尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

石原慎太郎『わが人生の時の時』ーホモソーシャルな世界

2023年01月11日 22時39分57秒 | 本 (日本文学)
 石原慎太郎わが人生の時の時』(新潮文庫)を読んでみた。最近はいつ中断しても大丈夫なように、新書や短編集を読んでいる。この本は40編の短編というか、むしろ掌編というべき文章を集めている。1990年に刊行され、その後文庫版が品切れになっていたが、2022年7月に「追悼新装版」として復刊された。題名は普通には意味不明だが、まあ「わが人生の決定的瞬間」とでもいう意味だろうと思って読むと、なるほど確かに決定的な時の中でも特に重大な瞬間を切り取った文章が集められている。

 成り立ちが面白い。80年代半ばにヨーロッパで反核運動が盛り上がった時時に、日本から取材で西ベルリンに派遣された。そこで同様に反核運動を取材に来ていた旧知の大江健三郎に出会った。かつて50年代には同志だった関係も、その時は核問題には正反対のスタンスである。しかし、「スクーバダイビング」の話になって、オキノエラブウナギという猛毒の海蛇のことを話したら、大江氏が面白がって暇な折に書き残して「新潮」の坂本編集長のような親しい編集者にあずけておいたらと言ったという。それが作中の「まだらの紐」に描かれていていて、確かにシャーロック・ホームズシリーズの「まだらの紐」を思わせる姿だ。
(エラブウナギ)
 この本はかつて福田和也(文芸評論家)が『作家の値うち』で最高点の96点を付けたという。また豊崎由美、栗原裕一郎『石原慎太郎を読んでみた』(中公文庫)の中で、小川榮太郎(安倍晋三本で論壇デビューした文芸評論家)が絶賛していると書かれている。このような保守論客に絶賛される作品とはどのようなものなのか。確かにこの中の半分ぐらいの作品はなかなか良いと思う。特に「落雷」の中で海上に雷が落ちる様子はすさまじい迫力。半分ほどの作品はヨットダイビングの世界で、そこには「大自然の神秘」や「生命の危機」があって粛然として読むことになる。

 特に小笠原諸島南島がいかに素晴らしいかは印象的。自分で調べてみたが、ここは個人では行けない。父島から出発する団体ツァーに参加するしかない。だけど、その気になれば行けるところである。そのように自然、特に海の神秘については、なかなか読ませる。文章もキビキビしているのだが、しかし、やがてどことない違和感も感じてしまった。「ヨット」というスポーツは誰でもやったことがあるというものではない。そこでヨットのレースに参加して、こんな凄い体験をしたんだという「俺様」意識が何となく匂って来るのである。それは「石原慎太郎」という名前に先入観があるためだろうか。
(南島)
 そして気付くんだけど、ここには「ヨットでともに苦労する男たち」しか出て来ない。まあ多少は他の人も出て来るし、弟や子どもも出て来る。しかし、本質的な意味で重要な意味を持って出て来る女性は一人もいない。ここで出て来るのは「女のいない男たち」ではない。石原慎太郎は『太陽の季節』で芥川賞を受賞する直前に結婚している。だけど妻子を置いて、ヨットレースに出掛けているわけである。そして男だけの「ホモソーシャル」(「男の絆」の同質的世界)に生きている。そこで凄い体験をするわけだが、どうしてもそれを語る時の「ナラティブ」(語り)には「俺様」感がにじみ出てくるのである。

 そう思って読み進めていくと、やっぱりなと思う文が出て来る。「人生の時を味わいすぎた男」という作品で、何しろ「私はホモといわれる男たちにはアレルギー的反応を示すたち」と始まるのだから凄い。「興味がないだけでなく、どうにも好きになれない」んだそうだ。江戸川乱歩にゲイバーに連れて行かれて往生した話が延々と続く。どこかで聞きかじった「同性愛が2割、完全な異性愛が2割」などという説を信じて、自分はその完全な2割だというのである。残りの6割がバイセクシャルということになり、ゲイバーなどに出入りしていると「ホモ」に近づくとでも思っているのか。同性愛でも異性愛でもいいけど、「アレルギー的反応」を起こすのは差別意識があるからだと今なら誰でも思うだろう。

 その直前にある「骨折」も凄い。ヨットで骨折した話が主眼なのだが、その前に高校時代の思い出を語る。あるとき、「気の合った仲間で作っていたサッカーチーム」で試合をやった。その後に「私がいい出して」、ラグビーボールも持ってきていたので「いい加減なルールでラグビーの試合をやった」。寒い日で、いくら走っても体が暖まらない。「いい出しべえの癖に私はひそかに自戒して」、「スクラムとかモールとか、何かと危険な仕組みの多いラグビーはこの際ほどほどにやっておくことにした。」しかし、ちゃんとやってた友人が骨折してしまい、完治するまで3年もかかり、一生走れなくなってしまったというのである。

 嫌な話だなと思ったし、読んでいて石原慎太郎も嫌なヤツだなと思った。自分で言い出して始めた遊びのラグビーで、自分は手を抜いて他の友人が大けがをする。そういう話があったら、テーマは「罪悪感」になるはずだと思うが、それが全く描かれない。「そういうこともあるさ」的な感慨で終わって、すぐに自分の骨折話に移るのである。これがどうやらこの人なんだと思う。怪談的な話も多く、そういう超自然的なことを信じているのかも。それは作品的には面白いのだが、どう考えるべきか判らない。そもそもフィクションなのかもしれないが、一応「私」の語りは「自分の体験」をもとにして書かれている体裁になっている。
(石原裕次郎と北原三枝の結婚式)
 特に不思議なのが「ライター」。弟の結婚の直前に裕次郎と北原三枝を中心に水ノ江滝子の家でパーティをしたそうだ。その時に「海に落としたライター」を謎の女性が届けに来る。当時スチル・カメラマンだった斉藤耕一(後に映画監督になって「約束」「旅の重さ」などを作った)も出て来て、確かにあれは海に沈んだと証言する。何だかよく判らないけど、当時の映画界の証言にもなっていて興味深い。一番最後の「」は長いけれど、弟の死期を見つめた作品でさすがに重いものがある。面白いのも、そうじゃないのも混じっているが、まあ取りあえず石原慎太郎の「時の時」を理解するためには役に立つ。
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