ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「フリースペース ── Santana、1969」 20220518

2022-05-18 | Weblog

                                                          SOUL SACRIFICE - SANTANA - YouTube

 

 

天才と呼ばれる生き物たちの専有物ではない
スペースはそれぞれに等しく与えられている

ソレに感応できるということ
そのことがすでに証している

ニンゲンだけに経験可能な生の展開域がある
分別の手に余る空域に展開するものがある

思慮も分別も見積ることができない
記述の網にかからない展開領域がある

この領域を適切にもてなす作法について
俺たちはまだ何も知らないままだ

(幼年期、人類)

理と知の守備範囲は限定されている
世界を理知で埋め尽くすことはできない

(埋め尽くせばこぼれていく)

理知がアクセスできない展開域があって
もてなすことを知る以外ない作動領域がある

この限界洞察から一つの概念が導かれる
──生の非知的全域性

この概念化が俺たちの日常の閉域性
そして、世界記述の倒錯性を照らし出す

主語、一人称が格下げされた世界
エージェント群がせり上がり
主語の代行が全域化していく拡大教室

必然的に導かれる症状の常態化、すなわち

閉域に幽閉された生が累積するルサンチマン
消えた主語の反乱、黒い雲の湧出
荒廃と自己崩壊の種をみずから胚胎する世界

適切にもてなす方法は未だ示されない

拡大教室を完全棄却することはできないだろう
しかし分裂と分断を必然化する関係構造には修正が必要だ

哲学のことばではこう言われる

「生成と産出の無限の活動を通じて、理性は分離されていたものを合一し、
絶対的な分裂を、根源的な同一性によって制約された相対的分裂に格下げする」
   ──ヘーゲル『差異』(『ヘーゲル・セレクショ』廣松・加藤編訳)

分裂と分断は、人間と人間、集団と集団、人と集団の関係
そしてその根源、一人一人の人間の心に走っている

(幽閉するためにほどこされる切断処理、生のスライス)

社会体が一つの秩序として、機能するために
集合的結合が走らせる、必然的な、分裂と分断のラインといえる

この秩序構成が「全域性」を名乗るとき
全域でありえないものが全域であることを僭称するとき
僭称を受け入れ疑わないとき
ニンゲン的生の生成と産出の本源が視界から消えていく

つねに手元に用意すべきことがある

主語が主語として生き、遊ぶフリーハンド
理知の浅知恵と配慮を外したフリースペース

そして、その相互性が成立する地平に〝類的成熟〟の方角がある

 

 

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