南斗屋のブログ

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文政11年5月下旬・色川三中「家事志」

2023年06月01日 | 色川三中
文政11年5月下旬・色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政11年5月21日(1828年)
雨が降り続いていたが、一昨日からはようやく快晴が続く。谷津地域の田植えは、昨日から始めて今日で終わった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月、梅雨の季節です。江戸時代の土浦ではこの時期に田植えだつたようで、色川三中が持っている田んぼも徐々に田植えが進んでいます。

文政11年5月22日(1828年)庚申 曇
ここ四日間は雨降らず。されど長雨のため水引かず。田の水が引かぬゆえ、田植えできぬところもあり。
#色川三中 #家事志
(コメント)
旧暦五月で梅雨。長雨となり、水かさが増しています。色川三中のいる土浦は霞ヶ浦のほとりで低地。このため水害が頻繁に起こり、三中も敏感にならざるをえません。そこまで行かなくても、水が引かないと田植えができないので、農家には気が気ではない状況です。

文政11年5月23日(1828年)
入樋の費用分担の件で藩の役人と内々に話し(隣主人宅にて)。藩の役人からは「前例とは違うが、高持百姓にも応分の負担をお願いできないか。従前の案よりも負担額は下げるから」といわれる。従前の案よりはよい提案ではあるが…。
#色川三中 #家事志
(コメント)
入樋の設置費用分担の件は、だいぶ揉めていますが、藩が軟化して、色川三中の属する高持百姓チームに有利な条件になってきました。現代とは違って、公共工事をどのように行うのかというスキームが確立していないので、一旦利害対立が起こると、その解決が大変です。

文政11年5月24日(1828年)雨少し降る
知り合いの子息が疱瘡(天然痘)でなくなった。疱瘡は去年流行し、もう終わったと思っていたが。以前とは違って年中見られるようになってきた。感染者が増えたためであろうか。
#色川三中 #家事志
(コメント)
疱瘡(天然痘)で知り合いの子どもが亡くなってしまいました。疱瘡は昨年大流行。しかし、昨年6月以降は痘瘡の記事はなくなっていました。大流行ではなく、日常の風景になってしまった、そんな感じを三中も感じとっています。新型コロナも同じようになっていくのでしょうかね。


文政11年5月25日(1828年)朝は曇
刃傷沙汰の被害者(篩屋)は隣組の寺嶋清兵衛殿のところで療養しており、隣組のよしみで、篩屋にも見舞いに行っている。段々と傷は良くなっている。
#色川三中 #家事志
(コメント)
5月16日の記事(殺人未遂事件)の続報。被害者は三中の隣組のところで療養しています。病院がありませんので、誰かの家の厄介になるしかなく、その家だけに負担を負わせるのではなく、隣組がサポートする仕組みだったのですね。



文政11年5月26日(1828年)甲子 雨
友人の細井氏宅へ行く。土浦は小降りだったが、道中かなりの雨で、道路は甚だしく艱難。正午に川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に着く。このころようやく雨上がる。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は川原代(現龍ヶ崎市川原代)に住んでいる三中の風流友達。今年の3月にあっているので、頻繁に交流しています。三中の家から-川原代町までは約22 km。徒歩なら半日はたっぷりかかります。今日はかなりの雨で大変です。

土浦城 大手門跡 to 川原代町

土浦城 大手門跡 to 川原代町



文政11年5月27日(1828年)曇
夕方からは大雨。土浦や牛久ではこの大雨は降らなかったとのこと。
川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に連泊。
#色川三中 #家事志
(コメント)
昨日、川原代(龍ケ崎市)の細井氏宅に着き、今日は終日細井氏宅で過ごしています。夕方からは大雨。局地的なもののようですが、それにしてもこの年の梅雨はよく雨が降ります。

文政11年5月28日(1828年)
細井氏宅から出立。細井氏、竜ヶ崎まで見送り。竜ヶ崎で所用を足し、八ツ時(午後2時)、竜ヶ崎出立。牛久を通り、中村で茶飯を食べる。六ツ時(午後6時)帰宅。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏とは別れ、所用を足して土浦に戻ります。「牛久」からは水戸街道。「中村」は同街道の中村宿。中村宿から土浦宿までは一里(約4キロ)なので、一息ついてから帰ったようです。

文政11年5月29日(1828年)雨
昨日、中村宿で休んだとき、水戸の人があるものを示して、「これは何かご存知かな」と尋ねる。水戸の海辺で見つけたものという。「眼茄ではないでしょうか」と答えると、「これは驚いた。水戸でも江戸でも答えられる人はいなかったですよ」という。確かに、本草家でなければ答えられないであろう。
#色川三中 #家事志
(コメント)
中村宿(水戸街道の宿駅;土浦まで約一里)でのエピソード。「本草家でなければ答えられないであろう」との記述からは、三中の本草学への造詣の深さとプライドが伺えます。なお、「眼茄」は何のことか調べつかずでした。

文政11年5月30日(1828年)
朝大雨、傾くが如し。連日の雨天。大水の上にこの雨では如何ともしがたい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
この5月下旬は雨、水位についての記事がが多く、今日もまた大雨。「傾くが如し」との表現は、傾盆大雨という四字熟語(杜甫「白帝」)からでしょう。激しく降る雨、豪雨のたとえ。中国語では今でも四字成語で使いますね。



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