SOUL SACRIFICE - SANTANA - YouTube
天才と呼ばれる生き物たちの専有物ではない
スペースはそれぞれに等しく与えられている
ソレに感応できるということ
そのことがすでに証している
ニンゲンだけに経験可能な生の展開域がある
分別の手に余る空域に展開するものがある
思慮も分別も見積ることができない
記述の網にかからない展開領域がある
この領域を適切にもてなす作法について
俺たちはまだ何も知らないままだ
(幼年期、人類)
理と知の守備範囲は限定されている
世界を理知で埋め尽くすことはできない
(埋め尽くせばこぼれていく)
理知がアクセスできない展開域があって
もてなすことを知る以外ない作動領域がある
この限界洞察から一つの概念が導かれる
──生の非知的全域性
この概念化が俺たちの日常の閉域性
そして、世界記述の倒錯性を照らし出す
主語、一人称が格下げされた世界
エージェント群がせり上がり
主語の代行が全域化していく拡大教室
必然的に導かれる症状の常態化、すなわち
閉域に幽閉された生が累積するルサンチマン
消えた主語の反乱、黒い雲の湧出
荒廃と自己崩壊の種をみずから胚胎する世界
適切にもてなす方法は未だ示されない
拡大教室を完全棄却することはできないだろう
しかし分裂と分断を必然化する関係構造には修正が必要だ
哲学のことばではこう言われる
「生成と産出の無限の活動を通じて、理性は分離されていたものを合一し、
絶対的な分裂を、根源的な同一性によって制約された相対的分裂に格下げする」
──ヘーゲル『差異』(『ヘーゲル・セレクショ』廣松・加藤編訳)
分裂と分断は、人間と人間、集団と集団、人と集団の関係
そしてその根源、一人一人の人間の心に走っている
(幽閉するためにほどこされる切断処理、生のスライス)
社会体が一つの秩序として、機能するために
集合的結合が走らせる、必然的な、分裂と分断のラインといえる
この秩序構成が「全域性」を名乗るとき
全域でありえないものが全域であることを僭称するとき
僭称を受け入れ疑わないとき
ニンゲン的生の生成と産出の本源が視界から消えていく
つねに手元に用意すべきことがある
主語が主語として生き、遊ぶフリーハンド
理知の浅知恵と配慮を外したフリースペース
そして、その相互性が成立する地平に〝類的成熟〟の方角がある
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