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嘉永6年5月下旬・大原幽学刑事裁判

2023年06月08日 | 大原幽学の刑事裁判
嘉永6年5月下旬・大原幽学刑事裁判

大原幽学の弟子五郎兵衛が記した大原幽学刑事裁判の記録「五郎兵衛日記」の現代語訳(部分・大意)。

嘉永6年5月21日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
浅草の入歯屋に行き、喜多郎の入歯に鋲を打ってもらってから、湊川の借家へ。
大原幽学先生から皆に「物事を人に尋ねずに、自分勝手に話すことは不徳であり、人物がすたれる。村方を束ねて指導などできない」とのお話しあり。
(コメント)
浅草の入歯屋の話題は、3月4日以来。そのときに作ってもらった喜多郎の入歯の調子が悪いのか、鋲を打ってもらっています。


嘉永6年5月22日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家に行く。特にやることもないが、倹約もしなくてはならぬ。源兵衛殿と将棋。宿に戻ってからは、重吉(山形屋の下代)に「今後は倹約するから。万事質素に」と頼む。 
(コメント)
奉行所から課せられたタスクも終わってしまい、呼び出しを待つだけの日々に戻ってしまいました。これまでは結構外に遊びに行ってしまうことが多かったのですが、さすがに財政が逼迫してきたのでしょう倹約志向になっています。娯楽は将棋。山形屋(公事宿)の従業員にも倹約志向を伝えています。

嘉永6年5月23日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
昼前に湊川の借家へ。幽学先生は、幸左衛門他3名と小石川の高松様方へおでかけ。小生は湊川で写し物。幸左衛門が小石川から帰ってきて、「力蔵様と話しをしたが、どうもこちらの意図が分かっていただけない」と言っていた。
(コメント)
小石川には、支援者の高松氏(幕府の役人)の居宅があり、大原幽学らは門弟と打合せにでも出かけたのでしょう。もっとも、五郎兵衛はお留守番。ひたすら本の写しをしています。「力蔵様」は高松氏の次男で、忙しい親にかわって大原幽学らとの折衝にあたっている人物です。

嘉永6年5月24日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
早朝から湊川の借家へ(朝飯は湊川でいただく)。駒込の植木屋でヒバを買って小石川へ。小石川の古家にヒバを植えて、裏の板縁をこしらえた。幽学先生もお出でになられていた。
(コメント)
今日は小石川の古家の整備。この仕事には五郎兵衛もよく駆り出されています。今日はヒバを買って植えています。駒込の地名が見えますが、駒込染井町のことではないかと思います。染井はソメイヨシノの名の元になった地名。



嘉永6年5月25日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生は今日も小石川の高松様方へ。ところが、行き違いで高松様は正午ころ湊川に来られた。ご出仕の後、お寄りになったのだ。大原幽学先生がおられないので、小生らと将棋を指し、夕方に小石川にお戻りになられた。
(コメント)
大原幽学は本日も小石川の高松氏方に門弟とでかけています。三日連続。五郎兵衛は、古家の整備以外は、お留守番なのもいつもどおり。今日は高松氏本人が湊川の借家へ来たのが珍しい。大原幽学らとはすれ違いになってしまっています。そのことを気にするでもなく、門弟らと将棋。ノンビリとした様子が伝わってきます。

嘉永6年5月26日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ行く前に、炭屋と岸部屋に寄って用を足す。痔がでてしまって痛くてかなわぬ。幽学先生から「門弟の中には、自分は食べないでも人にはご馳走を食べさせたい、自分は損をしても人には得を取らせたいという者がいるが、このような心がけをする者が大勢の手本となるのだ」とのお話しあり。
(コメント)
・「岸部屋」は薬屋で、同じ村で同宿の元俊医師のために五郎兵衛が薬を取りに行くことがあります。今日も岸部屋には薬を取りにいったのでしょう。
・他の仲間が次々と体調不良を訴える中、五郎兵衛はピンピンしていたのですが、ここにきて痔の痛みに見舞われてしまったようです。お大事に。

#ペリー来航
嘉永6年5月26日(1853年)
ペリー艦隊が那覇を出航。浦賀に向かう(浦賀到着まであと一週間)。


嘉永6年5月27日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。(高松)力蔵様は昨日湊川にお泊まりになり、本日は元俊医師と書き物の話し等をされていた。小生は写し物をした。
(コメント)
昨日は岸部屋に薬を取りにいったり、痔が出て痛かったり、大原幽学先生からお話しがあったりといろいろありましたが、奉行所からの呼び出し待ちであって何もすることがない状態。五郎兵衛は今日も写し物をしています。ゆったりとした時間が流れています。

嘉永6年5月28日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生から「どうだ今日は気晴らしに花火でも見に行かないか」とのお話しがあったが、一同「倹約の約束をもう破った等と国元に悪い噂を流されたくないので」と返答し、花火には行かなかった。
(コメント)
・大原幽学は、自ら裁判の被告人当人であり、どのような刑になるか分からないプレッシャーがかかっています。また、奉行所からの呼び出し待ちであって何もすることがない状態の門人たちを律していくリーダーでもあります。ここのところ引き締める発言ばかりだったので、今日は花火(両国の花火)を見に行くことを提案。しかし、門弟は真面目になり倹約志向を愚直に表面しています。
・本日の記事で言及されてる花火は、両国の花火。1733年(享保18年)、隅田川の両国橋付近で花火が打ち上げられ、そのことに因んで5月28日は「花火の日」とそれています。江戸時代は両国の花火大会は5月28日だったのですね。


嘉永6年5月29日(1853年)
#五郎兵衛の日記 #大原幽学刑事裁判 
湊川の借家へ。幽学先生が皆にうんとん(うどん)をご馳走したくれた。晩には先生と私ども8名で両国に夕涼みに行った。
(コメント)
大原幽学は昨日花火見物を提案。これは門弟たちの緊張を緩和するような施策です。本日のうどんのご馳走、両国への夕涼みも同じような試みですね。

#ペリー来航
嘉永6年5月29日(1853年)
薩摩藩主島津斉彬がペリー艦隊の琉球来航の事実を知る。江戸から薩摩藩に向かう途中の備前国(岡山県)でのこと。

嘉永6年に5月30、31日はありません。


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