尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ベラ・チャスラフスカの勇気ある人生

2011年10月18日 21時56分31秒 | 社会(世の中の出来事)
 東京五輪で女子体操個人優勝のベラ・チャスラフスカはとても印象的な選手だった。そのことは「クーデルカ展」の記事に少し書いたことがある。僕が小さな時に見た東京オリンピックから得たものについては「TOKYOオリンピック物語」で触れている。そのチャスラフスカが来日したという記事が先週載っていた。

 「日本は母国のよう」=チャスラフスカさんが講演
 1964年東京、68年メキシコ五輪の体操女子で計7個の金メダルを獲得したチェコスロバキア(当時)のベラ・チャスラフスカさん(69)が8日、都内で講演した。東日本大震災で被災した仙台市を10日に訪問することなどが目的で来日。「日本のことは母国のことのように思っている。被災地で(東京五輪を)覚えている方もいるかと思い、金メダルを持ってきた」と笑顔でメダルを披露した。(時事)

 チャスラフスカに関しては、後藤正治ベラ・チャスラフスカ もっとも美しく」という名著があり、文春文庫に入っている。この感動的な本によって書くのだが、2004年の原著刊行当時、チャスラフスカは非常に厳しい、人生の辛い時期を送っていた。著者は取材対象の彼女に会えなかった。当時は重いうつ状態で精神病院に入っていて、他人と会えるような状態ではなかったと言われている。

 きっかけは家庭内の悲劇である。そしてその原因はという風に探っていくと、どうしても1968年8月のプラハの悲劇に行きつく。1964年、22歳で迎えた東京五輪でチャスラフスカは個人総合と跳馬、平均台で金メダルを得た。当時の女子体操界は旧ソ連の全盛時代で、五輪史上最多のメダル獲得者の栄誉を今でも持つラリサ・ラチニナが個人総合で連覇中だった。チャスラフスカはその三連覇を阻んだのである。優美な演技で日本人を魅了したチャスラフスカは、もちろんチェコでも英雄となった。

 そして彼女は1968年の「プラハの春」と呼ばれた自由化運動にコミットし、「二千語宣言」に署名した。ソ連式共産党独裁体制が東ヨーロッパ諸国を支配していた時代の話である。自由化を求めるチェコスロヴァキアでは「人間の顔をした社会主義」を目指してソ連からの自由を求めた。これに対しソ連を中心とするワルシャワ条約軍が8月に戦車で侵攻し、共産党幹部をモスクワに拉致して自由への動きをつぶしたのである。

 メキシコ五輪は9月に迫っていた。出場も危ぶまれたがなんとか出国を許された彼女は、ソ連選手に対抗心を燃やし個人総合で2連覇を達成したのである。そして陸上選手だった夫とメキシコで結婚した。しかし帰国後の彼女には過酷な人生が待っていた。宣言署名の撤回を迫る当局に対し、あくまでも屈しなかったチャスラフスカは体操のコーチを解任され、何の仕事も与えられなかった。多くの友人が去って行き、夫ともすきま風が吹くようになる。妥協せず生きるチャスラフスカに夫はついていけないものがあり、二人は別れるしかなかったのだ。

 やがてソ連で80年代半ばに「ペレストロイカ」が始まり、冷戦が終結し、チェコスロヴァキアは自由を得た。1989年11月、いわゆる「ビロード革命」である。その時、プラハ中心部のヴァツラフ広場で開かれた集会で、広場を見渡すバルコニーから彼女は人々に語りかけた。「もう何回も、人生の中で-私は堂々とした態度と勇気を示さねばなりませんでした-スポーツ選手として、また人間としても。今言わせてもらえるでしょう、私は卑怯者ではないのだと。」

 大統領となった反体制劇作家ハヴェルは、彼女にスポーツ大臣、駐日大使、プラハ市長の中から好きなポストを選んでほしいと言ったという。しかし、チャスラフスカは断る。「一介のスポーツ選手」として、長年許されなかった「スポーツクラブでコーチをすること」が望みだったからである。そして、その代わりに無給で医療・福祉担当の大統領顧問を引き受けた。大統領府(プラハ城)に押し寄せる悩める国民の声を、自ら調査し返答する献身の日々が始まった。それは、1992年にチェコオリンピック委員会会長に就任するまで続いた。

 しかし、チャスラフスカには思いもかけぬ個人的悲劇が襲い掛かったのである。1993年、街中の酒場で、次男が別れた父親と偶然同席し、行き掛りから争いとなり、倒れた父親は死んでしまった。息子が元夫の殺人で捕らえられ獄舎に囚われたのである。そして、あれほど強く気高かったチャスラフスカの心は、ここで閉ざされてしまった。先の本では誰にも会えぬ状態が続いていたとあるのだが、こうして来日できたのだから外国旅行が可能なほどに回復したのである。そして東京五輪にときに日本刀を贈ってくれた人に会いたいと思い探した。新聞に載りその人物はわかったのである。その刀を通して「共産主義体制下でも日本から力を得ていたのです。」

 ベラ・チャスラフスカは歴史に残る素晴らしい体操選手であるとともに、権力に屈せず自由を求めた「フリーダム・ファイター」としても歴史の中で記憶しておかなければいけない人である。ネルソン・マンデラやアウン・サン・スー・チーのように。そして、ここにさらに二つの素晴らしい記憶を付け加えることができる。一つは、人生に起こる悲劇や挫折の体験、重いうつ病からのサヴァイヴァーとして。人はどんなに強い人間にみえても、一人では受け止められない挫折のときがあるのだ。

 だがチャスラフスカは「回復」し、人々の中に戻ってきた。そのことは多くの人々に勇気を与えることだと思う。もう一つは、大震災のさなかに来日し被災者を激励し、日本人への愛情を示してくれた日本の本当の友人として。刀を贈ってくれた人は奇しくも福島出身の人だったという。仙台では常盤木学園というところで枝垂れ桜の植樹をした。彼女の植えた桜がいずれ日本で花咲く日が来ることだろう。
  
★ベラ・チャスラフスカさんは、2016年8月30日に74歳で亡くなった。余命宣告を受けていることは、一月ほど前に朝日新聞に掲載されていた。記事は一部長すぎる段落を変えた。写真は今回アップした。
★2011年当時、五輪の最多メダル獲得者はラリサ・ラチニナだったが、その後アメリカの競泳選手マイケル・フェルプスが抜いたことは周知のとおり。リオ五輪まで計28個。ラチニナは18個で第2位。
★9月2日、および5日に、東京のチェコ大使館で弔問と記帳が行われる。また5日夜には、映画の上映もあるという。詳しくは、チェコ大使館の「チャースラフスカー氏ご逝去に伴う弔問記帳等について」を参照。(2016.9.2)
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映画「アンダーグラウンド」(エミール・クストリッツァ監督)再見

2011年10月18日 00時07分18秒 |  〃  (旧作外国映画)
 エミール・クストリッツァ監督の「アンダーグラウンド」がリバイバル上映された。渋谷・シアターN渋谷(旧ユーロスペースだったところ。)1995年度カンヌ映画祭パルム・ドール(最高賞)で、クストリッツァはパルム・ドールを2回受賞した3人(4人)の一人である。(他は今村昌平とベルギーのダルデンヌ兄弟。最高賞がパルム・ドールでなかった時代のグランプリを含めるとコッポラも2回受賞。)日本では96年に公開されてキネマ旬報ベストテン3位となった。96年の僕の個人的ベストワン作品。デジタル・リマスター版での15年ぶりの公開である。つい先ごろ見た感じだが、15年も経ったのか。

 この映画はボスニア戦争さなかのヨーロッパでは、「セルビア寄り」とも言われて政治的論争に巻き込まれたが、日本で見るとそういう感じはしない。監督はボスニアの首都サラエボ生まれで、セルビア人とモスレム人(イスラム教徒が独自の民族として扱われる)の間に生まれたので、自身のアイデンティティは「ユーゴスラビア人」と称している。この「今はなき国家」にこだわっている点が政治的、あるいはユーゴスラビアの継承国家であるセルビア寄りに見る人もいるわけだ。
(クストリッツァ監督)
 日本で見ると「戦後の虚妄を撃つ」というような切々とした思想史的課題を感じる。例えば吉田喜重「秋津温泉」のような、「戦後」の不毛を痛切に描く一大恋愛叙事詩を思わせるのである。もっとも「秋津温泉」のパセティックでロマンティックな趣は「アンダーグラウンド」にはない。クストリッツァはふてぶてしいほどに騒々しく、喜劇的で、見世物的なスペクタクルを展開する。この作品以後の「黒猫・白猫」「ライフ・イズ・ミラクル」などに通じる。あるいは今村昌平を思わせる「重喜劇」というか、ハチャメチャの民衆讃歌ショーである。

 SFに「パラレル・ワールド」ものというのがある。現実の歴史と違う設定で展開される小説のことで、例えば「ナチスが勝って今でも支配していたら」とか。この作品では、地上の現実と「地下のパラレル・ワールド」という驚くべき二重性で展開する。共産党員ではあるが、むしろ女のためにナチス高官を攻撃した男が、逃げて地下室に潜ったままという成り行き的な設定だが。一方、その友人はナチス敗戦と解放を地下に知らせず、女を横取りして共産党幹部となり出世する。

 そのナチス高官攻撃は今や偉大なレジスタンスとして称賛され、地下にもぐった男は死んだことにされ、映画化までされる。そこに地上に出てきた男たちは…。愛と裏切りの戦後史が壮大なショーとして繰り広げられる。音楽が例によって凄い。改めて見ても素晴らしい。監督は自分でロックバンドをやっているが、第3作「ジプシーのとき」以来、「ジプシー」(ロマ民族)風の音楽がよく使われている。

 「ユーゴスラビア」は、第一次世界大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として人工的に設立された。後に「ユーゴ」(南)「スラビア」(スラブ系民族の国)という名前になった。戦後、共産党による社会主義国家になったが、他の東欧諸国と違い、ソ連軍ではなくティトー率いるパルチザンが国土を解放した。従ってソ連に従うことなく、ソ連圏を抜けて「非同盟諸国」の代表として活動した。

 クストリッツァの最初のカンヌ最高賞「パパは出張中!」は父がソ連派党員で逮捕された家庭を描いている。非同盟と言っても自由はなく、ティトーの家父長制的な支配で持っていた人工国家だったのである。それでもティトーの時代には世界に独自な位置を占めていた。1980年の葬儀のニュースが挿入されるが、米カーター、ソ連ブレジネフ、中国華国鋒(なんとね)などの首脳が出てくる。みんな最高首脳がユーゴに集まったのである。それだけの指導者と思われていた。国内では「自主管理社会主義」を唱え、資本主義でもソ連式社会主義でもない、新しい第三の経済で未来を拓く思想であると、その頃は本気でそう思っていた人も多かった。

 しかし、ティトーの死後10年ほどで国内は完全にバラバラになってしまった。ソ連という「外敵」がなくなると一緒にいる意味もなくなり、民族紛争が多発し、悲惨なボスニア戦争が始まった。なんでこうなるの?僕は全く信じられない思いでニュースを見ていた。今では、セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、コソボ(セルビアはコソボを未承認だが)と7つの国家に空中分解した。

 そのことはあまりにも凄まじい悲劇を伴い、クストリッツァとしてはあまりにも悲しくて「笑っちゃうしかない」くらい悲しい出来事だったと思う。その気持ちが痛切に伝わってくるし、自分の教えられてきた戦後史はニセモノだったという痛烈な自己批判と自己風刺が鮮烈である。今見ても素晴らしいけど、その思想的意味合いはなかなか理解しづらくなっているかもしれない。(2020.4.28改稿)
コメント (2)
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