尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大傑作、永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』

2023年07月02日 20時59分16秒 | 本 (日本文学)
 永井紗耶子木挽町のあだ討ち』(2023.1、新潮社)は、読んでいるときに「ああ、いま名作を読んでいるなあ」としみじみ実感しながら読んだ小説だった。大傑作である。すでに山本周五郎賞を受賞しているが、さらに169回直木三十五賞候補作になっていて、受賞が期待されている。大衆小説に与えられる新人賞は、作家に与えられる性格が強く、同一作品の両賞同時受賞は、今までに2回しかない。(熊谷達也『邂逅の森』と佐藤究『テスカポトリカ』。)果たして3回目はなるか。

 江戸時代後期、19世紀初頭と思われる頃(1783年の浅間山大噴火より、およそ30年後ぐらい)、江戸では「化政文化」が栄え、歌舞伎が庶民の人気を得ていた。その芝居小屋がある木挽町(こびきちょう)で、ある年の睦月(1月)晦日(みそか)夕べ、とある若武者が大柄な博徒に対して「父の仇」と名乗りを上げ、斬りかかった。道行く人々が見守る中、真剣勝負が行われ、ついに若武者菊之助が一太刀浴びせて、仇・作兵衛の首級(しるし)を上げたのである。この一件は巷間で「木挽町の仇討」と呼ばれた。(昔の町名は今の東京人でも忘れている人が多いが、木挽町はまさに今の歌舞伎座がある辺りである。)

 江戸でも評判になった、この仇討より2年。若武者菊之助は国元に帰り、そのゆかりのものと称する若者が芝居小屋を訪ねて、仇討の思い出を訪ね回る。その時に、語り手の今までの来し方も聞いてゆく。その聞き語りがこの小説なのだが、帯には「このあだ討ちの『真実』を、見破れますか?」とあるから、何か仕掛けがあるらしいのである。しかし、語り手それぞれの人生行路がすさまじいために、ひたすら物語の流れに身を委ねることになる。芝居を裏方で支える人々の声を聞いていくうちに、身分制度の下で呻吟する人々の真実を見る。しかし、4人目あたりから、この仇討ちには何か特別な事情があるらしいと気付いてくる。

 訪ね歩いたのは、小屋の前で芝居を宣伝する「木戸芸者」、役者に剣術を指南する立師、衣装の縫い物をしながら舞台にも端役で出ている女形、ひどく無口な小道具作りと逆に話し好きの妻…などなどである。彼らは蔑まれるような生まれ育ちだったり、武士に生まれながらも故あって「身分」を捨てて生きてきた人々だった。今は芝居小屋で仕事をしているが、皆の人気を集める主演の役者ではない。だが、彼らがいなくては人気芝居も成り立たない。例えば、あっという間に舞台が変わる「回り舞台」は客の目を引くが、それは実は小屋の一番下(奈落)で人力で舞台を回しているのである。

 この芝居小屋の「からくり」は、もちろん世の中そのものの「からくり」を示すものでもあるが、この小説においては実は「ある壮大なからくり」に結びついていた。終わり近くになって、そのことに気付くのである。ただ驚きながら読んでいた彼らの人生そのものが、実はこの「あだ討ち」の伏線だったのである。なんという上手な「からくり」だろう。それもただの「トリックのためのトリック」ではなく、この世の「からくり」を暴き、「義」のある世を目指して生きることに真っ直ぐ結びついている。「主題」と「方法」と「世界観」が、これ以上ないほど見事に結び合った小説ではないか。
(永井紗耶子)
 驚きと感動で読み終わったが、テーマが空回りせず、手法もなるほどと納得する。これほど上手い小説に巡り会うことはそんなにないと思う。最後の方になって、この聞いて回っていた人物が判明するとき、僕はこの小説の「からくり」に驚嘆してしまった。ラスト近くで主人公が「一人で江戸に出て分かったことの一つは、時には誰かを信じて頼るという勇気も要るということだ。何もかも背負う覚悟は勇ましいが、それでは何一つ為せないのだと気付かされた。」と語る。「自己責任」の風潮の中で、信じ合って義を求めた勇気の書である。「真の仇討ち」とは何か、深く考えさせられた。

 著者の永井紗耶子氏(1977~)は、2010年に『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞してデビュー。2020年の『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』が新田次郎賞などを受賞、2022年の『女人入眼』が直木賞候補になるなど、ここ数年でグッと知名度を高めてきた作家である。僕は初めて読んだので、他の作品や作風はよく知らない。時代小説を中心に書いているようだが、横浜育ちで三渓園で知られる原三渓を描いた『横濱王』という作品もある。

 当然著作権の「二次利用」が強く期待される。ネット上には著者と神田伯山の対談も載っていて、講談にするのも良いと思うが、やはり舞台化、映像化が望まれる。本格的にやるには大きなセットがいるので、それこそ松竹映画がやるべきだろう。昔のままの芝居小屋が日本各地にいくつか残っているので、是非ロケで。また歌舞伎でも見てみたいものだ。登場人物をやるのは誰それで、などとつい思いながら読んでしまった。

 ところで、歌舞伎や仇討ちなどと言われると、何か古い義理人情ものに思われてしまうかもしれない。その結果、若い読者を逃すとすると、非常にもったいない。この小説は基本的には若者の成長小説なのである。是非とも若い読者に勧めたい名作である。
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