尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「生誕120年 大沢昌助展」を見るー不思議な世界の軌跡

2023年06月09日 22時44分36秒 | アート
 練馬区立美術館に「生誕120年 大沢昌助展」を見に行った。(6月18日まで。)大沢昌助(1903~1997)の名前も知らなかったけれど、「戦後の社会背景を見据えつつ、ブレることのない独自のスタイルを貫いた昭和を象徴する美術家」とチラシにある。主な美術館のスケジュールはネットで検索しているけど、名前を知らないからスルーしていた。でも新聞に出ていて、面白そうだったのである。戦前から戦後の独自な具象画から、晩年になって抽象画に転じていった興味深い画家である。
(「笛を吹く少女」1976年)
 1903年に建築家大沢三之助の子として生まれた。父は辰野金吾に学び、東京美術学校教授になったという人である。父が描いた風景画なども展示されていたが、父からはきちんとしたスケッチ技術を教えられた。東京美術学校西洋画科を首席で卒業した後、戦時中の1943年に二科会の会員となった。シュールレアリスムに関心を持ちつつも、一つの流派になるのはためらいがあったらしい。
(晩年)(「自画像」1996年)
 「水浴」は戦時中の1941年作品だが、その時代の代表作である。少年像はギリシャ彫刻を参考にしたというが、顔も姿もちょっと不思議である。少年たちが水浴しているというテーマも何だか不思議で忘れがたい。戦後の「真昼」も不思議で、何だか遠近法がおかしい感じもする。奥の方をよく見ると、右にも左にも少女がいる。廃墟は戦後っぽいけれど、どこか静かで明るい感じもある。シュールレアリスム的な感じもするけど、一つ一つは確かな技術で描かれている。
(「水浴」1941年)(「真昼」1950年)
 そこから次第に抽象画になっていき、明るく面白い構図の絵をたくさん残した。高齢になってから抽象になるのは、ある意味判るような気がする。モデルや風景を描くより、イメージを発展させる抽象の方が描きやすい。
(「黒いおもかげ」1995年)(「変わっていく繰り返し」1981年)
 さらにいくつかの壁画も描いている。旧国立競技場に描いた絵は、何とか保存されたという。他に世田谷区役所都議会議事堂にも壁画を描いた。いくつもの顔を持つ画家だったのである。僕には全体像を評価することは出来ないけれど、「水浴」や「真昼」のような不思議な感じは他の画家ではちょっと思いつかない。
(「人と太陽」国立競技場壁画下絵、1964年頃)
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