全6巻である。
今まで何回読んだだろう。
もうボロボロになってきてしまった。
何回読んでも新鮮なのは、その時々の自分が違うからだと思う。
従って、その時々によって、印象深いところが違う。
今回読んでみて、前はこの部分に感心をしたけど、今回は違うなあ、というところがやっぱり多くて、それが自分の成長なのか退化なのか、ちょっと考え込んでしまった。
十八史は、中国の太古の時代から南宋の時代までの歴史を子供向けに作られた歴史書であることから、本来の歴史を扱っているものではない。
とウィキペディアに書かれている。
つまりは、例えば義経と弁慶の五条の橋の上での戦いや、八艘とび、弁慶の立ち往生、あるいは豊臣秀吉が信長の草履を温めていた、というような話ばかりなので、それを歴史としては見てならない、ということである。
中国の歴史を勉強するために読んでいるのではないので、そんなことは気にしない。
著者は、冒頭に十八史略に載っていない神話を紹介する。
そしてその神話には
「与えられた任務の遂行法、人情の機微、男女の葛藤、欲望の渦、信義と裏切り、死にたいする恐怖、指定に代表される人間関係のきびしさ」
がすっぽりとはめこまれており、つまりイコール中国の歴史であるとしている。
そうなのである、この物語には多くの人間が登場するのだが、その人間たちの生き様が非常に面白いのである。歴史というのは人間学ではないのだろうか、と思うくらいである。
さらに言えば、同じようなことをして同じように失敗している人の多いこと。
人というのは同じ過ちを繰り返しているのだということがわかる。
歴史を学べばどうすべきか明確ではないか、と、読んでいるうちに腹が立つことがある。
しかし、そう怒っている私も同じ過ちを犯すのである。
今回は、そういう反省を含めて、改めて読み直してみようと思ったのである。
であるが、やっぱり面白くて教訓なんてなどうでもよくなってしまうのである。
さて、第一巻は、神話時代の話が冒頭にあるが、続いて「酒池肉林」の話が登場する。
つまりは、殷の紂王の話からである。そうすると続いて「周」の時代、そして「春秋時代」「戦国時代」を経て、秦の始皇帝の天下統一となる。
このあたりの流れを大体覚えておいて、詳しいところは宮城谷昌光のいろいろな本を読んできたのである。
あるいは、さらに小説である酒見賢一の本も読んできた。
まあ、ともかく魅力的な人たちが多くて。
それで、成功する人たちを見ていてものすごく感心するのは、目的を達成するための手段にかける時間の長いことである。
現代は、時の流れが速くなったようで、早く早くとせかされ、結果がすぐ見えないと失敗ということになってしまう。
しかし、もう少し長い目で見てもいいのではないだろうか?
批判する人たちが早く早く、というのはわからないでもないが、何かを為そうとする場合は早く早くではダメなんだと思う。
企画の「企」という字、企てるだが、この感じの意味には「つま先だって遠くを見る」というものがある。
遠くを見ないで企てるのは失敗に終わるのである。
更に陽気に我慢する人が勝つ、と思う。
しかし、熱い人はあまり芳しくない。
自分で自分をコントロールし、自分で考えた演技をきっちり演じられなければならない。
熱い人はどこかで自分が出てしまう。
そんなことを思いながら一巻を読み終えたのである。
追伸
昨日から台風19号が日本列島を襲っている。
近頃の自然災害が多く発生している。
自然災害なのだから、その責任は政治や行政にはないのであるが、何かというと政(まつりごと)のせいにされる。
これは昔の中国でもそうであり、あまりにも自然災害が多いと、王や皇帝の心の持ち方が悪い、ということになり、滅ぼされる原因となる。
ということで、自然災害というのは政を行う者にとってはその能力を大きく試されるものなのではないかと思う。
それにしても、科学的になった現代でも、紀元前の中国と同様の責任追及が行われるということを見ると、なんだか「人」というのはあまり進歩していないのではないかと思ってしまう。
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今まで何回読んだだろう。
もうボロボロになってきてしまった。
何回読んでも新鮮なのは、その時々の自分が違うからだと思う。
従って、その時々によって、印象深いところが違う。
今回読んでみて、前はこの部分に感心をしたけど、今回は違うなあ、というところがやっぱり多くて、それが自分の成長なのか退化なのか、ちょっと考え込んでしまった。
十八史は、中国の太古の時代から南宋の時代までの歴史を子供向けに作られた歴史書であることから、本来の歴史を扱っているものではない。
とウィキペディアに書かれている。
つまりは、例えば義経と弁慶の五条の橋の上での戦いや、八艘とび、弁慶の立ち往生、あるいは豊臣秀吉が信長の草履を温めていた、というような話ばかりなので、それを歴史としては見てならない、ということである。
中国の歴史を勉強するために読んでいるのではないので、そんなことは気にしない。
著者は、冒頭に十八史略に載っていない神話を紹介する。
そしてその神話には
「与えられた任務の遂行法、人情の機微、男女の葛藤、欲望の渦、信義と裏切り、死にたいする恐怖、指定に代表される人間関係のきびしさ」
がすっぽりとはめこまれており、つまりイコール中国の歴史であるとしている。
そうなのである、この物語には多くの人間が登場するのだが、その人間たちの生き様が非常に面白いのである。歴史というのは人間学ではないのだろうか、と思うくらいである。
さらに言えば、同じようなことをして同じように失敗している人の多いこと。
人というのは同じ過ちを繰り返しているのだということがわかる。
歴史を学べばどうすべきか明確ではないか、と、読んでいるうちに腹が立つことがある。
しかし、そう怒っている私も同じ過ちを犯すのである。
今回は、そういう反省を含めて、改めて読み直してみようと思ったのである。
であるが、やっぱり面白くて教訓なんてなどうでもよくなってしまうのである。
さて、第一巻は、神話時代の話が冒頭にあるが、続いて「酒池肉林」の話が登場する。
つまりは、殷の紂王の話からである。そうすると続いて「周」の時代、そして「春秋時代」「戦国時代」を経て、秦の始皇帝の天下統一となる。
このあたりの流れを大体覚えておいて、詳しいところは宮城谷昌光のいろいろな本を読んできたのである。
あるいは、さらに小説である酒見賢一の本も読んできた。
まあ、ともかく魅力的な人たちが多くて。
それで、成功する人たちを見ていてものすごく感心するのは、目的を達成するための手段にかける時間の長いことである。
現代は、時の流れが速くなったようで、早く早くとせかされ、結果がすぐ見えないと失敗ということになってしまう。
しかし、もう少し長い目で見てもいいのではないだろうか?
批判する人たちが早く早く、というのはわからないでもないが、何かを為そうとする場合は早く早くではダメなんだと思う。
企画の「企」という字、企てるだが、この感じの意味には「つま先だって遠くを見る」というものがある。
遠くを見ないで企てるのは失敗に終わるのである。
更に陽気に我慢する人が勝つ、と思う。
しかし、熱い人はあまり芳しくない。
自分で自分をコントロールし、自分で考えた演技をきっちり演じられなければならない。
熱い人はどこかで自分が出てしまう。
そんなことを思いながら一巻を読み終えたのである。
追伸
昨日から台風19号が日本列島を襲っている。
近頃の自然災害が多く発生している。
自然災害なのだから、その責任は政治や行政にはないのであるが、何かというと政(まつりごと)のせいにされる。
これは昔の中国でもそうであり、あまりにも自然災害が多いと、王や皇帝の心の持ち方が悪い、ということになり、滅ぼされる原因となる。
ということで、自然災害というのは政を行う者にとってはその能力を大きく試されるものなのではないかと思う。
それにしても、科学的になった現代でも、紀元前の中国と同様の責任追及が行われるということを見ると、なんだか「人」というのはあまり進歩していないのではないかと思ってしまう。
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