──ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳
宗教―すくなくともキリスト教―は人間が自分自身に対してとる態度である。
またはいっそう正しくいえば人間が自分の本質に対してとる態度である。
人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、
このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。
これが宗教の秘密である。
神を富ませるためには人間は貧困にならなければならず、
神が全であるためには人間は無でなければならない。
──山之内靖『総力戦体制』(伊豫谷・成田・岩崎編)
フォイエルバッハが言おうとしたのは、
「人間の主体の中には理性の働きがあるが、この理性は身体性を置き去りにしたまま
自己関係的・自己増殖的に肥大してゆき、完全な合理性を求める、
そういう筋道が内在している」ということなんですね。
つまり、完全な理性を求めて合理性をどこまでも突き詰めていくとき、
〝完全無欠な神〟という概念が出てくる。〝完全無欠な神〟という概念を生み出すという、
生物としては非常に逸脱した人間の在り方、これがフォイエルバッハの言う疎外なのです。
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