尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

2年目の「3・11」-「風化」を考える中で

2013年03月11日 23時08分52秒 |  〃 (震災)
 昨年は「1年前の新聞を見る」「3・10と3・11(東京大空襲と東日本大震災)」を書いてるけど、2年目の「3・11」に思うこと。

 今年は、マスコミでは「風化を防がなくては」と言う声をかなり聞いたように思う。これをどう思うか。2年たてば、それぞれの人が、被災したり避難したりしている人も含めて、日常生活が継続されていく中で、「3・11」の記憶が薄らいでくることが避けがたい。僕はそのこと自体は、避けることができないし、やむを得ないことだと思っている。確かに震災直後は、日本中に連帯感、一体感があり、被災地のために自分も何かしたい、できることはないかと強く感情が動いたわけである。また、原発事故の危機感、恐怖感、衝撃の大きさは測り知れないものがあり、「日本というシステム」を作り直さなければならないという強い思いが共有されていた。

 しかし、あの当時を思い起こせば、誰もが(東日本では)地震そのものの揺れ、津波の映像、放射能拡散などの恐怖感、危機感に満ちていた。戦争や災害、個人の病気なんかの恐怖の記憶をいつまでも覚えていては日常生活が送れない。あまりに大きな恐怖のため、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する場合もあるが、多くの人は「忘れる」という心の機能のおかげで生きていける。そういう恐怖感、危機感と、災害後の皆が苦しむ中での一体感、連帯感というのは表裏一体のものではないかと思う。「恐怖感だけ消えていって、一体感だけは残り続ける」という風にうまくは行かないんだろうと思う。それを「風化」という言い方をすれば「風化」だが、その分日常生活が戻ってきたということだ。多分、「子どもを亡くした親」の場合は、今もこれからも「時間が停まった」中を生きている人が多くいると思う。しかし、家が流されたが、家族は無事だったという人は、仮設住宅の日常に適応していく時間の方が、毎日の暮らしの中で多くなって行く。これは自然なことだ。

 東京でも、相当に大きく揺れた。人生で経験した最大の揺れである。その後も余震がかなり長く続いた。津波や原発の問題もあるが、地震の揺れそのものの恐怖もかなり続いたと思う。今も完全になくなったとは言えないが、これは日々の積み重ねの中でほとんど消えている。原発事故そのものによる放射能恐怖も、日常の中では薄らいでいる。東京で生きている限り、確かにあまり震災を考えないで生きていると言える。それを「風化」と言えば言えるかもしれない。復興や除染そのものに、僕たちが直接できることは少ない。そういう段階になっているということも大きい。

 僕はこういう過程は、戦争体験でも、あるいは阪神大震災なんかでも同じようなプロセスをたどってきたと思う。戦争の場合は、あまりにも被災が大きかったのと、復員がバラバラだったために1年、2年という区切りでは「風化」はしなかっただろう。でも、ある段階から「日常生活の中で忘れていく」という過程に入る。大事故、大災害なんかだと1年目までは皆が忘れずにいて、その後なだらかに災害の記憶が後景に退いて行く。10年目までが一つの区切りで、それまでは「風化を防がないと」という声が出る時期である。「10周年」が一区切りになって、後は「周年行事」化していってしまう。大体そういうプロセスになってきた。

 ところで、東日本大震災の直前までマスコミで取り上げられていたのは、ニュージーランド南島地震だったことを覚えているだろうか。クライストチャーチのビルが倒壊して、英語留学していた富山県の学校の関係者が多数犠牲になった。多分富山の新聞やテレビは今年も大きく取り上げたのではないかと思うが、ほとんど全国ニュースにはなっていない。また今年はイラク戦争開戦10周年だが、イラク戦争と日本の関わりを再検討しようという声もほとんど大きくならない。アメリカ軍も撤退し、ブッシュ政権も終わっている今、自衛隊派遣の是非、なんて言う問題も意味が少なくなったと思われているんだろう。僕は小泉政権の当時の対応を厳しく問い直す必要があると思うし、民主党政権で一部行われたが本格的なものとはならなかった。こうしてみると、「風化させていいのか」という声が上がる問題以前に、もう完全に「今の問題」とは思われなくなったケースがあることになる。「風化させていいのか」という声が大きく聞こえるケースは、特に大規模な被災をした場合なのである。

 ところで、東日本大震災では、それだけでいいのかという問題がある。思いつくままに列挙してみる。
①まず、「原発」問題は「現在進行形の問題」であり、事故があった原発の中で何が起こったのかもまだはっきりしていない。基本的には、放射性廃棄物の処理問題が解決できず、政策コスト(補助金等)を含めれば圧倒的にコストが高い原子力発電所が永続するはずがない。今後新規立地できるところがあるとは思えないし、仮に強行的に新設するとしてもそうたくさんできるはずがない。70年代、80年代に作られた原発が多く、もう原発時代の終わりが近いのははっきりしている。しかし、「原子力ムラ」と呼ばれるような産官学の複合体は、自民党の政権復帰とともに解体されずに生き延びかねない。その問題。一進一退を一喜一憂しないで見て行きたい。

三陸の復興は、「過疎」の問題を直視する必要がある。多くの地区で、産業の基盤が完全に破壊され、1メートル近くも地盤沈下した。これをすべて土地の改良をして、また大きな堤防を築き直し、一方で住宅地の高台移転を実現するというのが、本当に実現可能なのか。もともと過疎の問題を抱えていた地域で、今も住民の都市部への移住が多くなっている。公共事業を担当する建設業者も減ってしまったし、全国的に公務員が少なく都市計画などの実務担当者が確保しづらい。結局、政府、県当局の意向が、地元住民とともに考えることなく推進されてしまいそうな感じがする。その結果、形の復興が出来ても人々がもういないということにならないか。これは他地方の過疎地区の問題とも共通する問題だが。

③僕が前から指摘しているが、藤沼ダムの問題。東日本大震災では住宅の倒壊ではなく、津波や原発事故の問題が大きかった。しかし、それ以外の被害もあったのであり、特に福島県須賀川市の藤沼ダム決壊の重大性を忘れてはならない。ダムの崩壊というありえない事故が起こって、8人の犠牲者が出たのである。阪神大震災の高速道路倒壊のような大問題であるにもかかわらず、他の大災害に隠れてほとんど知られてもいない。これは農業用ため池だったものだが、中央道の笹子トンネル天井事故などを見ても、いつどこで大事故が起きないとも限らない。西日本の方がため池が多いので、安全性の確認がどれほど行われているか、厳しいチェックが必要だと思う。さらに大きなダムが崩壊すれば、津波や原発事故以上の大惨事が起きる可能性さえある。(藤沼ダムの問題については、週刊金曜日3・8日号にまさのあつこ「決壊した『藤沼ダム』の教訓をどう生かすか」が掲載されている。)

④その他、文科系・理科系を融合した地震災害研究の必要性、地震・津波以外の火山の大噴火、集中豪雨などの研究、新しい防災教育の必要性など、考えるべき問題は多い。「沈黙の町で」を読んだときに感じたことなのだが、大震災直後に「絆」という言葉があふれたけれど、日本人に必要なのはまだまだ「絆」よりも「自立」なのではないか。組織によりかかり組織を超える発想ができない人ばかりを育てる教育を改めて、「真の自立」を育てないと、次の大震災に生きないばかりか、いじめや体罰などの問題も解決できないと思う。
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