相変らずの空模様。
晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、また晴れたり・・・空が、とっても忙しい・・・。
一日24時間のうちで、或る一定の時間になると、母を思い出す。
特に、16時半から、母と私の夕食を作っていた時間、18時の夕暮れチャイムが、鳴るとき・・・そして、19時半頃、母の脚を、ホットパックで、温めたあと、手、脚、頭、顔などのマッサージをしていた20時半頃迄の間の時間。
この時間になると、胸が締め付けられるように、母が恋しい。
夜間に寝付けぬ(ほぼ毎日なのだけれど)とき。
私は、母のために生きていたんだな・・・と思う。
存在理由が他に見当たらなくなって、存在理由が、見当たらないなら、あの世から、さっさと迎えに来てくれないかな・・・。
この先は、不安しかないし、生きていても仕方が無いと思ったりする。
私には、やりたいこと・・・が、ない。
仕事をしていたときは、日々の糧のため、仕事を辞めたら、母のために、出来ることをしよう・・・と思って生きてきた。
でも、母の身体の不調が続くと、その世話でイライラし、何のために、生きているんだろうと思ったりした。
そう。この先・・・の不安。
コレが、今、凄く大きくて、考えると面倒になって、もういいや・・・コレ以上、生きていても、仕方が無いから、自ら、あの世へ行こうか・・・などと思ったりしている。
昔から、あまり積極的に生きて行こうを思ったことはなかったし、どうしても生きたい・・・という理由もなくて、或る意味、日常が、緩慢な自殺状態では、あったような気がしている。
生きていても、何もいい事はないし、何故だか、世の中、理不尽だし、運は悪いし、身体は、不調だし。
比較的、幼い頃から、『死』は身近にあって、いつも、『死』は、となりにいる友達?みたいに、毎日、意識していたような気がする。
『memento mori (メメント モリ)』人はいつか死ぬことを忘れるな・・・。
死ぬことを忘れていられるのは、幸福な状態なのかもしれない・・・とすれば、私は、いつも不幸だったのかも・・・。
そんな思考の中の『死』は、割と軽い部類の『死』で、最近、自殺者の2/3は、死ぬことに失敗して、身体に大きなダメージを残し、植物状態になったり、二度と自分で自殺することは不可能な身体状況になる・・・ということを知った。
死ぬに死ねないのか・・・。
コレは、意外な現実でもあった。
死ぬまで、出られない施設に収容され、毎日、死の足音を聴きながら、身体の自由を奪われ、あるひとは、植物状態になり・・・。
自殺の失敗は、やはり、死にきれない・・・生存本能みたいなものが、足を引っ張るのかもしれない。
自殺で、完全に死ねるひとは、或る意味、幸運???なのかもしれない・・・と思ったり。
自分で、人生の幕を引きたいのに、それが、叶わぬ・・・完全死より、怖い死にぞこない。
母は、心不全で、自然死だったから、その生を全うして、旅立った。
だから、お祝いをしなければならないのかも。
残された私は、死ぬに死ねず、生きるのも面倒・・・死にぞこないは、とてもイヤだし、何より、その死にぞこないの身体を養うために、高額な医療費(・・というか、生存費用)が、掛かるのも、なんだか、割りが合わないような気がする。