聴き手の魂を揺さぶる語り
捧げ物としての語り
飛ぶというか うつわになるというか トランス状態で語る
わたしは そのような語り部である。
ナビ・トークをしながらだと そちらへもひっぱられる。
今日は語りに専心できるので 戦中戦後へ わたしは 飛んでいた。
浮浪児として戦後の荒れ果てた町を生き抜いて 中学校教師に
なった 山田清一郎さんのものがたり トマト。
けれども 潮騒のように泣く声が意識の遠くから次第にちかづき
これはいったいなに? なに? と... 意識の触手を伸ばすうち
ダレカ 泣いてる 号泣している となりの司会者が泣いてる...
終盤...で 集中がプツンと途切れました。
それはジェットコースターで急降下するような
天から落ちるような 突き落とされるような.....
そんな 不快感なのです。
わたしのような語り部にとっては。
溺れたものが岸辺にやっとたどり着くように
ものがたりは なんとか 終わりました。
号泣していたのは聴き手 お客さま これはいいとして
ナビ(司会)がはじめてにしても
あとで訊いたらもらい泣きとは 身内ながら あまりに 無神経と感じております。
文字を たよりに語るひとには わからない 理解できない
と思うことしきり。 潮時かな....
ムリなんだ と 思う。ずいぶん 精魂こめて教えてきた
身を削るように 知ることすべて 教えてきた。
飛べないひとには 文字 ことば ひとつひとつの意味から教えるしかない。
きのうは月影先生のように うなじに水をひとしずくかけました。
ツメタイ という ことばが 全然 冷たくないので。
子を殺せば 戦争に勝つとうや
この”子”が ひとりの特定の子どもを指すのではない
少年兵 浮浪児 学徒勤労動員 ヒロシマ ナガサキ オキナワ 満州
そして 世界中で戦争のために死んだ子 すべてなんだということ
が理解できない あたまでわかっても からだで魂でわからないから
ヒビキにならない。
語りがほんとうに好きなら 魂を揺さぶる語りがしたいなら
自分を ひらこうとすることが なぜできないのか
自分を自分の目の前に 晒す そして 磨くしかないんだよ。
わたしは ほんものの 語りをしたいし ほんものを育てたいのです。
それが冷たいやりかたというなら もう金輪際やらない。
十数年かけてやれない できないなら 読み聞かせに帰ればよいと思う。
語りとは 血が滲むような 薔薇の匂いがするような 風が吹くような
痛い 切ない 哀しい 愛しい ひとそのものなのだ。
活字をなでるような生ぬるいもではない。