尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

トルコ映画「雪の轍」と「昔々、アナトリアで」

2015年07月12日 21時50分22秒 |  〃  (新作外国映画)
 2014年のカンヌ映画祭パルムドール(最高賞)のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督(1959)の「雪の轍(わだち)」を見た。同じ監督の前作「昔々、アナトリアで」(カンヌ映画祭グランプリ)も新宿シネマカリテでレイトショーされていて、これも見た。「雪の轍」は3時間16分、「昔々、アナトリアで」は2時間31分。両方一日で見ると、5時間47分となるが見てる間は長い感じはしない。
  
 カンヌ映画祭もグローバル化していて、タイアピチャッポン・ウィーラセータクン、あるいはチュニジア系フランス人アブデラティフ・ケシシュなど近年のパルムドール作品で難しい名前を覚えた。今度もヌリ・ビルゲ・ジェイランという名前をやっと覚えた。映画祭公開はあるが、正式公開は初。カンヌではすでにグランプリ2回、監督賞や主演男優賞を取っていた巨匠である。
(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン)
 まず「雪の轍」。予告編を見ると、カッパドキアの壮大な風景が印象的だ。大自然を背景に人間の争いを神話的、叙事詩的に描く物語かなと思う。例えば今村昌平の「神々の深き欲望」やテオ・アンゲロプロスの「旅芸人の記録」のような。しかし、案外「普通の映画」だった。練り込まれたシナリオ、多数のカット割りを積み重ねた編集の「文芸大作」である。

 チェーホフドストエフスキーにインスパイアされた物語だというが、ある男と歳の離れた妻、そして妹との相克という人間設定の方が先にあって、物語を支えるためのロケ先を探してカッパドキアを選んだという。確かに風景は壮大で、ロングショットで風景の中の人間を映すシーンもある。しかし、登場人物のクローズアップもあるし、争う二人を相互に映し出すカットも多い。特徴的な映像技法で見せるのではなく、ベルイマンの映画を見ている感じ。

 カッパドキアで「ホテル・オセロ」を経営する男アイドゥン(ロンドンでも活躍したというハルク・ビルゲネルの名演)は親から受け継いだ資産家。ある日、車に石がぶつけられ、その犯人は家賃が払えず家具やテレビを差し押さえられた家の子どもだった。だんだん判ってくるが、アイドゥンはイスタンブールで長年舞台俳優をしていたが、大成功を収めることはなく、父親の死後故郷に帰った。ホテルの他に多くの家作があり、経済的に恵まれ、今も地方紙にエッセイの連載を持つ「地方名士」である。
(「ホテル・オセロ」)
 アイドゥンは歳の離れた妻とうまくいかず、妻のニハル(メリサ・ソゼン)は改修費もない小学校を支援するボランティア活動に打ち込んでいる。妹のネジラ(デメット・アクバァ)は離婚して実家に戻ってきたところで、二人はアイドゥンを辛辣なまなざしで見ている。この設定はプログラムの沼野允義氏の文章を読んで、チェーホフの短編「」と「善人たち」が元になっていると判る。原作はロシアの地主で、それを現代トルコの資産家に移した。ロシア文学によく出てくる「余計者」的な造形だというのは、見ているとすぐに感じる。ほぼチェーホフの原作通りらしい。

 そのようなアイドゥンの世界が少年の投げる石によって揺さぶられた。少年の父は数年前に鉱山で事件を起こして服役し、その後は失業している。弟がモスクの導師で、弟が甥の少年を連れて謝りに来たりする。こちらのエピソードはドストエフスキー的だということが、先の沼野氏の解説で判る。「ホテル・オセロ」はカッパドキアの洞窟をホテルにしたもので、インターネットで見た外国人客が来ているが、冬になると客も減ってくる。その荒涼たる季節に、妹や妻と深刻な議論が始まり、アイドゥンの自我が揺さぶられていく。彼は家を出ることにし、ライフワークの「トルコ演劇史」を書きにイスタンブールへ行くと宣言して、大雪の降る日に出かけていくのだが…。

 この言い合いの場面の容赦なさが魅力で、その後の妻ニハルが少年のおじの導師に会いに行く場面のアッと驚く展開につながっている。そこらへんを誰しもが面白いと思うかどうか。ベルイマンの「野いちご」は、若い人も出てきて対照的に描かれるから、若い時に見て感動した。この映画の場合、「何事もなしえず、馬齢を重ねる」という感覚が僕には非常によく判って、時間の長さを感じなかった。しかし、ここまで妹や妻に言われたりするのもなあ。アイドゥンの方もずいぶん無神経で、支配的なところがある。そういう登場人物の人生が見えてくると面白い。時々挿入されるカッパドキアの風景や馬(カッパドキアとは「美しい馬」の意で、野生馬がいるという)も生きてくる。

 「雪の轍」で長くなってしまったが、「昔々、アナトリアで」(2011)もカンヌ映画祭グランプリ作品である。本来はもっと長く書くべき傑作だ。ただし、西欧文学的色彩が強く、登場人物も西欧近代人のような行動をする「雪の轍」と違い、トルコの警察の死体捜索作業を描く「昔々、アナトリアで」は「どうもわからん感」がつきまとうのも確かである。3台の車が夜のアナトリア高原をゆく。容疑者を乗せた警察の車で、検察、医師などを乗せている。どうも供述がいい加減で、あそこかと思えばもっと先。よく判らないまま車がどんどん行く。
(「昔々、アナトリアで」)
 もうここからよく判らないが、なんで夜に行くんだろう。「自白」したらすぐに行くのか? すぐ終わるかと思うと、時間がかかってしまって、ある村に電話して食事を用意させる。これも判らない。どう見ても職権乱用としか思えないけど。突然停電し、そこで接客に出てくる村長の娘がひなびた村に似合わないほどの美人で皆あ然とする。ようやく埋められた死体が見つかり、警察官が犯人を人間じゃないと乱暴し始める。検事が止めて「だからトルコはいつまでもEUに入れないんだ」とか言う。臨時の検案が始まり、検事が死体を「クラーク・ゲーブル似」とか表現して思わず皆が笑う。検事も実は似ている。そんな様子が延々と続くので、これは一体何なんだろうと思う。

 面白くないわけではないが、風景も人間関係も知らない世界だし、警察ミステリーみたいでどうなるんだろうと思う。最後の頃になって、検事と医師が車の中で雑談していた「人間は突然決まった日に死ぬことができるのか」という疑問が大きな意味もを持ってくる。緻密に作られた人間ドラマを、みっちり演出した本格的人間ドラマだったのだ。それは「雪の轍」と同じ。トルコの風景を背景にして、人間どうしの細々とした感情のやり取りを描いて行って、最後に人生が反転する世界を見せる。ヌリ・ビルゲ・ジェイランは、そんな本格的な映画作家のようである。イスラム世界の一角にありつつ、世俗国家であるトルコという社会を考えるためにも必須。だけど、個人的には「雪の轍」を見たらロシア文学を読みたくなった。(2021.5.8一部改稿)
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする