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文政10年9月上旬色川三中「家事志」

2022年09月15日 | 色川三中
文政10年9月上旬色川三中「家事志」

土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年9月朔日(1日)(1827年)
菅間村の利助は、母の元に来たり来なかったりしており問題があったが、今日まで待っていたもののいまだ戻らないとのことである。不埒である。隣に奉公している吉兵衛の親を呼び寄せて、利助がいまだ戻っていないことを厳しくいうよう申し渡した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
菅間村(現つくば市)の利助は、土浦の三中の母親のところに通いで奉公しているようです(日記では前提を書いていないので、この辺よくわかりませんが)。無断欠勤が相次ぎ、三中は〈不埒である〉と最低の評価を下しています。

文政10年9月2日(1827年)
間原氏が来られて、債務の件について話す。当方の親戚の不幸があったので、ここ数日はこの話をしにくるのを遠慮していたとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
間原氏とは親しい中で債務の整理にも協力してもらっています。親戚にも不幸があったりしますが、三中の債務整理は待ったなしです。


文政10年9月3日(1827年)
七兵衛の兄(谷田部にいる)が病気になった。七兵衛は病気がちで出張をさせておらず、先般笠間に出張にいかせ、一昨日
戻ってきた。それにしても、実に病の多い年である。これまで前例がないほどである。
#色川三中 #家事志
(コメント)
七兵衛は店の従業員。従業員に対して愚痴の多い三中ですが、七兵衛に対しては今のところ愚痴を聞いたことがありません。信頼されているのでしょうか。病気がちであるので、大きな仕事をまかせられないということもあるのかもしれません。それにしても感染症の流行で病気にかかる人が多い年です。

文政10年9月4日(1827年)
昨日、土浦から南の方の営業をしている者が帰ってきた。川原代(龍ヶ崎市)の源三郎方へ書物を持って行ってもらった。源三郎の書状には、次は、史記の列伝を持ってきていただきたいとあった。使いに行かせたものは馳走になったそうだ。親切なことだ。
#色川三中 #家事志
(コメント)
南の方の営業と訳したのは、原文では〈南在廻り〉。南在は、南の方の在方という意味でしょう。南在の源三郎さんとは書物の貸し借りをしているらしく、〈今度は史記列伝〉を持ってきてくれとの注文。使いの者にはご馳走で接待。この時代はこんな感じでやり取りしてたのですね。

文政10年9月5日(1827年)
以前、甘遂や人参の根を植えたが、芽が出なかったので枯れてしまったと思っていた。昨日掘ってみたら、芽が出ていて、さては春になったらでるつもりだったのか、場所が変わったので、一年世にでることを休んだのだなと思い、非常に興味深かった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は薬種商ですが、本草学にも興味があり、趣味と実益を兼ねて薬草も育てていたことがわかります。甘遂は鹿嶋郡飯島邑あたりからとってきたとか、人参の根は八重村(石岡市八郷町)からもらってきた等と細かく記載されていましたがツイートでは略しました。

文政10年9月6日(1827年)
朝五つ過ぎに、谷田部(現つくば市)から二人の者が来て、店の従業員与兵衛の親(谷田部に居住)が亡くなったと知らせてきた。与兵衛にはすぐに谷田部に行かせた。
#色川三中 #家事志
(コメント)
従業員の与兵衛は8月半ばに水戸や江戸に早朝から出張を命じられており、精神的に厳しかったのではないでしょうか。本日親が亡くなり、与兵衛には一層辛いことでしょう。

文政10年9月7日(1827年)
江戸材木町のならや長兵衛殿からの債務を分割で支払っていたのだが、どうもある時から支払いを忘れてたいたらしい。ならやの親類宗兵衛殿が本日来て、その旨を聞く。ならやも裏に引きこもっており、最近は難渋しているとのこと。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中が債務の返済を忘れていた、債権者の方も取り立てを忘れてたいたという記事。債務の返済を忘れてたいたとは三中らしくありませんが、父の死により返済が止まっていた可能性もあります(相変わらずそういうところは日記に書いていない)。債権者のならやも引きこもって難渋とは盛者必衰。

文政10年9月8日(1827年)
・伊勢屋の出店の内室が亡くなり、本日野辺送りをした。
・木原様に借りていた本を返した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
「木原様」というのは土浦藩の武士。三中は町人ですが、本の貸し借りのような交流もあったことがわかります。木原様には以前虎徹の刀を差し上げたりもしています。


文政10年9月9日(1827年)
綿の手入れをすることが本年は遅く、雨が降らずに日に照らされて大いに草も傷んだのだが、収穫してみたら50貫近くになったと小作の者から話があった。
#色川三中 #家事志
(コメント)
三中は土浦(現土浦市)の町人ですが、土地も保有しており、田畑は小作に任せているようです。そのため、時々農業情報が日記にも顔を出します。江戸時代は綿は自給のため、土浦でも栽培がおこなわれていたことがわかる記事です。
なお、現在では外国産に押されて、国内では綿の栽培はほとんどしていないそうです。

文政10年9月10日(1827年)
(編集より)本日の日記の記載はなく、お休みです。
#色川三中 #家事志
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