回帰すべき場所はどこか。
めがけるべき未来はどこか。
話は、じつは単純さ。
そんなものはどこにもありえないのさ。
なにもないということがすべての背景だ。
ガランドウというわけさ。
なんにもないという、この朗らかな真実が、
俺たちの住んでいる本当の風土というわけさ。
いったいどういうことだかわかるか。
鼻歌がよく響くということさ。
風通しはバツグンだ。
このきよらかな真実の前で、
耐えられるニンゲンはどこにもいないだろう。
無-意味。無-価値。偶然の戯れ。
木の葉のように、風に吹き飛ばされる存在の心もとなさよ。
それは意味を求める「弱虫な人類」が分泌する
固有の感情に由来している。本当にそうか!
然り。本源において、
拝跪すべきどんな存在も絵空事である。
自らを捧げるべきどんな対象も理由も意味をもたない。
その了解の果てに、
ガランドウには気持ちのいい風が吹きぬける。
愛する理由はいらない。
憎む理由もいらない。
いつも、すでに、あらゆる場所で、
それはただ訪れる。本当か!
然り。それがおまえの生の核心だ。
ブタが愛を語り、倫理を語り、善を語る。
カバが正義について、未来について僭称する。
愛も倫理も善も正義も未来もただ生きられるだけで、
語ることで生まれたことは一度もなかった。
しかし、語ることが生きることと結びつくとき、
生きられた累積がひとつの必然へと転位する。
拝跪する感情もそうか!
然らず!おのれならざるものへの拝跪は、
生の否認、死への邁進、偏執狂の遺伝を意味する。
それもニンゲンにとって必然ではないのか!
然らず!されど倒錯された必然。
ヘンタイとしての人間の歴史があり、
そのエサは至るところにころがっている。
だれかが、みんなが、そうするという理由だけで、
だれかが、みんなが、そうしないという理由だけで、
ひとりのニンゲンは自らの生存を瓦解させることができる。
その恐怖に耐え切れず、
ニンゲンは目をつむり、
おのれならざる「なにか」に向かってジャンプする。
エサはまかれる。ブタはすり寄る。
ブタは喰らう。ブタは丸々と太る。
思うつぼで、仕上げはニンゲンのとんかつだ。
それを喰らうのはだれだ!
共食いさ!エサはどんな形にでも変幻する。
Aに代入されるB。Bに代入されるC。
無限に循環するとんかつゲームにおいて、
その中心はいつも空虚である。
いつみても、どこをみても、空虚なゲームが展開する。
このありえなさにおいて、
ニンゲンのふるさとには独自の陰影が加えられる。
振り返ればいつでも、
文化が据え膳して待っているだろう。
ブタのエサは至るところに溢れている。
平和とはいえないな。
文化が序列を配して、大きなツラして卑俗を見下している。
そういう定式が出来上がっているということさ。
ブタ主義、カバ主義がまかり通る土地柄だ。
どん詰まりには逆上が待っているという仕掛けだ。
崩壊は必然だろう。
自然は受け付けねえシロモノということさ。
露骨に正義と正気を語るものたちが、
全体においては、狂った算段で裁きを無残にくりかえす。
その基本は不信ということだろうよ。
裸体のむせびがすり替えられたということさ。
微笑めばなにかが返ってくると、
どうもそういう計算が成り立っているらしい。
わかっていただきたい紳士たち、
かなえていただきたい淑女たち、
そして、ワタシにまかせなさいの野郎どもの、
凸と凹のコンビネーションが、
いつも同じ風景を構成している。
絶えずなにかを拝んでイノチをすり減らす人間と、
絶えずエサを蒔いてイノチをからめとる人間が、
時に応じて攻守入れ替わりながら、死の種を配分し合う。
そんな常套が染め抜くこの土地の光景が、
ガランドウには鮮やかに映し出される。
愛の裏側。平和の裏側。正義の裏側。戦争の裏側。
閉ざされた視覚に支配された、
みせかけの風景の喧騒と静けさの外に、
ぐつぐつと燃えさかる紅蓮の炎がみえる。
ガランドウからみえる風景の先には、
空を焦がし、大地を染め上げ、
いつも冷たい灼熱が舞っている。