『精神の生態学』(Bateson bot2より引用)―――
「生命にとって本質的な機能は、単一の変数の支配に任されてはならない。」
「私は、いかなる生命のシステムも――つまり生態環境も、人間文明も、この両者が合体してできるシステムも――相互規定的に動く諸変数の絡みとして記述できるものであり、その中のどの変数も、それを超えた時に不快と病理と(最終的には)死が確実に訪れる許容の上限と下限の値を持っていると考える。」
ベイトソンのいう「単一の変数の支配」は、次のようにパラフレーズできる。
1、システムの一部を切り取って特殊な陣地(=支配機構)がつくられる。
2、この陣地がみずからをシステム全体の制御の中心(司令塔)に位置づけ、権力化していく。
3、ここを拠点に、陣地外からのゲインと支配力の最大化が図られる。
一方、生命圏を含む地球全体は、この陣地を一部とする一つの巨大な自律的システムである。
また、宇宙という外部環境との間で物質とエネルギーが出入りする、開放系システムでもある。
このシステムは、地球の自然・生命圏・集団・個体・体組織・細胞など、
無数のサブシステムが階層的に積み上った構造をもち、
サブシステム同士は多重的に相互作用して、それぞれの作動の前提を供給しあう。
こうした接続関係の帰結はそのつど速やかに情報に変換されて次々にリレーされ、
巨大で複雑なコミュニケーションのループ構造を描いていく。
このことを、モリス・バーマンは「すべてがすべてとつながっている」と表現した。
(『デカルトからベイトソンへ/The Reenchantment of the World 』1981)
この全体構造において、陣地の形成=「単一の変数の支配」はどんな帰結を生むのか。
ベイトソンは、「単一の変数の支配」を「靴紐を引っ張って、自分の身体を持ち上げようとするようなもの」であり、
必然的にシステム全体の誤作動=「不快と病理と(最終的には)死」が確実に訪れると説く。
つまり、「陣地」はみずからがその一部に含まれる全体を、特権的に制御しうるという、
論理的には成立しえない前提(妄想)に従っていることになる。
なぜなら、この陣地はみずからの存続と作動に関わる全条件を、
みずからの基底をなすシステム全体の自律的な作動に負っているからである。
「陣地」の妄想は、「操作可能な因果の系列ですべて説明可能」とする思考形式への耽溺(アディクション)に拠っている。
この形式のフレームから外れる事象はすべて捨象可能な「ゴミ」「ノイズ」として片付けられ、
廃棄処理システムに乗せられていく。
「陣地」が制御に乗り出すことは、システム全体の自律的な作動に
致命的でありうるランダムネス(エントロピー)を生みつけることを意味する。
さらに、この陣地が巨大テクノロジーを携えたものであるとき、
システム全体は誤作動による壊滅的なリスクを孕むことになる。
当然、このリスクは全体の司令官を自認する「陣地」とその担い手たちにも及ぶ。
「陣地」はシステムとして機能するため、自己再生産のためのサブシステム群を呼び寄せる。
例えば、「陣地」への従属と貢献を他のサブシステムに埋め込むための教育システム。
「陣地」は教育プログラムを用いて、子供たち(若き生命システム)を「陣地」の将来の担い手として馴致すべく、
陣地コード(単一の変数による全体制御のノウハウ)のインストールを組織化していく。
このプロセスの教化的ゴールの最上位層には、
「政治・官僚システム」「軍産コンプレックス」「原発ムラ」「グローバル金融」など、
各種パワーエリートが協働して作り上げた「幻想の神殿」が存在する。
子どもたちが学習を動機づけられ、規範を埋め込まれ、選抜されていくその果てには、
最終の目標到達点としての「幻想の神殿」がそびえている。
過去140年以上にわたるこうした教育上の成果は、
世代をこえた社会文化的ヘリテージとして成就している。
少年少女期をこの教育プロブラムを学んだ人びとは、陣地コードを身体化して、
幻想の神殿を仰ぎ見てひれ伏し、日々の精励に準じていく。
しかし、少年少女たちにみずからが支払う犠牲やコストについては「知らされない」、
と同時に、知るための手段やルートや動機も消されている。
この消去法も、陣地が用意する教育プログラムによって存在深くインストールされている。
陣地コードをインストールする「学習指導プログラム」は、
①学ぶべきことを学ぶ、
②学んでならないことを学ぶ、そして、
③学ばないことを学ぶ、の3カテゴリーから構成される。
このうち③は、①と②に仕掛けられたサブリミナル・イフェクトとして埋め込まれる。
「陣地コード」の出力による効果は、
すべて「神殿は健全に保たれている」という上位命題への従属として理解できる。
神殿を中心とする「陣地」の防衛と拡大に与るサブシステム群は、
それぞれに洗練を極めていくことが可能だが、
比喩的に言えば、みずからが乗船する「船の航路」は主題化されない。
「航路」が主題化されない――、すなわちタイタニック号の航海において、
人びとは奢侈な船上生活を存分に享受することができ、十分に幸福でありうる。
しかし、この幸福は船と海(マトリクス)との関係については無意識の状態に置かれる。
船上生活の幻惑と幸福は、つねにタイタニック号の運命へのまなざしを塞ぐことを前提に成立している。
例えば、一人の詩人が示す「さいわい」(『銀河鉄道の夜』)には、
みずからとタイタニック号と海のすべてが参加する、
コズミックなシステム全体が主題化されている、ということができる。
すなわち、陣地コードが教える「船上の幸い(陣地内の幸い)」の内側で、
詩人のいう「さいわい」は完結することができない。
この詩人とっての本当の「さいわい」は、
いわば宇宙的システム全体が奏でるアンサンブルと結ばれている。
この詩人の厖大な作品群が暗示する「アンサンブル」は、
ベイトソンが語る「自然の一体性をよろこびとするような聖の肯定の基盤」と重なる。
このアンサンブルへのまなざしが消失したとき、
多くの場合、ある種の「知識や芸術」は奉仕へと駆り出されていく。
この奉仕において、「知識や芸術」は幻惑として、
権威の名のもとに特定の場所に人びとを集わせる魔法として機能していく。
こうした「全体の主題化」を担うのが、陣地的学習コードを超えていくサムシング、
例えば生命システムにそなわった「詩的感受性」のようなものである。
この働きは「美・調和・アンサンブル/醜・混沌・不協和」を分光する、
システム全体からみた一つのサブシステム=生命システム的機能と捉えることができる。
つまり、全体と調和しながら、定常的に生きるサブシステム(=生命)の本来的機能といえる。
これに反して、「陣地」は生命的な感受性を無力化することで生き延びていく。
詩的感受性の無力化は、「幻想の神殿」に連なる全組織の機能的要請として導かれる。
例えば、性、暴力、表現、言論、遊びなど、
「陣地」にとって制御不可能性を秘めた生命的な営みに予め制御をかけることで、
「幻想の神殿」と「陣地」全体の崩壊のリスクが回避されていく。
このとき「自由」と「秩序」は相反命題として記述される(=「行き過ぎた自由が秩序を乱す」)。
陣地コードが産出する事例の一つに、例えば「うつ病」をめぐるシステム的営みがある。
「ウツを大量生産する社会システム」に対する現状の維持と強化への多大な貢献によって、
精神医学&製薬&省庁&広告の業界コンプレックスは、厖大なシノギを獲得している。
うつ病はあってはならず、同時にうつ病はなくなってはならない。
この命題を維持するために、うつ病は生産され、治療され、生産され、治療され、……つづけていく。
この命題の階梯をさらに昇った場所に、上位命題「システムは健全に保たれている」がある。
この命題は、例えば「すべての刑事事件は法と証拠に基づき適正に処理されている」
「いじめと自殺との因果関係は認められない」など、
状況に応じて、さまざまなバリエーションにおいて表出される。
こうした上位命題に接続されたトップエリートたちの〝誠実な営為〟が、
「陣地」を一部として含むシステム全体の滅びの扉(「不快と病理と(最終的には)死」)を開いていく。
ベイトソンに摘出された危機から導かれるのは――、
こうした「陣地」の形成を担う命題および「幻想の神殿」は正しく滅びなくてはならないということである。
この要請は、生命システムにとって本源的要請ということができる。
この滅びのプロセスは、幻想領域で戦われるバトル、
すなわち「美 grace」をめぐる詩的営みに担わるというのがベイトソンの見立てである。