尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『自我の起源』ー真木悠介著作集を読む③

2023年07月01日 20時19分33秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介・真木悠介著作集を読み始めて、これが最後になる。見田宗介著作集が全10巻、真木悠介著作集が全4巻だが、『気流の鳴る音』だけは独自に5回書いたから、全部で18回になる。その全体的感想はもう少ししたら別に書きたいと思う。

 最後の『自我の起源』(1993、岩波書店)だが、これは実に頭が痛い本である。いや、面白くないというのではなく、叙述そのものは興味深くもあるのだが、何しろ横書きの「自然科学」研究なのである。厳密に言えば、「動物」の「社会」に関する研究史の整理で、それは一種の「比較社会学」に入るとも言えるだろう。だけど、原著を30年前に読んだときから、これは一体何なんだと頭を抱えるしかない本だった。人間解放の理論を期待して読むと完全に肩すかし。
(原著)
 副題が「愛とエゴイズムの動物行動学」である。ダーウィンが『種の起源』を著したのに続き、次は『個の起源』を問うわけである。それは興味深くもあるけれど、動物の世界を考えることが人間とどうつながるのだろう。確かに犬や猫を見ていて、名前を呼ぶと答えてくれる感じがして「自分の名前」を覚えているように見える。でも、犬や猫段階には「自意識」はないから、自分は○○という名前だと認識しているのではなく、「飼い主が接してくれる時の記号」として記憶されているんだろう。では、ミツバチなどの「社会性動物」の場合はどうなんだろう。

 それを当時評判になっていたリチャード・ドーキンス(1941~)の『利己的な遺伝子』(The Selfish Gene、1976)を取り上げて検討するのである。調べてみると、この本は何回か版を改めて出版されており、91年に出たオックスフォード大学版が1992年に日本でも翻訳されている。この「生物は遺伝子の乗り物」的な見解は俗説レベルで非常に有名になっていた。それをきちんと論評するのは確かに面白いんだけど、何しろ30年前の著作である。この30年間の遺伝子研究の発展は著しいから、今になるともっといろいろ進んでいるんだろうなと思う。つまり、今になると、この本も増補版が必要なんだろう。
(リチャード・ドーキンス)
 この本は2001年に岩波モダンクラシック版、2008年に岩波現代文庫版が出ている。その現代文庫版には大澤真幸氏による「周到な解説」が付いているという。それを読めば良いんだろうけど、まだ読んでない。著作集に初めて収録された「〈自我の比較社会学〉ノート」を読むと、この本は次のような全体構想をもつ〈自我の比較社会学〉の第Ⅰ部の骨組みだとある。

 Ⅰ 動物社会における個体と個体間関係
 Ⅱ 原始共同体における個我と個我間関係
 Ⅲ 文明諸社会における個我と個我間関係
 Ⅳ 近代社会における個我と個我間関係
 Ⅴ 現代社会における個我と個我間関係

 「全体の遂行には少なくとも15年を要すること、その前に先にしておきたい他の仕事があること、人間はいつ死ぬか分らないこと。これらを考慮して、取りあえず第Ⅰ部のみを切り離して発表することにした」とそこには書かれている。ここで全体構想の中の位置づけを明記しておくのは、「自我という問題を『生物社会学的』的な要因だけから解こうとしているような誤認を防ぐため」という。Ⅱ部以下の粗いスケッチも書かれているが、僕にはよく理解出来ない。

 この本は動物行動学などの成果を分析しながら、ミツバチ、サルなど様々な「動物社会」を通して、「個体性」の起源を探っていく。これに「性現象と宗教現象」という宮沢賢治を論じた文章が収録されていて、両者はコインの裏表みたいものらしい。判るようで判らない言葉だが、著者にとって「個の起源」という以上に「」や「エゴイズム」の問題が非常に大切だということなのだと思う。見田宗介著作集にも『生と死と愛と孤独の社会学』という巻がある。これは一般に社会科学の対象としては珍しいだろう。

 一般には「愛」や「エゴイズム」の起源ではなく、それが基になって移り変わってゆく人間社会の様々な問題、宗教、家族、戦争、文化などを主題とするのではないか。そこに見田社会学、あるいはさらに「真木悠介」理解のキーがあるように思った。本書の内容そのものは、僕はよく判らないのでスルーしたい。僕の若い頃には、動物行動学を学問として確立したコンラート・ローレンツ(1903~1989)は非常に有名だった。1973年にはノーベル生理学・医学賞も受賞して、世界的な名声を得た。
(コンラート・ローレンツ)
 ローレンツでは、僕も『ソロモンの指輪』は読んでいるが、他に有名な本として『攻撃』もある。僕は「戦争の比較社会学」という本を書くんだったら、動物社会の研究も必要になると思う。人間にはそもそも「縄張り」の獲得や維持のための攻撃本能があり、それは動物にさかのぼるものだという見解もあり得るからだ。そこから始めて、「原始共同体」や「文明諸社会」における戦争のありようを比べて考察することになる。そういう本なら動物から始まっても違和感がないが、「自我の起源」というテーマで動物を論じて終わってしまう本書には、最初に読んだときからどうも違和感が強いなあ。
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