【文脈の変化】
犬は「刺激-反応」図式で動くマシンではない。
犬はみずからが関わる環境(実験者・ラボ環境)のコンテキストを読みながら、
行為と結果について学習し、記憶し、新たな行為法を組織していく。
「刺激-反応」図式の単純なデータがほしい実験者の素朴な期待は裏切られる。
犬は実験者が期待する通りに(或いはその逆)、文脈相関的に行為をチューニングしている。
【論理階型】
「遊び」は論理階型の多層性によって可能になる。
「遊び」はメッセージ(マジだよ)と、メタメッセージ(ネタだよ)がカップリングされ、
交換されるというポリフォニックなコミュニケーションによって実現される。
このゲーム性のなかに、文化的生産と同時に病理の発生起原がある。
【ワイスマンの壁】
コミュニケーションは基底的構造に備わる「柔軟性」(可動域)において起こる。
体細胞的変化はこの柔軟性内で起こる。
コミュニケートされる情報が基底的構造に侵入して構造を書き換えることはない。
この越えられない「壁」を越えて侵襲する外的要因、例えば放射能。
【公理系】
公理系の成立は、ある前提(世界の区切り方)を受容することを必須条件とする。
公理系の内側で整合的に成立する命題群は、
最初の前提の真偽を不問に付す(前提の自明性を承認する)ことを正当性を得る。
パラフレーズすると、「空気」内のどんな命題も空気の自明性(前提)を破れない。
【行為のフロー】
行為のフローに伴走するのは、「think」ではなく「feel」。
触覚・触覚性力覚・体性感覚等、
行為はゲシュタルトを満たす認知的内感とともに、歴史的に展開していく。
外部からの侵入的コマンドは「権力」として働き、フローの自然的展開を壊す。
【魂のインペリアリズム】
「まちがうことがあることを認めない人間は、ノウハウしか学べない」
⇒ 「ノウハウしか学ばない人間は、みずからの正当性を自明化させる」
すなわち、学習によってじぶんが変化しうることを理解せず、
「正しさ=ドクサ」から外れた人間を差別し、弾劾し、殺すことを正当化する。
【自己強化】
仕立ての悪い背広のごとく、存在のフォームと世界のフォームがフィットしないとき、
フィット感を得るための作法が分岐する。
①じぶんのフォームを変える。
②世界のフォームを変える。
③じぶんと世界のフォームの相互的歩み寄りによる着地点をさがす。
【宗教的かまえ】
仏教でいわれる「法」を迎え入れる作法があるのか。
たとえば、「ふるまひをやさしく、幽玄に心をとめよ」(心敬)。
「幽玄を」ではなく、「幽玄に」。
大いなる受身の存在的フォームが共振してキャッチする何か。
【生命のダンス】
生命は、即興のダンスを踊りつづける。
このダンスのフローを方向づける諸変数は、ダンス内部で完結することはない。
全体の「漸進的統合の決断」(ベイトソン)は、個別ダンスを一部とする、
さらに大きなダンス・システムのフローによって導かれていく。
【意識】
「意識のスクリーン」はシステムの一部である。
システムの一部でしかないスクリーンに、
「意識のスクリーンを含むシステム全体」が映されることは原理的に不可能。
だが、意識があたかも可能であるかのようにふるまうとき、
システム全体の作動はなんらかの異常(誤作動)を孕むことになる。
【天使のおそれ】
「意識」がみずからの起原および帰還地を、
みずからを含む非知なる全体性に置くとき、「祈り」の契機が生まれるように思える。
しかしそこに、祭司(エージェント)なるものの介入を許し、
「祈り」の領域が物象化されて操作が開始されると、
「精神」(全体性)の道具化が起こる。(この陥穽に世界は気づき始めたのか)
【情報の特性】
「情報=負のエントロピー」を生むシステムとしての生命現象。
不可逆な第二法則の進行に晒されつつ、システムとしての「定常性」を保つべく、
生命は「情報」を創発しながら、みずからのシステム状態を更新していく。
情報は、理想的には、ランダムネスに抗する生命の行為選択を方向づける。
【情報の特性】
「Aである」には、「非Aであらぬ」が貼り付いている。
一つの情報は、つねに「A」と「非A」のカップリングとして、
2層構造においてコミュニケートされる。
例えば、「日本人/非日本人」、「好き/嫌い」、「バカ/非バカ(賢明)」…。
例えば差別は、この構造(世界区分)に原郷をもつ。
【システムの保守性】
「ある種のシステム」にとっては、
「奴隷制」も「自然の沙漠化」も「ロボトミー」も目的に叶っている。
ある社会システムが自己維持(現状維持)を最上位命題とするとき、
各種のサブシステムは単なる制御対象となり、
システム維持にとって有効性のみが価値判定の基準となる。
【システム特性】
システムは現在的適応維持のため、みずからの組織特性を保守しようと努める。
だが、システム内の各変数の変動幅を限定することは、柔軟性喪失のリスクも孕む。
劇的環境変化に遭遇したとき、柔軟性を喪失したシステムは、
みずからの状態の根本的書き換え要請に応えられず、致命的な適応エラーが起こる。
【意識の特性】
意識による焦点化が起こると、行為は停滞や中断を余儀なくされる。
停滞や中断は、行為をプラス方向へ再組織化を促す契機でもあるが、
逆に、行為プロセスを致命的に壊すこともある。
外部からの計画的制御に慣れすぎた行為システムは、
自律的かつ創発的な作動のポテンシャルを失っていく。
【行為の自然性】
意識の作動は、行為にためらいや中断を停止をもたらす。
意識が前面化し、焦点化が過剰になると、「行為」は自然性を失う。
筆記も歩行もバッティングも、行為のフローが淀んでしまう。
システムの作動にとって、意識の不関与が積極的意味をもつ領域があり、
ここが「聖」と関連している可能性がある。
【システム危機】
制御的な「単一の変数」(ベイトソン)になりたがるオトコたちが、
東京都や大阪市に現われて一部喝采を浴びている。
「変数オトコ」を過剰評価して、身をまかせると、生態系は誤作動に陥り、
相転移して、暴走(ランナウェイ)する可能性がある。かつて旧軍がそれを演じた。
【「主人-奴隷」の関係フラクタル】
最上位にある「空虚な中心」を戴くナショナル空間構成があり、
そこから降臨したとされるコトバ(検証不可の天啓)が、
存在の空虚を埋めるコマンドとして機能しつづけている。
この一方向的コマンドの流れが、「主人-奴隷」の関係フラクタルを再生産する。
「デンキが足りない」も「第三の開国」も、同じ位相的機能をそなえている。
そして、現実には私益にまみれた司祭たちがその機能を回している。
【奪われる個の体験】
「連帯責任」を有効と考える愚かさが横行・席巻している。
学校およびスポーツの現場には、「個の体験」はなきに等しい。
「個の経験」を収奪して、規格化し、定常性を維持しつづける社会の見事なモデル、
例えば、全員マル坊主の仏式ベースボール。
【統治マインド】
「まだ沈まない。搾り取る余地はある」
「いままでもそうしてきた。顔はバレない。逃げ切れる」
不易の統治マインドによって、一国の自己修正能力は破壊され、全分野に波及していく。
一人ひとりの日々の業務遂行の精励と誠実の集積が、国土の焦土化を加速していく。
【聖性】
「聖」についての理解や解釈を権威的エージェントに委ねるとき、
内部的作動の全体性(integrity)は放棄され、外部的指令に服するものになる。
世界が「聖の領域」をもつのは、システム全体を駆動する第一原理の「不可知性」に由来する。
不可知性が可知性へと転換されるとき、権力システムの支配が具現化される。
フリーな立ち入りや言及が禁じられた領域=「聖」の領域が成り立つのはなぜか。
神社仏閣を含め宗教的な空間が、世俗と切り離された特別な位相をもつのはなぜか。
この領域への理解を権威的なエージェントに委譲せず、
みずからの内部的作動との関わりから、迎える作法を学んでいく必要がある。
【自己組織化の内部モデル】
生命が自らの内部状態、あるいは他の生命や環境との関係の質を知らせる内部アラーム=「feel」と考えてみる。
すると「美」は心地よく調和的で肯定的パターンの告知として、「feel」を訪れている。
ここから、「美」への接近=生命的な変化における普遍的課題として浮上する。
【美を迎える作法】
「理想のバッティングフォーム」が実現するとき、
意識はバットの握りやスタンスやヘッドの位置など、
身体的な「諸細目」への注目から完全に離脱している。
このとき識は諸細目への焦点化を止め、
「理想のフォーム」という全体相(イメージ)に「住み込む」(dwell in)。
ある種の体験はコトバに媒介されて物象化し、各業界の価値序列の陳列棚に並べられる。
宗教業界では、「悟り」が最高ランクの商品となる。
マーケティング、キャッチコピー、流通販売、人員配置など、
業界の収益システムが整備され、「ビジネス化」し、「体験」は奪われていく。
【状態遷移】
変化はデータの加算ではなく、全体の組織構成の変化を意味する。
システムが変化するとき、その一部である意識も変化の渦中にある。
このとき、全体を観察する特権的な位相はシステム内に存在しない。
「祈り」は、「なぜかそうなってしまう」という変化の作動を迎える作法としてある。
【限界領域】
「記述不可能な限界領域がある」という認識の欠落が、
現行メディアの「言語空間」(文脈)の傲慢や奢りや恥知らずを生産している。
「そんな見方もあるよね」といった表層的な寛容さは、
すべては自らが作る文脈に収容可能と考える「お気楽」と「誇大妄想」の表出を意味する。
【バッティング】
「聖の領域」に安易に操作的な手を突っ込むふるまいの背後には、
近代的な合理追求の思考、「脱魔術化」されたフラットな世界観がある。
ここで失われるものとは何か。
例えば、優れた打撃コーチは「教えない」。
バッターが自己組織化する領域に介入せずに、「気づかせる」。
独善的な打撃コーチがするように、「内容的十全性(integrity)」は、
異質なコンテキストへの権力的外部接続(強制始動・強制終了)によって破られる。
竹に木をつぐようなアドバイス(権力コマンド)挿入は、
「バッティングフォーム」(行為の十全性)に亀裂を入れ、才能を食い潰していく。