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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大林宣彦監督を追悼し、いくつもの映画に感謝!

2020年04月11日 22時48分33秒 |  〃  (日本の映画監督)
 映画監督の大林宣彦(おおばやし・のぶひこ)が亡くなった。4月10日、82歳。亡くなったのは、奇しくも遺作の「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」の公開予定日だったが、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言で延期になった。一体いつになったら見られるんだろうか。ガンで闘病中で余命宣告を受けていたのは公表されていた。だから驚きはなく、むしろ「花筺」(はながたみ)と「海辺の映画館」と最後に集大成的な作品が二つも作られたことに感謝である。
(大林宣彦)
 大林宣彦は僕の世代にとって特別な映画監督(の一人)だ。溝口、小津などの巨匠は名前を知ったときにはずいぶん前に亡くなっていた。黒澤明は存命だったが、数年に一本大作を撮る人で全盛期は過ぎていた。大林監督は1938年生まれと世代的には年長だが、商業映画デビューは1977年の「HOUSE ハウス」だから、デビュー作から見ているのである。そして70年代から80年代に大きな影響力を持った角川映画でも撮ってヒット作を連発した。角川文庫と連動した「ねらわれた学園」(1981)や「時をかける少女」(1983)など僕らの世代は大体見てるんじゃないか。もちろんテーマ曲も歌えるだろう。
(「時をかける少女」)
 そういう人は他分野を見ても数少ないと思う。ただ大林監督は有名になりすぎたかもしれない。故郷の尾道を舞台に撮り続けたことで、「ふるさと創生」の代名詞のようになりマスコミや大企業にも受けてしまった。社会批判色が少なかったので、広告などにも起用されやすかった。それが僕には残念だったが、最晩年になって大震災後に今度はまた変わったと思う。反戦のメッセージを次代に残そうと努め、映像技法的にも自由奔放な映画を作り始めた。そこがやはり偉大な映像作家だった証だ。

 大林監督はもともと個人映画の作家として有名だった。上映される機会は少なかったが、時々池袋の文芸地下(今の新文芸坐の敷地に洋画専門の文芸坐があり、日本映画専門の文芸地下は下にあった)でやっていた。それらの映画は独特な長い名前を持ち、不思議に懐かしい思い出のような映像が魅力的だった。「Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道」(1964)、「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)、「CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅」(1968)などである。これが面白くて、僕は名前を記憶することになった。

 これらの映画は当時は自分で8ミリ映写機を回して撮影して編集するもので、そういう映画を作っていた人は当時は非常に珍しかった。それが認められ、CMディレクターとなり大活躍する。日本映画の海外ロケも珍しい時代だが、CMなら海外スターを起用できるとチャールズ・ブロンソンの男性用整髪料「マンダム」が大評判となった。「丹頂」から社名を「マンダム」に変えてしまったぐらいだ。他にも上原謙、高峰三枝子の「国鉄フルムーン」、山口百恵・三浦友和の「グリコアーモンドチョコレート」、ソフィア・ローレンの「ホンダ・ロードパル」、「レナウン・ワンサカ娘」など評判になったCMをいっぱい作っている。
(「マンダム」)
 そこで満を持して商業映画を撮ることになって、当時の流行でもあったホラー、パニック映画の「HOUSE ハウス」(1977)を東宝で製作した。批評家受けは悪くて、キネ旬ベストテンでは21位だったが、僕はとても面白くてその年のベストワンである。少女たちが家に食べられてしまうという話をポップな感覚で撮っている。今思えばガーリーなファンタジーとして先駆的な作品で、影響を受けた若い世代が後にたくさん出てくる。次が「ブラックジャック」を映画化した「瞳の中の訪問者」だが面白くなかった。主演が片平なぎさだから見たんだけど。その後段々判ってくるけど、原作があってヒットを期待される時期に公開される映画ほど面白くない。やはり「個人映画」の作家なのだった。
(HOUSE」)
 転機になったのは、1982年の「転校生」。2017年にフィルムセンターで再見した時のことは「大林宣彦『転校生』を35年ぶりに見る」に書いたので、ここでは省略する。ベストテン3位に入選し、初めて高く評価された。「尾道三部作」の最初で、山中恒原作だがほとんど自由に作っている。ATGで製作して大手じゃなかったのが良かった。次が角川の「時をかける少女」(1983)で、原田知世主演で大ヒットした。原作は筒井康隆のジュブナイルSFだが、何度も映像化されている中で一番いいだろう。あの頃僕らは「ラベンダーの香り」と言われても、謎めいて判らなかったのだ。
(「さびしんぼう」)
 尾道三部作の最後が「さびしんぼう」(1985)だが、ノスタルジックなムードが最高と言える作品で、僕は大林作品の最高傑作レベルだと思う。「ふたり」(1991)「あした」(1995)「あの、夏の日~とんでろ じいちゃん~」(1999)を「新尾道三部作」と言うが、やはり最初の方がずっといいと思う。僕らも、監督も飽きたのかもしれない。「ふたり」はとてもいいと思ったが、どうも既視感が次第に強くなった。これらの尾道映画は「観光映画」ではなく、何気ない日常を撮ることで、全体として懐かしいムードを作り出し「ロケ聖地めぐり」の先駆けとなった。その功績は非常に大きい。

 作品が多くて長くなっているが、わざわざ16ミリで撮影した「廃市」(1984)は忘れがたい。福永武彦の傑作短編の映画化で、福岡県柳川の堀割を古びた町のムードを満喫した。もっとも数年前に再見したら、ちょっとガッカリしたところもあった。もっと大傑作に思い込んでいた。時間経過による思い込みの美化である。もう一つ、ノスタルジー映画ではないが、個人的な思いで作った「北京的西瓜」(1989)がある。中国人留学生のお世話に奔走する千葉県船橋の八百屋を描く。ちょうど天安門事件にぶつかり、中国ロケが出来なかった。あまり取り上げられないが、非常に特別な価値がある映画だと思う。
(「廃市」)
 残りは簡単にしたいが、原作映画化として「異人たちとの夏」(1988)、「青春デンデケデケデケ」(1992)、「はるか、ノスタルジイ」(1993)、「女ざかり」(1994)、「理由」(2004)などがある。「異人たちとの夏」は高く評価されたが、僕は設定に納得できない。素晴らしいのは「青春デンデケデケデケ」で、芦原すなおの直木賞受賞作を実にうまく映像化した。四国の高校生のバンド映画だが、ベンチャーズ世代なのである。これを見ると、やはり大林映画のキモは「失われゆく青春へのノスタルジー」にある。丸谷才一の話題作「女ざかり」は吉永小百合主演だが全然面白くなかった。
(「青春デンデケデケデケ」
 「SADA」(1998)という映画はベルリン映画祭で受賞したというので、一応見に行ったが面白くなかった。阿部定の映画なんだけど、大島渚、田中登に付け加えるところはなかったと思う。こうして次第に面白くない映画が多くなってしまい、「なごり雪」(2002)や「22歳の別れ」(2007)などは見逃した。そして大震災後に「この世の花ー長岡花火物語」(2012)、「野のなななのか」(2014)、「花筺」(2017)、「海辺の映画館~キネマの玉手箱~」(2020)の、いわば「山崎紘菜四部作」が作られた。その評価はまだ僕には出来ない感じだ。「海辺の映画館」を見られてからじっくり考えたい。

 ずっと追ってきたので長くなってしまった。青春時代からずっと見ていた監督で、ひたすら画面に夢中になって切ない思いに浸ってきた。まだ書きたい映画も残っているぐらい、作品数が多い。全部見た人はいないんじゃないだろうか。特集上映が行われ、また映画館のスクリーンで見られる日を待ち望んでいる。長い間素晴らしき映画を作り続けた大林監督に感謝したいと思う。
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今井清一、クリス・リード、ペンデレツキ等ー2020年3月の訃報③

2020年04月11日 14時03分16秒 | 追悼
 3回にわたって書くことになるが、今回は写真なしで訃報を書き留めるだけの人が多い。一方に中国現代史の野村浩一がいて、もう一方に前愛媛県知事の加戸守行がいる。大きく報道される記事の下の方に小さな訃報がいっぱいある。様々な死因がある。そのような多くの病む人を病院は放っておくことは出来ない。新型コロナウイルス感染症だけに掛かりきりになることはできない。 

 歴史学者(日本近現代史)の今井清一が9日に死去、93歳。1955年に出た岩波新書「昭和史」(1959年に新版)の著者の一人だった。もう二人の遠山茂樹藤原彰は理論家でもあり一般書も多かったが、今井清一は元々の専門である「大正デモクラシー」と同様に地味だったかもしれない。この本は亀井勝一郎から「人間が出て来ない」と評され「昭和史論争」を引き起こした。僕が思うに、「科学としての歴史学」は「文芸評論」とは土俵が違うから「異種間格闘技」をしてもあまり意味はない。問題は「党派的」な歴史観、「二元対立」的な見方(戦争を推し進める軍部対弾圧される共産党的なとらえ方)をどう克服できているかだろう。今思えば、基本的に左翼的であるこの本も「昭和史」という名前だったということに驚く。ところで、今井氏は退職後も現代史研究を続け、関東大震災時の中国人虐殺事件を追求し本にまとめた。僕は関東大震災関係の集会で講演を聞き、感動した思い出がある。
(今井清一)
 アイスダンスの選手だったクリス・リードが15日に死去、30歳。志村けん以上に驚いた訃報である。母が日本人で、姉のキャシー・リードとともにバンクーバー、ソチ、村元哉中(かな)とピョンチャン五輪に出場した。日本ではフィギュアスケートはシングル選手は有名だが、アイスダンスは盛んでない。僕も名前ぐらいしか知らないと言ってもいい。団体ではメダルが取れても、五輪は15位が最高だった。引退してコーチになることを決意し、日本へ帰国準備中だったという。心臓突然死でデトロイトで亡くなった。
(右=クリス・リード)
 第5代国連事務総長のハビエル・ペレス・デクエヤルが4日死去、100歳。ペルー出身の外交官で、国連事務次長を経て、1982年から1991年終わりまでラテンアメリカ出身でただ一人の事務総長を務めた。その後、1995年にペルー大統領選に出馬したが、2期目を目指すアルベルト・フジモリに敗れた。ウィキペディアを見ると、正式の名前は恐ろしく長くて、ハビエル・フェリペ・リカルド・ペレス・デ・クエヤル・デ・ラ・ゲーラと出ている。
(デクエヤル)
 ポーランドの現代音楽作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキが29日死去、86歳。正直名前ぐらいしか知らないけれど、それでも名前は知っていた。1960年の「広島の犠牲者に捧げる哀歌」で知られた。創作の頂点は1965年の合唱曲「ルカ受難曲」だという。交響曲を見ると、「朝鮮風」とか「中国の詩」などという題が付いていてアジアへの関心がうかがわれる。映画音楽も手掛けていて、「シャイニング」に楽曲を提供したほか、アンジェイ・ワンダ監督の「カティンの森」の音楽を担当した。
(ペンデレツキ)
・中国近現代史の研究者、野村浩一が1日死去、89歳。立教大学教授だったが、法学部なので僕は直接接していない。「中国の歴史」シリーズの一巻「人民中国の誕生」(1974)には多く教えられた。今思えば文化大革命に甘かったかもしれない。
・元帝国ホテル社長の犬丸一郎が3日死去、93歳。帝国ホテルに関する著書も書いた。
・作家の勝目梓(かつめ・あずさ)が3日死去、87歳。バイオレンス小説を多く書いた。俳人でもあった。
・全柔連名誉会長の嘉納行光(かのう・ゆきみつ)が8日死去、87歳。嘉納治五郎の孫にあたる。
・東京都議会議員の古賀俊昭が9日死去、72歳。全国的には知らない人も多いだろう。七生養護学校事件を引き起こすなど、東京の右翼的な性教育攻撃、歴史修正主義的教育を推し進めてきた中心人物の一人だった。
・第12代最高裁長官の草場良八が13日死去、94歳。90年から95年に長官を務めた。
・日経新聞元会長の鶴田卓彦が13日死去、92歳。横綱審議委員会委員長も務めた。
・ハンセン病療養所栗生楽泉園自治会長の藤田三四郎が15日死去、94歳。
・前愛媛県知事の加戸守行が21日死去、85歳。99年から3期務めた。愛媛県は東京都と並んで、県立養護学校(当時)に「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択した。採択前に加戸知事が「扶桑社がベストと発言していた。」後に加計学園獣医学部新設問題では、国会に参考人として出席し、安倍政権寄りの発言を繰り広げた。元文部省官房長を務めるも、リクルート事件文部省ルートに関わり辞任。その後JAS RAC理事長などを経て現職を破って当選した。
・東大史料編纂所教授、歴史学者の山本博文が29日死去、63歳。「江戸御留守居役の日記」で日本エッセイストクラブ賞。

・カントリーミュージックの大歌手、ケニー・ロジャースが20日死去、81歳。グラミー賞を3回受賞。
・ノーベル賞物理学者フィリップ・アンダーソンが29日死去、96歳。量子力学の発展に貢献した。
・ソウル歌手のビル・ウィザースが30日死去、81歳。グラミー賞を3回受賞。
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