ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「K.T.のように」 20190627

2019-06-27 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=y_uf1Iih_h0

 

プレーの出力を制約し、拘束し、規定するものは、全体包括的な価値が明証性とともに像を結ぶと同時に、 そこにいたるための貴重な手がかりに変換される。

全体包括的価値──ゲームを構成する諸細目はすべて、ゲームに生成する全体包括的価値すなわち「ゲームのエロス」(ゲーム価値)によって意味を与えられる。与えられると同時に、ゲームは固有の意味の系としてマップされ、一つの〈世界〉として構成される。この〈世界〉の先行的な生成に対する直観が、ゲームに対する承認と合意を生み出し、プレーヤーの参集をみちびく。

全体包括的価値は、個を支配するようにも解放するようにも機能しうる。その分岐をつくるのはプレーヤーの経験的本質へのまなざし、みずからに内発するプレーの自由度に対する感度である。いいかえると、ゲーム価値が支配と制圧に転じるものを感じ取れるか否か。この感度を保持しつつ生きられるとき、ゲーム内のプレーはつねにその支配性をしりぞけるように展開していく。

このとき、ゲームのエロスは即自的には存在しない。そのつど生成するものであり、新たな質と強度をもつ未規定性においてそれは発現する。未規定な展開において、それが発現するには乗りこえるべき行程があり、克服すべき困難がある。 そのことに向きあい、対峙することがみずからの企投を方向づけるだけではなく、 ある〝活性〟をみちびく資源として生かされる、という内的な確信のカタチ。そしてこの確信をささえるのは、やはり、最初に直観されたゲームのエロス、ある種の「fantagie」の直観であり〝信〟である。

自由の展開──その発想、スキル、アンサンブルの探究にゴールを設定しないこと。 新たな「ありうる」の可能性を可能性のまま保持しながら、 〝完成形への着地〟をしりぞけるように踊りつづけること。

なぜなら、そこにはつねに相互に沸き立ち、相互に承認を与えあう地平が開かれていくからであり、 それが〝信〟によって支えられながら、その実践と経験が逆に〝信〟を試し、鍛え、よく支え返すからである。

 

 

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