈夫氏(当時九州大学医学部教授)が団長として発掘した遺跡である。

「縄文人が進化」という日本人ツーツ定説を覆して「渡来・混血」説を提唱するに至った画期的な発見だった土井ヶ浜遺跡。その発掘の歩みを述べられる。

五つ目は小林善也氏と同じく天理大学を卒業して陸前高田市立博物館学芸員に就いた鈴木綾氏が報告される「陸前高田市立博物館の復興にむけて」だ。

平成23年3月11日に地震、津波によって被災した博物館は岩手県にある。

職員は亡くなり行方不明に。

残された収蔵品はガレキと化し水浸し状況となった。

そのレスキューにあたった博物館は全国で25施設。

被災後13ヶ月に亘る復興過程を報告される。



休憩時間中は天理大学附属天理図書館の特別展の見学。

所蔵された数々の蔵書に目が垂涎する。

永徳元年(1381)道果筆の古事記(重文)、乾元二年(1303)卜部兼夏筆の日本書紀神代巻(国宝複製)、大永元年(1521)卜部兼永筆の先代旧事本紀(重文)、寛元二年(1244)中臣祐定筆の万葉集巻第二十断簡春日懐紙切、元治元年(1864)大坂中沢八兵衛調刻木版色刷の和州奈良之絵図、安永七年(1788)の和州南都之図、天保八年(1837)春日若宮御祭礼松下図、寛政三年(1791)大和名所図絵などなど多数の展示は芸亭院開創1250年顕彰・図書館振興研究集会を記念した展示だそうだ。

サブタイトルに史料でたどる記紀・万葉の世界と大和めぐりだった。

ありがたい展示にもっと時間がほしかった。

プログラムの第2部は「天理大学考古学・民俗学研究室20周年特別企画」と題して天理大学名誉教授・前大阪府立弥生文化博物館館長の金関恕(かなせきひろし)先生による「研究室設立20周年、回顧と展望」。

私的な思い出を語る金関恕先生。

第1部を含めて豊富な内容の談話会に来てよかったと思う。

先生方とは直接お会いし話しを伺うときはなかったが、時間を持て余すことなく過ごすことができた。

この場を借りて厚く御礼申しあげる次第だ。

最後にふるさと会館に集まった方たちの集合写真を記念に撮られたが私は部外者。

近寄ることもしなかった。

第3部は懇親会。

待ち時間にお話ししてくださった大学関係者。

お一人は関西学院大学のK氏で、もうお一人は地域文化財研究所のF氏だ。

他所では味わえない私的な話題をしてくださった魅力的なお二人。

ありがたいことに名刺交換させていただいた。

アドレスを見て驚いたのはF氏の名刺の住所。

お聞きすれば驚くなかれ、地元自治会であったのだ。

お住まいは数百メートルも離れていない。

7月初めに行われた集会所の写真展に来てくださった。

この場を借りて感謝申し上げる。

そうして始まった懇親会は学生食堂。

一期生から次々と挨拶される。

私は学生を経験したことがないが、大いに盛り上がる雰囲気の一端を知ったが、やはり部外者。

時間を持て余す。

そして私に近寄ってきた男子学生。

すぐに思い出した誓多林の行事取材中でのこと。

オコナイマツリでお会いした学生さんだ。

私のことを覚えていて話しかけてくれた。

現地ではそれほどお話はしていなくとも覚えていてくれたことが嬉しい。

誓多林の役員も感謝していた大学生。

なんでもオコナイを論文にしたいと話す。

難しいテーマを選んだものだと思った。

私が知りえた情報も遣って構わないと伝えた。

それを利用するかは別として、今後の活躍に期待する。

(H24. 5.12 SB932SH撮影)