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中川一郎は 大正15年 貧しい開拓農民の子として生まれ 厳しい原野で育った。親思い 兄弟思いで学校に通いながら農業を手伝った。開拓農民のつらい暮らしが政界に出る思いを掻き立てた。 北海のヒグマと呼ばれ 豪放だがシャイでやさしかった。ひとびとは中川に希望と信頼を寄せた。
中川は1973年 青嵐会の成立に一役かった。
1982年 自民党総裁選 目白の闇将軍田中は 鈴木善幸のあとがまに中曽根をかんがえていた。福田としては予備選にもってゆくしかなかった。 福田派はプリンス安部晋太郎を推した。だが 総裁予備選には5人の立候補者が必要だった 中川は予備選に出ることにしたが、中川派は14名しかいなかった。予備選に立つには自民党50名の推薦人を立てなければならない。残り34名の大半を福田派から借りたのである。そのとき 福田に こう釘をさされた。「走り出してもいいが本気になるなよ」
予備選で大差で勝利したのは中曽根だった。その後 福田派と険悪になり 中川派からは脱落者が出た。
一方 旧ソ連は国際部副部長 対日工作の指揮をとったコワレンコを東京に派遣し 中川一郎と接触させた。旧ソ連は当初 田中に接触しようとしたが ロッキード事件で (田中が権力をうしなったため?)できなかったので 中川一郎に白羽の矢が立ったらしい。青嵐会の会則に 自主独立の項があったのでそれがソ連の興味をひいた。 また 中川は農林大臣だったので ソ連と漁業交渉で接触する機会もあったのである。ソ連の究極の目的は日本に親ソ政権を樹立させることだった。
コワレンコは総裁選10日後 赤坂のとある料亭で中川と会った。ふたりが赤坂で会ったことについては日本の公安関係者の証言がある。この場で中川は 「日本的保守派は自主独立 (アメリカばかりでなく)すべての国と友好関係を持ちたい」と述べたとコワレンコは言う。コワレンコはただちに母国に暗号電文を打った。
「中川は他の国やソ連との友好的継続的関係をむすびたい」
コワレンコは意見として石油開発 アメリカの手の及ばないサハリン油田の開発への参加を申し出た。(アメリカはことあるごとに日本の自前のガソリン調達をじゃましてきた。日本をアメリカに従属させるためである。原油は産業立国日本の生命線 もし サハリン油田から原油の供給がされるなら 日本は自主独立に一歩踏み出すことができる。)
1983年正月 中川は北海道に飛び立った。新年会に出席するためである。旭川で友人の佐藤氏は一行に合流した。
「オレは死ぬ」と中川は言ったという。
1/8 深夜 中川は友人 石原二三朗 と話した。電話を切るとき 中川氏はおぅおぅと声をあげた。石原はだれかが来たと思って電話を切った。
いったい 誰 がきたのか。
中川は 石原と奇妙な約束をしていたという。 「数年前 会社の解散を頼まれたとき 同じホテルで 総裁選に勝てなかったら このホテルで自殺する」
......秘書らが部屋を片付けたとき 遺書も議員手帳も見なかった。なぜかそのあと警察の鑑識作業があった。
遺族の希望で 死因は心筋梗塞と発表され 司法解剖なしに翌日火葬。なにものかのリークによって 二日後 自殺 と報道された。
中川の死の二日後コワレンコはソ連に電文を打った。
「中川はあきらかに殺された。CIAは中川が総理大臣にならないうちに殺した。」
CIAは取材要請について 中川一郎については国防上の機密に属するので明らかにすることはできない。
中川昭一はながいこと 父 中川一郎の死の意味を問い続けてきた 「確証もないので この場でいうことはできないが 国のためと思って行動したと解釈したい。」
以上
「中川一郎の死の真実を知っているひとがこの世に何人かはいる」というコメントが印象的でした。あの鈴木宗男氏が中川氏の秘書でした。
わたしには このホテルで自殺する という約束がとても奇妙に聴こえました。中川昭一議員は 父の死についてなにかを知り 確証をつかんでいるのだろうと感じました。しかし ご自分もおなじような運命に見舞われるとは思っていなかったことでしょう。冷徹なアメリカは頭がまわる。危険な芽は早いうちにつむに限ります。こうしてつぶされた芽がどれだけ あったことでしょう。