映画監督の森田芳光が急死した。新聞記事から一部引用。「家族ゲーム」「失楽園」など、現代における家族や男女のありようをユニークな視点で表現した映画監督の森田芳光(もりた・よしみつ)さんが20日夜、急性肝不全のため東京都内の病院で死去した。61歳だった。
(森田芳光)
作品的には「家族ゲーム」と「失楽園」なのか。「家族ゲーム」は、ATG(アートシアターギルド)が新作日本映画を作った最後の頃の傑作。キネマ旬報が2009年に発表した「映画人が選ぶオールタイムベストテン」の日本映画部門10位に選出された。1983年作品。あまり期待しないで見たら、驚くべき傑作だった。横一列で食べるシーンの鮮烈なイメージは忘れられない人が多いだろう。まさに「家族」という「ゲーム」を予見的に描いた。松田優作の家庭教師像は当時としてはぶっ飛んでいた。映像美や社会的テーマではなく、人間関係の描き方の独自なイメージで新味を出すというのは、その後は映画、演劇、小説などでごく普通の発想になる。
(「家族ゲーム」)
85年の「それから」(夏目漱石原作)も傑作。藤谷美和子が大変そうだったが、漱石をいまどきどう描くのかと思ったら「それから」は明治の「家族ゲーム」だった。85年のベストワン作品。漱石の映画化でベストテン入りした唯一の映画だ。(「坊ちゃん」、「猫」、「三四郎」、「こころ」皆映画化されている。「こころ」は市川崑と新藤兼人で2回も映画化されたが、映画としては消化不良。)森田芳光は、早世した松田優作の代表作を残したことが大きい。(松田優作は「遊戯」シリーズや「ブラック・レイン」があるけれども、シリアスドラマの傑作「家族ゲーム」「それから」の2本があることは大きい。)
(「それから」)
70年代に自主映画で8ミリの「水蒸気急行」や「ライブイン茅ヶ崎」が評判を呼び、81年に「の・ようなもの」で商業的な長編映画デビュー。そういう人が70年代後半から出てきた。例えば大森一樹や石井聡互(最近改名して岳龍)なども同じ。今はデジタルビデオで作って「PFF」(ぴあフィルムフェスティバル)に出品するが、70年代は8ミリで学生映画を作っていた人が多い。森田芳光は1950年生まれの団塊世代で、日大芸術学部で紛争経験もあるらしいが、大学で映画作りを始めている。その後、東京飯田橋の名画座「ギンレイホール」でアルバイトしながら自主映画を作っていた(らしい)。
2本のベストワン作品で信用されたのか、有名原作の映画化をずいぶんオファーされた。「キッチン」「失楽園」「黒い家」「模倣犯」などなど。どれも一定の出来ではあるものの、あまり成功していない。「失楽園」はあまり自己主張せずヒットするように作ったので面白く見られた、「模倣犯」などは明らかに失敗している。「阿修羅のごとく」(向田邦子原作)や「間宮兄弟」(江國香織原作)はうまく作られ好感の持てる出来だった。存命中の最後の公開作「武士の家計簿」もそう。しかし、この「うまく出来ていて、好感が持てる」を、最後の頃は「持ち味」にしてしまった感じがする。それでいいのかなと思っていたのも事実。あの80年代半ばの輝きは戻って来なかったのかもしれない。遺作として来年公開予定の「僕達急行A列車で行こう」が残されている。
(森田芳光)
作品的には「家族ゲーム」と「失楽園」なのか。「家族ゲーム」は、ATG(アートシアターギルド)が新作日本映画を作った最後の頃の傑作。キネマ旬報が2009年に発表した「映画人が選ぶオールタイムベストテン」の日本映画部門10位に選出された。1983年作品。あまり期待しないで見たら、驚くべき傑作だった。横一列で食べるシーンの鮮烈なイメージは忘れられない人が多いだろう。まさに「家族」という「ゲーム」を予見的に描いた。松田優作の家庭教師像は当時としてはぶっ飛んでいた。映像美や社会的テーマではなく、人間関係の描き方の独自なイメージで新味を出すというのは、その後は映画、演劇、小説などでごく普通の発想になる。
(「家族ゲーム」)
85年の「それから」(夏目漱石原作)も傑作。藤谷美和子が大変そうだったが、漱石をいまどきどう描くのかと思ったら「それから」は明治の「家族ゲーム」だった。85年のベストワン作品。漱石の映画化でベストテン入りした唯一の映画だ。(「坊ちゃん」、「猫」、「三四郎」、「こころ」皆映画化されている。「こころ」は市川崑と新藤兼人で2回も映画化されたが、映画としては消化不良。)森田芳光は、早世した松田優作の代表作を残したことが大きい。(松田優作は「遊戯」シリーズや「ブラック・レイン」があるけれども、シリアスドラマの傑作「家族ゲーム」「それから」の2本があることは大きい。)
(「それから」)
70年代に自主映画で8ミリの「水蒸気急行」や「ライブイン茅ヶ崎」が評判を呼び、81年に「の・ようなもの」で商業的な長編映画デビュー。そういう人が70年代後半から出てきた。例えば大森一樹や石井聡互(最近改名して岳龍)なども同じ。今はデジタルビデオで作って「PFF」(ぴあフィルムフェスティバル)に出品するが、70年代は8ミリで学生映画を作っていた人が多い。森田芳光は1950年生まれの団塊世代で、日大芸術学部で紛争経験もあるらしいが、大学で映画作りを始めている。その後、東京飯田橋の名画座「ギンレイホール」でアルバイトしながら自主映画を作っていた(らしい)。
2本のベストワン作品で信用されたのか、有名原作の映画化をずいぶんオファーされた。「キッチン」「失楽園」「黒い家」「模倣犯」などなど。どれも一定の出来ではあるものの、あまり成功していない。「失楽園」はあまり自己主張せずヒットするように作ったので面白く見られた、「模倣犯」などは明らかに失敗している。「阿修羅のごとく」(向田邦子原作)や「間宮兄弟」(江國香織原作)はうまく作られ好感の持てる出来だった。存命中の最後の公開作「武士の家計簿」もそう。しかし、この「うまく出来ていて、好感が持てる」を、最後の頃は「持ち味」にしてしまった感じがする。それでいいのかなと思っていたのも事実。あの80年代半ばの輝きは戻って来なかったのかもしれない。遺作として来年公開予定の「僕達急行A列車で行こう」が残されている。
森田作品では、(それから)(わたし出すわ)などしっとりとした、いい映画でした。