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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「供述弱者」の問題ー滋賀・呼吸器事件の再審無罪判決

2020年04月05日 22時50分40秒 |  〃 (冤罪・死刑)
 2020年3月31日に大津地裁で行われた「滋賀・呼吸器事件」の再審無罪判決はとても素晴らしい判決だった。非常に重大な問題を提出しているので、考えておかないといけない。最近は新型コロナウイルスが緊急で他の問題に気が回らないのだが、これは忘れないうちに書いておきたい。
(再審無罪判決を喜ぶ人々)
 この事件は名前もまだ確定していない。僕も「湖東病院事件」と書いたことがあるが、別に病院が事件を起こしたわけではない。「事件性」がない自然死と考えられるケースで無理やり犯人を作ったのだから、「滋賀県警事件」とでも呼ぶべきかもしれない。昔は「犯人の名前」を付けることが多かった。無実であって犯人じゃないのに、今でも「免田事件」「袴田事件」と呼ばれる。それはおかしいので、地名や事件内容で呼ぶことが多くなった。救援運動をした国民救援会では「湖東記念病院人工呼吸器事件」と言ってるが長すぎる。マスコミでは「滋賀・呼吸器事件」と表記することが多いようだ。

 この事件の持つ重大な意味に関しては、弁護団長井戸謙一氏の朝日新聞インタビュー「無実の罪、晴れてなおが詳しい。有料記事だがリンクを貼っておく。井戸さんは金沢地裁裁判長時代に、志賀原発運転差し止め住民基本台帳ネットワーク違憲判決などを出したことで知られる。2011年に退官して、滋賀県彦根で弁護士となった。しかし、最初に依頼されたときは「断りたい」と思ったという。「外形的事実」を見ると「とても再審請求が通るとは思えませんでした」という。

 この事件は再審開始決定まで僕は全く知らなかった。東京ではほとんど知られていないし、支援運動が活発だったわけでもない。その中を最後まで頑張った元被告(再審請求人)と弁護団の苦労に敬意を表したい。再審事件の判決でも、時には「グレーの無罪」的な言い渡しがないではない。しかし、今回は「真っ白」の判決である。判決言い渡し後に、裁判長は「この事件は日本の刑事司法を変えていく大きな原動力になるでしょう。すべての刑事司法関係者がこの事件を自分のこととして受け止め、改善に取り組まなければいけません」と述べた。その言葉は非常に重いものがある。
(判決後の再審請求人)
 今回の判決の最大の意義は「自白の任意性の否定」にある。憲法には「自白」のみで有罪には出来ないとある。「自白」も本来証拠にできる場合は限られているが、「任意性」「信用性」の条件を満たす場合に認められることがある。多くの無罪事件では、鑑定などで「信用性」に疑いありとして「自白調書」の証拠価値を否定することが多い。それでも「任意性」(被告人が自ら進んで供述したか)を否定することは少なかった。「任意性」を否定してしまうと、捜査実務の大きな影響を与えるからだろう。でもなんで人がわざわざ「ウソの自白」をするんだろう。

 判決要旨から引用すると、「自白供述の任意性は、人権侵害や捜査手続きの違法性などを総合考慮して判断するのが妥当だ。捜査機関側の事情のみならず、供述者側の年齢や精神障害の有無も考慮しつつ判断すべきだ。取り調べをした警察官は被告の迎合的な供述態度や自らに対する恋愛感情などを熟知しつつ、これを利用して供述をコントロールしようとする意図の下、長時間の取り調べを重ねた。被告に対し強い影響力を独占的に行使し得る立場を確立し、捜査情報と整合的な自白供述を引き出そうと誘導するなどした。」

 「知的障害や愛着障害などから迎合的な供述をする傾向が顕著である被告に誘導的な取り調べを行うことは、虚偽供述を誘発する恐れが高く不当だった。諸事情を総合すると、自白供述は自発的になされたものではない。防御権の侵害や捜査手続きの不当によって誘発された疑いが強く、「任意にされたものでない強い疑いがある」と言うべきであるから証拠排除する。」

 この判断は画期的なもので、単に刑事事件捜査に止まらない影響力を持つと思う。一言で言えば「供述弱者」への配慮を認めたものだ。知的、精神的障害を持つ人が刑事事件に(加害者であれ、被害者であれ)巻き込まれることは多い。その時に強大な権限を持つ捜査官に囲まれると、正しい判断が難しくなることもある。これは「取り調べに対する弁護士の同席」が絶対に必要だということである。ゴーン事件で改めて日本の司法の異常性が注目されている。これは絶対に必要なことだと強調しておきたい。

 刑事司法に止まらず、「強大な立場」に向き合うとき、「障害を抱えた弱者」がどのような振る舞いを見せるか。教育や福祉の現場でも、似たようなことが起こりうる。というか、現にたくさん起きている。一見すると「虚言癖」のように思える生徒に振り回されたことは多くの教師にあるだろう。その場その場で、愛着を覚えた対象に都合のいいように言い分を変えるような人は珍しくない。軽度の発達障害などは思ったより多く、企業などでも「パワハラ」「セクハラ」の対象になりやすい。この判決の重大な意義はそういうところでも意味を持つと思う。

 また、再審公判で検察側は立証を放棄したが、それは警察の持っていた未開示資料の中に「そもそも事件性がなかった可能性」を示す資料があったからだ。これは改めて「証拠開示」の重要性を示している。それも単に刑事裁判だけでなく、より一般的に「不利な情報でも公開する」という「情報公開」の問題として考えるべきだろう。捜査資料は「公文書」であるから、本来国民全体のものである。有罪立証に不利だから隠しておくなどとんでもないことだ。
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