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横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯と渡邊治湟弁護士

2021年10月21日 | 横浜BC級戦犯裁判
(横浜BC級戦犯裁判での日本人弁護人選任の経緯)
 横浜BC級戦犯裁判は、横浜地方裁判所の法廷で1945(昭和20)年12月17日に、その第1号事件の審理が開始されたのですが(第1号事件は、ティーズ一等兵が被害者の事件です。過去記事参照)、日本人弁護人として渡邊治湟弁護士が決まったのは、その2日前である12月15日でした。
 12月15日、新聞は17日から横浜で軍事裁判を行うと報じました。
 この後の経緯については、史料により異なります。
 一つは、鈴木九萬外交官の昭和20年12月16日付本省宛報告書であり、もう一つは、横浜弁護士会史(上巻)です。
 前者には、新聞で横浜軍事法廷の開始が報じられた12月15日午後、第一復員省(元陸軍省)法務局担当官が鈴木九萬外交官と会い、「第1号事件の弁護人を東京弁護士会に依頼したが間に合わなかったので、弁護人選任を横浜弁護士会に一任したい」との話しがあり、鈴木外交官が当時横浜弁護士会の会長であった渡邊弁護士と会い、同弁護士が日本人弁護人になることの了解を取り付けたとあります。
 後者、即ち横浜弁護士会史によれば、渡邊弁護士のもとに来たのは、大日本弁護士連合会の林逸郎会長の使いの若い弁護士で、「明後日、日本で初の戦犯裁判が横浜で始まるので、弁護人をつけろといってきた。横浜弁護士会が引き受けるか否かで、永久に日本人弁護人が締め出しを食うかもしれん。兎も角引き受けろ。」と要請してきたからであるとなっています。
 参考文献1は、以上の両説をあげるだけで、どちらの説が信用できるのかについての考察を行っていません。
 以上、参考文献1により日本人弁護人選任の経緯について紹介しました。

(いずれの経緯が信用できるのか)
 このように参考文献1によれば、2通りの説があるという紹介のみがなされています。
 なぜ日本人弁護人が選任されるに至ったのかという経緯を解明することは、なぜ日本人弁護人が選任されなければならなかったのか、いったいどこがそのような発案をし、日本人弁護人をいつ選任しようということになったのかという問題点につながるものであり、重要であると考えます。
 しかし、この点については参考文献1においても問題意識がなく、両説を併記するにとどまっています。
 史料の質からすれば、前者、すなわち鈴木九萬外交官の報告書に軍配をあげざるをえません。鈴木九萬外交官の報告書は、本省宛の正式な報告書であり、報告書の作成日も12月16日であって、直後に作成されたものです。
 後者は、1980年に出版されており、渡邊弁護士は1973(昭和48)年にお亡くなりになっています。渡邊弁護士が書いたものが残されていたのか、口頭でのものを誰かが書き残したのかは不明ですが、いずれにせよ当事者が後で回想したものである可能性が高いと思われます。
 であれば、鈴木九萬報告書の方が信用性が高いのではないかと思われます。

(渡邊弁護士の経歴)
 最後に渡邊治湟弁護士の経歴等を記しておきます(参考文献2、3)。
明治32年生まれ。
大正11年10月20日は、横浜弁護士会に入会(弁護士として稼働)。
昭和20年横浜弁護士会会長。同年横浜BC級戦犯裁判第1号事件の日本人弁護人となる。
昭和48年1月31日、横浜弁護士会の登録を取消す。同年7月31日死去。
同弁護士の著作。
「戦犯弁護第一陣」(法律新報昭和21年2月号)
「公事方御定書の研究」(昭和58年:国立国会図書館蔵)

追記:参考文献3には、渡邊の経歴につき次のように記しています(同文献3では、「渡辺」としていますので、そのまま引用しました)。
「渡辺は小学校卒業した後、横浜地裁の職員として働いていた。その後中学の修了試験に合格し、苦学して弁護士の登用試験に合格した経歴を持つ。まだ大正時代である二十三歳の時から、横浜で事務所を開業していた。横浜弁護士会の会長をしていたのも、まじめで研究熱心なところと、請われれば人の先頭に立つことを厭わない性格が、多くの弁護士から支持されたためだった。」

参考文献1 「法廷の星条旗〜BC級戦犯横浜裁判の記録」(横浜弁護士会)
参考文献2 「会長渡邊の決断ー戦後70年と横浜軍事裁判」(間部俊明:神奈川県弁護士会新聞2015年6月号)
参考文献3 「戦犯を救えーBC級「横浜裁判」秘録」(清永聡:新潮新書)

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