2020年3月27日に泉水博(せんすい・ひろし)が死去した。岐阜刑務所で22日に倒れているのを発見され、病院に搬送されたが27日に死亡したとウィキペディアに出ている。名前を知らない人もいるだろうが、ある世代の人には非常に強い印象を残していると思う。「ダッカ事件」(1977年9月28日に起きた日本赤軍による日航機ハイジャック)で乗客解放のための「釈放要求者リスト」に載り、「超法規的」に出国した人である。その後、1986年6月7日にフィリピンで逮捕され、旅券法違反で有罪となった。
(ウェブ上の記事から)
泉水博はいわゆる「活動家」ではない。強盗殺人罪で無期懲役刑を受けていた「一般刑事犯」だった。それがどうして釈放要求に載ったか。この時はもう一人仁平映(にへい・あきら)という刑事犯もいて、どうして選ばれたのか当時から気になっていた。フィリピンで逮捕当時は非常にひどく報道され、「赤軍の脱落者」で堕落した生活を送っていたなどとマスコミは書き飛ばした。
(ダッカ事件当時)
その泉水博という人の実像を広く世に知らせたのは、松下竜一「怒りていう、逃亡には非ず」(1993)だった。松下竜一(1937~2004)は大分県中津に住んで、環境権裁判などを起こした骨太のノンフィクション作家である。僕は松下さんの発行するミニコミ「草の根通信」を長く購読していて、松下さんの本はほぼ読んでいた。その事は主著「砦に拠る」が舞台化されたときに「『砦』という芝居、松下竜一さんのこと」に書いた。もちろん「怒りていう、逃亡に非ず」もすぐに読んで感銘を受けた。その後「松下竜一、その仕事」という全30巻の全集が河出書房から出版され、それも全部持ってるから出たときに読み返した。ずいぶん忘れているので、今回は「その仕事」版をまた読み直した。だから3回読んでいる。
(「怒りていう、逃亡には非ず」)
松下氏は多くの市民運動に関わりながら、1975年に連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の中心的メンバー、大道寺将司を描く「狼煙を見よ」も書いている。そのためかどうか、1988年1月29日に警視庁によって泉水博など「旅券法違反」に関わる家宅捜索を受けた。(後に家宅捜索は違法として国家賠償裁判を起こして、勝訴した。)その時まで「泉水博」という人は意識していなかったのである。そして頼まれて泉水に関わる中で、自分と泉水はほぼ同年代と知る。松下竜一は1937年2月15日生まれで、泉水は1937年3月10日生まれなのである。もっとも本人は戸籍上の記載に疑いも持っていて、だからかどうかウィキペディアには生年月日が記載されていていない。
本に沿って彼の生涯を事細かく書いていると終わらないので絞って書く。貧窮の中に育ち、10歳上の兄も一匹狼のヤクザ的に生きていた。泉水博も幼い頃から様々な仕事をするが、テキ屋になって義理人情に篤い生き方を学んだ。その後キャバレーのボーイ時代に、誘われて重役夫人を襲い、強盗に加担するが共犯者が殺人を犯してしまう。共犯者は裁判前に自殺してしまい、泉水が手助けしたという共犯者の調書が採用されたという。本人は別の部屋にいたというが、主犯の分まで負わされたのか、強盗殺人の従犯で無期懲役の重刑となった。1960年のことである。
千葉刑務所で服役中は模範囚で、1975年には仮釈放も目前だった。しかし、3月22日に泉水博は同囚の獄中医療の不備を訴えるために単独で決起した。医務官のウソが重なり、獄中者の権利も守られず、このままで無期囚の命が危ないとして、看守を襲って人質に取ろうとしたのである。実際には失敗して、看守に対する傷害罪で終わるが、これがサンケイ新聞(現産経新聞)にスクープされた。松下著によれば、著名な民族運動家の野村秋介が千葉刑にいて刑期終了目前だった。野村が世に伝える約束だったという。この「決起」により泉水は旭川刑務所に送られ、獄中の等級は最下級に落とされた。
この事件が彼の人生を変えた。遠くアラブの地まで伝わって、釈放リストに名を連ねたのである。泉水は旭川で突然深夜に呼び出され、「究極の選択」を迫られた。もう日本には帰れない可能性が高いが、自分が行かなければ人質が殺されるかもしれない。日本赤軍がどんな組織か、思想的問題も全く判らないが、拒否していいものか。9人のリスト中、3人が拒否したのだが、そのことも知らされなかった。人質との交換要員と思わされ、一人でも死者が出たら後悔すると考え出国を認めたのである。それを「そんなにシャバに出たいのか」と法務官僚は「上から目線」で決めつけ、「遁刑」と決めつけた。しかし、まさに「怒りていう、逃亡には非ず」なのだ。
その後のアラブやフィリピンでどのような暮らしを送ったかは、先の本に出てきて興味深いが省略する。日本に戻され長く沈黙を守ったが、旅券法違反の裁判の様子も省略する。同書に出てくる「勾留理由開示公判」の兄の陳述は、涙なくして読めない。泉水博も兄も学歴もなく底辺で生きてきた人物だが、国家の偽りを鋭く見抜く感性を持っていたのである。兄の陳述を涙を拭いながら聞いていたという泉水博の姿は印象的である。結局、旅券法違反は1995年に懲役2年の実刑が確定した。
その後、泉水博はまず「逃亡」前の無期懲役刑を受けなければならなかった。そして仮に無期懲役囚として仮釈放が近づいたとしても、その後に「懲役2年」の旅券法違反事件が待っているのである。これは複数の刑期がある場合、重い刑から執行するという慣例によるという。ところで4月8日の東京新聞「編集局南端日誌」によると、2016年に泉水は「順変」義務付け請求訴訟を起こしていたという。「順変」とは刑の執行順序のことで、旅券法違反を先にという請求である。2010年には当時の岐阜刑務所長が仮釈放を考えて順変を申請して却下されたという。訴訟も敗訴したが、最後まで闘っていたのだ。
泉水博は日本の庶民の中に流れる「義侠」を体現したような人生を送った。自分の仮釈放を犠牲にして他の囚人のために訴え出ることは、普通は出来るものじゃない。ハイジャック事件でも赤軍派に対し、何度も早く人質を解放するように求めていた。パレスチナゲリラの間でも人気者で、歌がうまかったという。松下さんの本を読み返すのが遅くなってしまったが、是非一度読んで欲しい本だ。赤軍派コマンドなどという決めつけでなく、この義侠の人のことを心に留めておきたいと思う。(なおこの本に出てくる多くの人のその後を知りたいと思い検索したところ、多くの死者とともに苛酷な現実を突きつけられるような事実が多かった。ここでは省略する。)

泉水博はいわゆる「活動家」ではない。強盗殺人罪で無期懲役刑を受けていた「一般刑事犯」だった。それがどうして釈放要求に載ったか。この時はもう一人仁平映(にへい・あきら)という刑事犯もいて、どうして選ばれたのか当時から気になっていた。フィリピンで逮捕当時は非常にひどく報道され、「赤軍の脱落者」で堕落した生活を送っていたなどとマスコミは書き飛ばした。

その泉水博という人の実像を広く世に知らせたのは、松下竜一「怒りていう、逃亡には非ず」(1993)だった。松下竜一(1937~2004)は大分県中津に住んで、環境権裁判などを起こした骨太のノンフィクション作家である。僕は松下さんの発行するミニコミ「草の根通信」を長く購読していて、松下さんの本はほぼ読んでいた。その事は主著「砦に拠る」が舞台化されたときに「『砦』という芝居、松下竜一さんのこと」に書いた。もちろん「怒りていう、逃亡に非ず」もすぐに読んで感銘を受けた。その後「松下竜一、その仕事」という全30巻の全集が河出書房から出版され、それも全部持ってるから出たときに読み返した。ずいぶん忘れているので、今回は「その仕事」版をまた読み直した。だから3回読んでいる。

松下氏は多くの市民運動に関わりながら、1975年に連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線の中心的メンバー、大道寺将司を描く「狼煙を見よ」も書いている。そのためかどうか、1988年1月29日に警視庁によって泉水博など「旅券法違反」に関わる家宅捜索を受けた。(後に家宅捜索は違法として国家賠償裁判を起こして、勝訴した。)その時まで「泉水博」という人は意識していなかったのである。そして頼まれて泉水に関わる中で、自分と泉水はほぼ同年代と知る。松下竜一は1937年2月15日生まれで、泉水は1937年3月10日生まれなのである。もっとも本人は戸籍上の記載に疑いも持っていて、だからかどうかウィキペディアには生年月日が記載されていていない。
本に沿って彼の生涯を事細かく書いていると終わらないので絞って書く。貧窮の中に育ち、10歳上の兄も一匹狼のヤクザ的に生きていた。泉水博も幼い頃から様々な仕事をするが、テキ屋になって義理人情に篤い生き方を学んだ。その後キャバレーのボーイ時代に、誘われて重役夫人を襲い、強盗に加担するが共犯者が殺人を犯してしまう。共犯者は裁判前に自殺してしまい、泉水が手助けしたという共犯者の調書が採用されたという。本人は別の部屋にいたというが、主犯の分まで負わされたのか、強盗殺人の従犯で無期懲役の重刑となった。1960年のことである。
千葉刑務所で服役中は模範囚で、1975年には仮釈放も目前だった。しかし、3月22日に泉水博は同囚の獄中医療の不備を訴えるために単独で決起した。医務官のウソが重なり、獄中者の権利も守られず、このままで無期囚の命が危ないとして、看守を襲って人質に取ろうとしたのである。実際には失敗して、看守に対する傷害罪で終わるが、これがサンケイ新聞(現産経新聞)にスクープされた。松下著によれば、著名な民族運動家の野村秋介が千葉刑にいて刑期終了目前だった。野村が世に伝える約束だったという。この「決起」により泉水は旭川刑務所に送られ、獄中の等級は最下級に落とされた。
この事件が彼の人生を変えた。遠くアラブの地まで伝わって、釈放リストに名を連ねたのである。泉水は旭川で突然深夜に呼び出され、「究極の選択」を迫られた。もう日本には帰れない可能性が高いが、自分が行かなければ人質が殺されるかもしれない。日本赤軍がどんな組織か、思想的問題も全く判らないが、拒否していいものか。9人のリスト中、3人が拒否したのだが、そのことも知らされなかった。人質との交換要員と思わされ、一人でも死者が出たら後悔すると考え出国を認めたのである。それを「そんなにシャバに出たいのか」と法務官僚は「上から目線」で決めつけ、「遁刑」と決めつけた。しかし、まさに「怒りていう、逃亡には非ず」なのだ。
その後のアラブやフィリピンでどのような暮らしを送ったかは、先の本に出てきて興味深いが省略する。日本に戻され長く沈黙を守ったが、旅券法違反の裁判の様子も省略する。同書に出てくる「勾留理由開示公判」の兄の陳述は、涙なくして読めない。泉水博も兄も学歴もなく底辺で生きてきた人物だが、国家の偽りを鋭く見抜く感性を持っていたのである。兄の陳述を涙を拭いながら聞いていたという泉水博の姿は印象的である。結局、旅券法違反は1995年に懲役2年の実刑が確定した。
その後、泉水博はまず「逃亡」前の無期懲役刑を受けなければならなかった。そして仮に無期懲役囚として仮釈放が近づいたとしても、その後に「懲役2年」の旅券法違反事件が待っているのである。これは複数の刑期がある場合、重い刑から執行するという慣例によるという。ところで4月8日の東京新聞「編集局南端日誌」によると、2016年に泉水は「順変」義務付け請求訴訟を起こしていたという。「順変」とは刑の執行順序のことで、旅券法違反を先にという請求である。2010年には当時の岐阜刑務所長が仮釈放を考えて順変を申請して却下されたという。訴訟も敗訴したが、最後まで闘っていたのだ。
泉水博は日本の庶民の中に流れる「義侠」を体現したような人生を送った。自分の仮釈放を犠牲にして他の囚人のために訴え出ることは、普通は出来るものじゃない。ハイジャック事件でも赤軍派に対し、何度も早く人質を解放するように求めていた。パレスチナゲリラの間でも人気者で、歌がうまかったという。松下さんの本を読み返すのが遅くなってしまったが、是非一度読んで欲しい本だ。赤軍派コマンドなどという決めつけでなく、この義侠の人のことを心に留めておきたいと思う。(なおこの本に出てくる多くの人のその後を知りたいと思い検索したところ、多くの死者とともに苛酷な現実を突きつけられるような事実が多かった。ここでは省略する。)