尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ウェスカー連続上演を観る

2012年09月12日 00時43分43秒 | 演劇
 東京演劇アンサンブルで、イギリスの劇作家、アーノルド・ウェスカーの「大麦入りのチキンスープ」と「ぼくはエルサレムのことを話しているのだ」を連続上演中。10、11がチケットが安い日なので続けて観劇。(17日まで、2作品を交互に上演。)公演があった「ブレヒトの芝居小屋」は東京演劇アンサンブルの本拠だが、遠いので実は初めて。西武新宿線の武蔵関と言う駅である。

 アーノルド・ウェスカー(1932~)は50年代後半から続々と作品を発表してきて、政治的というか思想的というか、そういう趣が強い家族劇が多い。50年代後半のイギリスでは、オズボーン「怒りをこめてふり返れ」と言う劇が評判を呼んで、アラン・シリトーの小説などを含めて「怒れる若者たち」と呼ばれた。ウェスカーはそこに入るのかどうかよく判らないが、日本では60年代、70年代にたくさん上演されたはずである。特に今回の2作も木村光一訳だけれど、文学座、地人会で木村光一が手掛けたことが多いと思う。数年前には蜷川幸雄も「キッチン」をシアター・コクーンで上演していた。そういう風に日本ではけっこう知られている作家だけど、僕は初めて見る。時代が少し違って掛け違ってきた作家と言える。

 「なんとかしなければ、あんたは死ぬだけよ。」(大麦入りのチキンスープ)
 「絶対に泣いたりしちゃけないんだ、ぼくたちは!」(ぼくはエルサレムのことを話しているのだ)

 チラシに載せられている、それぞれのラストのセリフ。何だか今の日本で、震災後の状況を語っているようなセリフである。だからこそ今の時点で再演されたのではないかと思う。しかし、戯曲としての知名度が高い「大麦入りのチキンスープ」(1958)はユダヤ人共産党員の家族の話なので、今では少し古い。50年代という時点を知らないと、よく判らない人もいるだろう。話は1936年、イギリスのファシストが行進をするのを、左翼ユダヤ人が阻止しようとする「ケーブル・ストリートの戦い」の日の場面から始まる。意外かもしれないが、イギリスにもモズレーらのファシスト一派がいたし、少数派なのだがソ連派の共産党も存在した。「党」と言えば「共産党」を意味する知的風土は日本でも、ある時期まで知識人や労働運動の中にあった。この一家、ハリイ・カーンとサラ・カーンの夫婦は強固な党員として生きてきた。しかし、ハリイは性格的に弱く、仕事が長続きしない。一家を支えるのがサラで、「大麦入りのチキンスープ」(ユダヤのペニシリンと言われるくらい、ユダヤ人の健康を支えた伝統料理なのだそうだ)がその象徴である。娘のアダも党を信じ、婚約者のデイヴはスペインに義勇軍として参加する。そういう一家なんだけど、戦時下、戦後と話が進むにつれ、アダや弟のロニイは党への不信を強めていく。父親ハリイは何度か脳梗塞で倒れ、一家のこころは離れていってしまう。時代は労働党政権となるが、わずかな成果を得た労働者は満足して革命を目指さない。しかし、サラの党への信頼は揺るがない。最後に1956年のハンガリー事件で、子ども世代の不信感は頂点に達する…。

 という話だから、50年代には切実な「スターリン批判」、党の無謬性への批判という主題が家族の争いの中に描かれるが、今では古い感じ。ユダヤ的な風習、イギリスの下町の貧困地区の様子などは興味深いけれど。全体としては、「共産党一家に育った子供たちの苦悩」(日本で言えば米原万里みたいな)という主題が大きいような気がする。一方、「根っこ」(1959)をはさんで書かれた「僕はエルサレムのことを話しているのだ」(1960)は、娘のアダとロニイの夫婦が中心人物として描かれる。二人はロンドンを離れ田舎に住み、家具職人として生きて行こうとする。ウィリアム・モリス風の社会主義を目指すのである。親世代はソ連的共産主義を信じていたわけだが、娘世代は「生活に根ざした社会主義」を目指す。母のサラには理解できない敗北主義と映るのだが。そしてその試みも、産業社会の進展の中、結局手仕事の仕事は認められず、ロンドンに戻っていかざるを得ない。「エルサレム」というのはユダヤ人のとっての「理想の地」という意味なんだと思う。この「敗北」の方は、今でもかなり意味があるだろう。社会制度を変える革命なしに、生活のあり方に美を求める生き方だけでいいのか。反原発、自然エネルギー論議もそうだけど、60年代以後の様々な試み、コミューン、身体の解放、自然食なんかにも関わってくるテーマである。でも60年に書かれているので、テーマとして早すぎたのかもしれない。

 全体に家族で論争し続けるところが、日本の家族と違う。日本でこんな会話をしている家族はいないだろう。「かぞくのくに」の在日の一家でも、こんな論争は家ではしていない。親が「党」を信じ、娘が「芸術」を求めると言う構図は似ているのだが。一方、これだけ政治的、思想的な話が立て続けに出てくる劇なのに、インド独立や朝鮮戦争が一言も出てこない。全くアジアが出てこない。イギリス共産党員の世界でも、ヨーロッパ中心主義だったわけである。日本で同じような劇を書けば、ハンガリー事件やサルトルなども出てくるが、同時にアジアの政治情勢が大きなウェイトを持つだろう。そういう意味では、面白い戯曲なんだけど、少し時代が古くなった感じもした。
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1 コメント

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編み物ができていませんでしたね (さすらい日乗)
2012-09-16 22:08:26
『僕はエルサレムのことを話しているんだ』を見て、内容的にはいろいろありますが、オルグの女性が編み物をしているところですが、明らかにできていませんでしたね。
彼女は家庭科で習わなかったのでしょうか。
私は習いましたが、今は中学で家庭科ってもうないのですか。
中山千夏の本によれば、瑳峨三智子も出来たそうですが。
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