尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『マレー蘭印紀行』ー金子光晴を読む②

2023年07月27日 23時08分47秒 | 本 (日本文学)
 金子光晴を読む2回目は『マレー蘭印紀行』(中公文庫)。1回目で書いたように、金子光晴は1928年から32年に掛けて、上海からシンガポール、パリ、ブリュッセルに至る5年に及ぶ大旅行を行った。そのことは前回書いた自伝的旅行記三部作で広く知られるようになった。つまり、同時代的にはほとんど知られなかったのである。その中で『マレー蘭印紀行』だけが1940年に出版されている。戦前に公刊されたために「時局」に配慮した表現も見られるが、素晴らしい文章で綴られた忘れがたい紀行だ。

 最初に題名について解説しておきたい。「マレー」はもちろんマレー半島のことだが、当時はイギリス領マラヤだった。1957年に独立し、1963年にイギリス領のボルネオ島北部などと連合してマレーシアとなった。「蘭印」は「和蘭陀(オランダ)領東印度」の略で、現在のインドネシアである。金子光晴はマレー半島南部のジョホール州、首都のクアラルンプール(文中ではコーランプルと表記)などを訪れた。その後、「蘭印」に渡って、ジャワ島やスマトラ島も訪れたが、この本ではマレーが中心になっている。「蘭印」に関しては、別にまた本を書きたいと書いているが、結局書かれずに終わった。

 もともとは上海からパリへ渡る途中下船である。お金がないから最終目的地まで買えない。金子はあちこちの日本人を訪ねて、絵を描いて買って貰おうと考えた。しかし、帰途にもまたマレーを訪れているから、熱帯の風土が気に入ったのである。お金もないから、貧困の現地人の中に混じって交流した。そこで「植民地」の実態をつぶさに見た。また、当時はマレーに日本人も多くいたのである。ひとつは当時マレー半島に進出してた日本企業(ゴム農園や鉱山)関係者であり、もう一つは海外に渡った「からゆきさん」、つまり高齢になった元日本人娼婦である。

 「からゆきさん」については、70年代に山崎朋子サンダカン八番娼館』や森崎和江からゆきさん』が出て、大きな注目を集めた。しかし、戦前に書かれた書物の中で触れられているのは珍しいのではないか。また、帰途は1932年になって、1931年9月に起こった「満州事変」の後だった。パリもそうだったが、マレー半島でも各地の華僑に対してシンガポールから「抗日運動」が広がっている様が報告されている。これも貴重な歴史的文献だと思う。

 しかし、この本はそういう社会的関心で書かれた本ではない。熱帯の持つ魅力を独自の詩的な文体で描写した「散文詩」的な構成にある。だから、少し読みにくくもあるが、例えば冒頭近くのこんな文章。(「センブロン河」)
 「そして、川は放縦な森のまんなかを貫いて緩慢に流れている。水は、まだ原始の奥からこぼれ出しているのである。それは、濁っている。しかし、それは機械油でもない。ベンジンでもない。洗料でもない。鑛毒でもない。
  それは森の尿(いばり)である。
  水は、欺いてもいない。挽歌を唄ってもいない。それは、ふかい森のおごそかなゆるぎなき秩序でながれうごいているのだ。」
 
 どこを引用しても同じなんだけど、詩的といっても美文の連なりではなく、上記のような独特の比喩で描かれた熱帯地方の自然と生活である。金子光晴は特に南部ジョホール州のバトパハに長くいた。同地には石原産業系のゴム農園があって、日本人会館もあったからである。そこでは無料で寝られるベッドがあったらしい。この日本人会館は最近でも残っていて、金子光晴を追って訪ねた記録がネット上で複数存在する。以下のように特徴的な建物だが、全部じゃなくて3階の1室だったという。
(バトパハの旧日本人会館)
 合成ゴムがない時代で、戦略物資の天然ゴムは重要性が高かった。イギリス植民地当局は日本の資本進出を容認し、各地に日本人経営のゴム園があった。当初は信用がなく、中国人労働者は日払いでないと働かなかったという。そこで毎日シンガポールから現金を運んできたという。そのうち信用されるようになり、月払いになったと出ている。だが世界大恐慌で不況のなか、植民地当局の対応も厳しくなりつつあった。日本資本はやがて敗戦で壊滅してしまい、こうした(当時の言葉で言えば)「南洋進出」の歴史も忘れられてしまった。貴重な本だと思う。

 本にならなかった初期紀行文を集めた『マレーの感傷』(中公文庫)も出ている。これは題名に反して、ヨーロッパに関する紀行が大部分を占めている。この本を読むと、戦前に書かれた文章と戦後に書かれた文章の大きな落差が判る。本当は日本政府のあり方を批判的に見ていた金子だが、さすがに戦前には押えた表現にするしかなかった。金子が書いた絵もたくさん収録されている。下手を自称しているが、どうして味のある面白い絵が多い。また、ジャワに関して「珊瑚島」という夢幻のように美しい島を夫婦で訪れた文があり、皆一度読んだら忘れられなくなると思う。本当にあるのか、フィクションじゃないのかと思うぐらいだが、松本亮氏は訪ねたことがあると書いていた。
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