尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日々のあれこれ

2015年03月26日 23時11分40秒 | 自分の話&日記
 3月は10日が「東京大空襲」70年、11日が「東日本大震災」から4年目、20日が地下鉄サリン事件20年で、26日が米軍の慶良間諸島上陸に始まる沖縄戦70年である。いろいろメモリアルの日々が続くけど、僕は今年は特に書いてない。ブログを書き始めたころは書いてたけど、マスコミではないんだから毎年毎年記念行事的に書かなくてもいいだろう。新しく考えたということも特にないからである。探すのも面倒だと思うけど、原発やオウムのことは前にまとめて書いている。自分なりに書きたいのは、教育問題や教師論なんだけど、今でいえば川崎の事件になるだろうけど、書き出すとまた長くなってしまうので当面書かないで、その代わりに自分のことを書いておきたいと思う。

 今年になってから、旅行演劇の記事を書いていない。どっちも僕にとって大事なものだけど、お金とヒマの問題を別にして、ちょっと予約を入れにくい個人的な理由があって、当面いつでも昼に行ける映画ばかり行っている。映画の話は次回に書くけど、映画がいいのは、昼に予約なしでも見られることと、座席がいいと言うことである。小劇場や寄席は正直言って、座席が辛い。映画館はシネコンだけでなく、名画座なんかでも結構いい。特に画面の見やすさだけなら、池袋の新文芸坐が東京でも一番いいかもしれない。映画館でも座席が辛いところはほとんど行かない。若い頃は、「カネとヒマ」を待ち望んでいたわけだが、実は「体力」の方が重要で、長いこと働いて少しはカネとヒマが作れるようになると、実はもう体力が無くなっている。世界を放浪するだのライフワークの研究をまとめるだの、若い頃に言っていたことにはなかなか取り組めないのである。

 退職前に自分で思っていたのと大きく違ったのは、集会にほとんど行ってないことである。勤めているときは、行きたいけど行けないと思っていた集会(やデモ)がいっぱいあった。若い頃は集会マニア的にあちこちの諸問題、あるいは講演会的なものに行っていたので、ヒマが出来たら是非行きたいと思っていたのである。このブログでも、冤罪・死刑・ハンセン病などの集会は時々書くし、今もできるだけ行きたいとは思っている。でも、もっと一般的なテーマの集会だと、大体演題に関する自分の立場はすでに決まっていることが多く、講演やシンポジウムなどを聞いていても、つい寝てしまう。大体の社会問題はある程度は知っているし、知識はネットで集められる時代だから、わざわざ来なくても良かったかなという気になることが多いのである。それに今は結構参加費が高い。ちょっとした集会で、800~1500円ぐらいするのが多い。夜だと食費もかかるし、交通費も高い。昔はどうしていっぱい出られたんだろうか。集会は施設利用料がずっと安かったんだろう。特に、区民、都民が登録施設を利用する場合、無料だったのではないか。今では受益者負担とか言って結構取るんだろう。それに食費も交通費もみな格段に安かった。こっちもまあ駅蕎麦ぐらいで頑張れたんだろう。

 2年前から週二日程度、僕が理事長をしてるNPOがやってる「地域生活支援センター」に出ている。まあ、精神障害者の福祉作業所である。法的な位置づけはいろいろ難しい問題があるようだけど、僕が書いても仕方ないから書かない。そういう仕事は、学校と同じくあまり詳しく語れない部分もあるが、人間関係も出来てきて、今しばらくは関わっていくのかなと思う。僕が今まで学校で接した生徒の中に、今思えば自閉症とか学習障害の生徒がいっぱいいたと思う。だけど当時は学校で研修は何もなかったのである。自分が定時制高校に異動してから、様々なタイプの生徒と接することになった。最後の学校の「チャレンジスクール」で初めて様々な研修に接して、なるほどと思えることが多かった。そういう流れの中で、やはり「精神障害という問題」に対する問題意識が継続している面がある。でも学校で接した生徒や保護者と同じく、理想のような流れで理解できる範疇にはないのだと思う。今の福祉行政は、教育行政と同じく、「競争と自己責任」にシフトし過ぎている。「社会復帰」とか「就労支援」などと言うのはいいけど、実際は無理だなと思うことが多い。そういう部分を見ていくことになるんだろう。

 そこで「理事長」をしていると言っても、まあ昔からのことで大したものではない。ずいぶん前から関わっているけど、無給だから、兼職には当たらない。要するに、学校が(東京の場合)「学校運営連絡協議会」などという地域や保護者代表を入れた外部評価の仕組みを整えなけれなならなくなったように、福祉施設も任意団体ではなく、運営の理事会を作り、さらに運営のNPOを整備せざるを得ないようになって行ったということである。僕は所長と1980年の日韓合同ワークキャンプ以来の友人だから、「理事長」なるものを引き受けてきたわけである。要するに、大学までの学校での知り合いよりも、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)に参加したことの方が人生上の大きな出来事だったのかもしれない。自分が映画を見ていること、及び今「学校」をどう思っているか、を次回以後に書いておきたい。
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