朝倉摂(1922~2014)は彫刻家朝倉文夫の長女として生まれた。晩年に多くの舞台美術を担当し、唐十郎や蜷川幸雄の芝居をたくさん担当していた。僕は舞台美術家という印象が強かったが、生誕100年の回顧展が開かれて、初めて全貌が見えた感じがする。巡回最後の練馬区立美術館も8月14日(日)まで。猛暑に悩んでいるうちに終わりが近くなってしまった。今日は渋谷に見に行ったジョン・フォード監督の昔の映画が満員だったので、練馬まで回った。渋谷から練馬、遠そうで副都心線快速であっという間。
父は彫刻家で、妹響子も彫刻家の道へ進んだのに、長女の摂は日本画に進んだのが面白い。17歳で伊東深水に師事したのである。ただ時は戦時下で、描いていたのは戦時下のリアリズム的な日本画だった。油彩じゃなく、紙に顔料で描いたから「日本画」になるんだろうけど、キレイな風景や美女、歴史的人物などをテーマにする日本画ではない。「歓び」と題された1943年の作品も、若き女性3人を描きながらもモンペ姿が戦時下である。解説に「農作業に勤しむ銃後の女性像をモダンな感覚で描き出した」とある。
(「歓び」1943)
戦後になると、創造美術を経て新制作協会日本画部に所属し、「キュビスム的な作風」を取り入れる。さらに社会的なテーマに関心を広げ、労働者の姿を描くようになる。手法はやはり「日本画」だが、テーマも技法も「前衛」。見ている分には普通の洋画と余り違わない。それが下の「働く人」で1953年に上村松園賞を受けたという。「日本1958」になると、直接に日本の危機に立ち向かうテーマとなり、60年安保に至る時代相を強く感じさせる。
(「働く人」1952)(「日本1958」1958)
それが60年代以降は日本画から遠ざかっていくのは何故か。「安保闘争の挫折感」などと書かれているが、僕にはよく判らない。日本画への違和感が強くなったのかもしれない。生前は本人の意思で画家時代の作品は公開を封印されていた。多くの人は今回が初めて生涯を一望する機会だったはずである。その美術史的位置づけは僕には出来ないけれど、とても興味深い作品ばかりだ。
(朝倉摂)
ところで展覧会の最初にポスターが何枚か出ている。唐十郎や別役実の演劇、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』などで、以前に見ているものが多い。60年代末からの前衛的な演劇、映画のポスターは、何と言っても横尾忠則や粟津潔のものが多かった。だけど、あまり意識しなかったのだが、朝倉摂の描いたポスターもあったのである。そして60年代以後、数多くの舞台を設計する。今見ると、その壮大さに恐れ入る感じで、戦後日本の絶頂期だったんだなあという気がする。
(「ハムレット」1978)(「にごり絵」1984)
いずれも蜷川幸雄が手掛けた「ハムレット」「にごり絵」の舞台写真を載せておくけど、こういう舞台装置が商業演劇の世界で出来たのである。さらに唐十郎の「下谷万年町物語」も素晴らしい。僕もいくつか見ているが、確かオニールの「楡の木陰の欲望」だったと思うのだが、舞台装置の素晴らしさに驚いた。あまり美術担当を気にして演劇を見たことがなかったけれど、朝倉摂の名でもっと見ておけば良かったと反省したものだ。
もう一つ、日本画や舞台美術で食べていけるのかと思うと、そこはちゃんと挿絵や絵本もやっている。新聞小説の挿画では松本清張の『砂の器』の連載を手掛けて評判になったという。また『ごんぎつね』『赤いろうそくと人魚』『たつのこたろう』などの絵本も素晴らしい。作者を意識せずに読んだ絵本もあったかもしれない。原画と印刷された本を比べると、絵本になったときに見映えがするので感心した。1972年には大佛次郎作『スイッチョねこ』で講談社出版文化賞絵本賞を受けた。(なお、父の家だった朝倉彫塑館を見た人は知ってると思うけど、朝倉一家は大の猫好きだった。)
見逃さなくて良かったと思った展覧会だが、知らないことは多いものだ。晩年まで活躍していたので、前半生に日本画家としての活動があるとは知らなかった。それも「前衛的日本画家」で、戦後の労働者や社会問題もテーマにしたのである。しかし、それ以上にやはり60年代以後の日本演劇界を舞台美術で支えた業績が大きいと思う。それは展示された多くの写真などで判る。
父は彫刻家で、妹響子も彫刻家の道へ進んだのに、長女の摂は日本画に進んだのが面白い。17歳で伊東深水に師事したのである。ただ時は戦時下で、描いていたのは戦時下のリアリズム的な日本画だった。油彩じゃなく、紙に顔料で描いたから「日本画」になるんだろうけど、キレイな風景や美女、歴史的人物などをテーマにする日本画ではない。「歓び」と題された1943年の作品も、若き女性3人を描きながらもモンペ姿が戦時下である。解説に「農作業に勤しむ銃後の女性像をモダンな感覚で描き出した」とある。
(「歓び」1943)
戦後になると、創造美術を経て新制作協会日本画部に所属し、「キュビスム的な作風」を取り入れる。さらに社会的なテーマに関心を広げ、労働者の姿を描くようになる。手法はやはり「日本画」だが、テーマも技法も「前衛」。見ている分には普通の洋画と余り違わない。それが下の「働く人」で1953年に上村松園賞を受けたという。「日本1958」になると、直接に日本の危機に立ち向かうテーマとなり、60年安保に至る時代相を強く感じさせる。
(「働く人」1952)(「日本1958」1958)
それが60年代以降は日本画から遠ざかっていくのは何故か。「安保闘争の挫折感」などと書かれているが、僕にはよく判らない。日本画への違和感が強くなったのかもしれない。生前は本人の意思で画家時代の作品は公開を封印されていた。多くの人は今回が初めて生涯を一望する機会だったはずである。その美術史的位置づけは僕には出来ないけれど、とても興味深い作品ばかりだ。
(朝倉摂)
ところで展覧会の最初にポスターが何枚か出ている。唐十郎や別役実の演劇、松本俊夫の映画『薔薇の葬列』などで、以前に見ているものが多い。60年代末からの前衛的な演劇、映画のポスターは、何と言っても横尾忠則や粟津潔のものが多かった。だけど、あまり意識しなかったのだが、朝倉摂の描いたポスターもあったのである。そして60年代以後、数多くの舞台を設計する。今見ると、その壮大さに恐れ入る感じで、戦後日本の絶頂期だったんだなあという気がする。
(「ハムレット」1978)(「にごり絵」1984)
いずれも蜷川幸雄が手掛けた「ハムレット」「にごり絵」の舞台写真を載せておくけど、こういう舞台装置が商業演劇の世界で出来たのである。さらに唐十郎の「下谷万年町物語」も素晴らしい。僕もいくつか見ているが、確かオニールの「楡の木陰の欲望」だったと思うのだが、舞台装置の素晴らしさに驚いた。あまり美術担当を気にして演劇を見たことがなかったけれど、朝倉摂の名でもっと見ておけば良かったと反省したものだ。
もう一つ、日本画や舞台美術で食べていけるのかと思うと、そこはちゃんと挿絵や絵本もやっている。新聞小説の挿画では松本清張の『砂の器』の連載を手掛けて評判になったという。また『ごんぎつね』『赤いろうそくと人魚』『たつのこたろう』などの絵本も素晴らしい。作者を意識せずに読んだ絵本もあったかもしれない。原画と印刷された本を比べると、絵本になったときに見映えがするので感心した。1972年には大佛次郎作『スイッチョねこ』で講談社出版文化賞絵本賞を受けた。(なお、父の家だった朝倉彫塑館を見た人は知ってると思うけど、朝倉一家は大の猫好きだった。)
見逃さなくて良かったと思った展覧会だが、知らないことは多いものだ。晩年まで活躍していたので、前半生に日本画家としての活動があるとは知らなかった。それも「前衛的日本画家」で、戦後の労働者や社会問題もテーマにしたのである。しかし、それ以上にやはり60年代以後の日本演劇界を舞台美術で支えた業績が大きいと思う。それは展示された多くの写真などで判る。
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