南斗屋のブログ

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嘉永6年2月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年03月06日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年2月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年2月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記
元俊医師と甚右衛門が病気で寝込んでしまった。しかし、湊川の借家(裁判対策本部)には毎日顔を出さざるを得ないので、天神前と共に行く。小見川(香取市小見川)から門人の茂兵衛が来ていた。いつもより早めの八ツ半(午後3時)には宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
江戸での疲れが溜まったのか、元俊医師だけでなく、甚右衛門も病気で寝込んでしまいました。甚右衛門は、昨日は元気だったのですが。裁判の見通しが立たないのもストレスでしょう。


嘉永6年2月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記
大雨。元俊医師は昨日に引き続き病気で臥せっている。小生も終日宿(山形屋)にて過ごす。昼過ぎに四名来て、元俊の病気見舞い。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
元俊医師は本日も引き続きダウン。甚右衛門は回復したようです。大雨もあり、終日宿にいたところ、元俊医師が病気なのを心配して、仲間が病気見舞いに駆けつけています。

嘉永6年2月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幡谷村(成田市幡谷)の古老が浅草で入歯を作るというので同行。朝、出発。浅草門跡前の貞次という歯入屋。古老は歯を二本作った。同行のお礼に昼食はご馳走になる。夕方に宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
本日は古老が入歯を作るのに同行。入歯を作る「歯入屋」は浅草門跡前が有名だったのでしょうか。同行したお礼に昼食は奢ってもらった五郎兵衛でした。

嘉永6年2月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記
幡谷村(成田市幡谷)の村人の相続問題について協議するため、湊川の借家に全員集合。「千年続いてきた家の存続に関することである」からと、一同念を入れて協議した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
幡谷村(成田市幡谷)にある古くからの家の相続問題について、大原幽学を初め江戸にいる全員が集まり協議をしたという記事。大原幽学の門弟の重要問題は江戸で話し合われたことがわかります。「千年続いてきた家」はオーバーな表現なのでしょうが、古くから続いてきた家だったのでしょう。

嘉永6年2月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記
午前、幡谷村(成田市幡谷)の古老半十郎が帰村。昨日の相続問題の協議の結論がでたので、それを持ち帰るのであろう。宝田村(成田市宝田)の甚左衛門夫婦がやってきて、我々の宿(山形屋)に泊まる。本日は終日宿過ごした。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
大原幽学は長部村(旭市長部)に居住しており、同村周辺にのみ影響があったと思っていました(大原幽学記念館も同所にある)。しかし、今日の記事からは成田付近にも大きな影響を与えていることがわかります。幡谷村、宝田村の成田周辺の村です(五郎兵衛の長沼村も同様)。

嘉永6年2月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記
昼から湊川へ。平右衛門が「大原幽学先生から話しがあったが、グチをこぼされただけだった。」と愚痴っていた。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
湊川の借家は、裁判の作戦本部であり、大原幽学は同所に詰めています。江戸に呼び出されて1ヶ月。奉行所からは何の音沙汰もないので、ストレスが高まっています。平右衛門(大原幽学の高弟)に対して、グチばかり言ってしまい、弟子もストレスを感じています。


嘉永6年2月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記
五兵衛が昨日暮れ方に我々の泊まっている宿(山形屋)に着いた。今後五兵衛が、甚右衛門にかわって長沼村(成田市)の差添人となる。その旨奉行所にも届出でる。
長沼村に帰村する前に、甚右衛門は昨日も今日も江戸見物(昨日は浅草とのこと)。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
長沼村の差添人が、甚右衛門から五兵衛に再び交替。どうやら五兵衛は急ぎ短期間村に帰らなければならない事情があったようです(甚右衛門が江戸に来たのは2月12日)。甚右衛門は帰村前にお約束の江戸見物。


嘉永6年2月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記
甚右衛門が長沼村(成田市長沼)に本日帰る。湊川へ行き、大原幽学先生に帰村のご挨拶。先生は、「親や子が理解してくれなくても、孝行を尽くすのだ。自分ひとりでもという性根でいきなさい。」といって夫孝の書き物を後で送ると約束した。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
甚右衛門が長沼村(成田市)に帰村。その前に大原幽学に帰村の挨拶をしているところをみると、甚右衛門も門弟のようです。先生からは有り難いお言葉をかけていただき、後で大原幽学が書き記したものを送ることが約束されました。

嘉永6年2月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記
湊川の借家へ寄った後、昼から田安御門の馬場で馬の稽古を見る。田安様、清水様の御屋敷脇を通り、竹橋へ出て、伊勢町の中条で尾張味噌を買う。日暮れ方に宿(山形屋)へ戻る。
#大原幽学刑事裁判 
(コメント)
裁判が長引いており、皆にストレスが溜まっていますが(元俊医師ですら病気;2月22日)、日記の筆者五郎兵衛は元気です。今日は尾張味噌の買出し。その合間に田安門の馬場で馬の稽古を見たりして、江戸をぶらぶらしています。困難な状況にあっても、その中で楽しみを見つけるのが五郎兵衛流。





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