尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「不在」のドラマトゥルギー-六本木少女地獄をめぐって」⑤

2011年10月07日 23時53分04秒 | アート
 吉田秋生(あきみ)の傑作漫画(中原俊により2回映画化された)「櫻の園」の舞台となっている私立女子高(桜華学園)では、創立記念日に演劇部がチェーホフの「桜の園」を公演することが恒例になっている。「桜の園」には主要登場人物だけで12名いて、1990年の映画では3年生役だけでキャストを組んでいる。2年生が舞台監督や照明、音響などに当たるわけである。まあ毎年やるんだったら大道具や照明プランは大きく変える必要はないだろうけど、それにしても豪華な設定。各学年10名以上演劇部員がいるのである。30人以上も演劇部に所属している学校なんてそうはないだろう。演劇は極端に言えば一人芝居でもいいわけだけど、野球は9人はいないとチームにならない。福島県の原発事故周辺地域では避難などで部員が減った高校は合同して夏の大会に出場できた。

 演劇部で自作するときは当然「あて書き」するわけである。人数が少ない演劇部では「桜の園」はできない。既成の台本を改訂して人物を減らすことも考えられるが、それより部員数を考えて自分たちで書く方が早い。メンバーを見て、誰がどの役とあてはめて書いて行くのが普通だろう。(共作してもよい。)それは実際の演劇、映画でも同様で、主役は誰と想定して書いて行くことが多い。そうじゃないと「人物が動かない」だろう。

 ということで、3人しかいなかった演劇部のために書かれたのが「うわさのタカシ」。セリフのキレは抜群で、エチュードとして相当の完成度を見せている。「続編」(実は前日譚)的な「家庭教師のドライ」は登場人物が7名になっているので、「部員が増えた」と書かれている通り。「少女地獄」効果。しかし、ここで強い印象に残るのは徹底した「タカシの不在」ぶりである。いや、女子3人しかいない時は男子がやるべき「タカシ」はセリフの中にしか登場させられず、部員が増えた「ドライ」では実際のタカシが出てきているではないかと言うかもしれない。しかし、本質的に言えば「家庭教師のドライ」においても、タカシは不在であると思う。というかタカシはいるけど、タカシの中で「何か」が不在なのである。それは冒頭のセリフで示されている。このように「いるけど、いない」と言う人物は、「月の爆撃機」の両親もそうだし、「倉井さん」や「スズキくんの宇宙」の「金原」などは、設定そのものからして「いるけど、いない」とされている。作者は「タカシはいい奴」と書いてるけど、誰もそんなことを思う人はいないはずなのにそう書くのも、そのような本質的な部分にも根ざしていると思われる。(あと、「いるけど、いない」から作者がいじりやすいということもあるのだろう。)

 「六本木少女地獄」でも事情は同様で、というかもっと徹底されていて、「不在の父」をめぐる物語が展開されている。不在の父をあえて作り出そうとした「姉」は、父の物語をつくるというより、「神の創造」にも踏み込んでいると思う。「いるけど、いない」を超えて、「いないけど、いる(作ってしまう)」の段階に進んでいる。もちろん、その試みは成功しない。そもそも何故「父は不在なのか」。それは「出て行った」とされているが、本当だろうか?そのあたりの議論はおくとして、ここでは「六本木少女地獄」へと至る物語の基本構造が「不在」であることを確認したい。そのうえで、その「不在」の意味を考えてみたい。

 むろんニーチェ以後のすべての芸術は、本質において「神の死(不在)」以後の戯れとも言える。現代に書かれる戯曲はすべて「ゴドーを待ちながら」書かれているとも言える。でも、「不在」なのか「喪失」したのかの見極めは難しい。「少国民世代」(1930年代生まれ)である大江健三郎、井上ひさし、寺山修司、清水邦夫らは「信じたものに裏切られた」という体験から出発せざるを得なかった。だから物語の基調は「喪失」にある。清水邦夫の「狂人なおもて往生をとぐ」のサブタイトルが「昔、僕達は愛した」とされるように、「昔」があるのである。
 それは1949年生まれの村上春樹の世代になっても、少し様相は違うがやはり「喪失」感の強さが印象的である。一度は信じるものがあったからである。それは「革命」かもしれないし、「あの素晴らしい愛(をもう一度)」かもしれない。「高度成長」かもしれないし、あるいは、高度成長で完全に失われることになる「失われた故郷への追憶」かもしれない。このような感覚は僕にもよく理解できる。「昔あった」ことをまだ教えられているからである。

 冷戦終結(ソ連崩壊)バブル崩壊がすべてを変え、「テロ」によって社会の変容が完成した。もはや「いるけど、いない」「あるけど、ない」ものに囲まれた世界に中で僕たちは生きている。世界の中で生きるモデルが崩壊したあとでは、親や教師は指針を伝えていくことができない。「いるけど、いない」のと同じだ。医者は患者を診るのではなく、コンピュータを見てデータをあてはめていくだけで、それが現在の世界。政府も国会も裁判所も「あるけど、ない」わけで、「原子力安全・保安院」なんて、まさに「あるけど、ない(のと同じ)」だった。労働組合なんかも「あるけど、ない」ものの代表だろう。

 一見華やかなトーキョーという世界都市も、あるけど、ない。ないというのは、あるけど「実は死んでいる」と言う意味だ。六本木と言う町は「この街のぜーんぶ、なにもかも、みーんな、死んでるのよ」(243頁)このように戯曲のすべてを通して、基調となるのは「あるけど、死んでいる」世界の中で、「いるけど、いない」人々の「戯れ」をキレのいいセリフで語っていくことにあると思う。そして、「六本木少女地獄」の力技では、「いるけど、いない」の対象を神や人間の全歴史にまで広げて物語られている。だから僕は「六本木少女地獄」を、世代論が有効かどうかはまだ保留しておくが、「不在の世代」の自己表現の始まりとして、まずは捉えておきたい。その中身については、これからもう少し考えてみたい。

 さてところで、労働組合や社会運動は、本当は「あるけど、ない」のではなく、「あるけど隠されている」、「見えないようにされている」のだと僕は思う。「あるところにはある」のである。見る努力をしなければ見えないし、聞く努力をしなければ聞こえてこないものがこの世にはある。それを伝えるのは、やはり「言葉」への信頼しかないと思う。坂手洋二の「普天間」を見て、改めてそんなことを思った。
コメント
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