尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

小熊英二『日本社会のしくみ』を読むー新知見満載の日本社会像

2024年05月12日 20時10分37秒 | 〃 (さまざまな本)
 『生きて帰ってきた男』に続いて、小熊英二日本社会のしくみ』(講談社現代新書、2019)を読んだ。これがまた参考文献まで入れると600頁を越えるという、新書とは思えぬ分厚さである。しかも内容も重厚で、なかなか進まず一週間以上かかってしまった。新書というジャンルは「一般向け」概説書が多いが、この本は注や参考文献の多さから見ても「研究書」というべきだろう。非常に大切なことが書かれているけど、万人向けではない。自分もよく理解出来たという実感がないが、大切だと思うところを中心に簡単に書いておきたい。驚きに満ちた日本社会の姿を通して、いろんなことを考えさせられた。

 21世紀の日本では「大企業が正社員を減らし、非正規として働かざるを得ない人が増えている」。こんな風に思っている人は多いのではないか。ところがデータを検証すると、これがどうも違っているというのである。つまり「大企業正社員型」で働く人は、ほとんど減っていない。全体の26%ほどだという。日本の大企業は(中には没落してしまった会社もあるが)、大きく見れば減っていない。大企業を運営する人員は同様に必要なのである。これは実感として、東京中心部のビル群、毎朝の通勤風景などが変わっていないのを見ても推測できるという。じゃあ、何が減ったのだろうか。それは「地元型」だという。

 地方へ行けば、中心部の商店街は「シャッター街」となる一方、ちょっと離れた国道沿いにショッピングモールが作られている。その結果、地元商店街で働いていた人々は全国的なチェーン店の非正規店員となったわけである。とは言っても、商店・飲食店や農家がなくなったわけではないし、地元自治体に勤める地方公務員を含めて、ほぼ「地元」を中心に活動する人は一定程度存在する。「地元型」は36%だという。そしてその他の非正規、自由業などを合わせた「残余型」が38%を占めるという。
(就業別の推移)
 「地元型」が減って、残余型が増えている。大企業型は現状維持。意外かもしれないが、上記グラフを見れば確かにそうなっている。よく「(国民)年金だけでは食べていけない」という声が聞かれる。国民年金はもともと(厚生年金、共済年金がある)大企業や公務員と違って、老後の資金が少ない自営業や農家を想定して作られたという。つまり、自宅兼職場で定年もなく一家総出で働く人々に合わせた制度だった。「地元型」が減って「残余型」が増えて、自宅を持たずに住居費(アパートの家賃)を払わなければならないとなると、年金で生活を支えることは不可能なのである。
(裏表紙)
 日本の会社、あるいは会社員の働き方は欧米先進国と大きく違っているとよく言われる。日本は(かなり変わったとはいえ)「終身雇用」であり、大卒一括採用が多い。労働組合も会社ごとにまとまっている。日本で職業を聞くと「三菱○○」「三井○○」など会社名を答える。外国では会計とか販売とか職業そのものを答える。職業ごとに組合があり、採用も欠員が出たときに資格を条件にして募集する。などとよく言われる。これは大体言われている通りらしいが、では何故そのような違いが生まれたのだろうか。著者はそれを近代史全般を振り返ることで究明しようとする。外国分析はラフスケッチだというが、とても興味深い。
 
 全部詳しく書くほど理解出来たとは言えないが、特に重大なことは日本の近代化のあり方が大きい。明治になって欧米で確立した技術(鉄道など)をそっくり導入した。民間資本はまだ遅れていたので、政府が中心になって「上からの近代化」を進めたわけである。従って「国家公務員」のあり方から生まれた制度が多いというのである。一括採用、定期人事異動、定年制など、大体そう。特に近代官僚組織としての軍隊の意味が大きかった。軍ではイザとなれば戦場で部下を率いるわけだから、体力の衰えた下士官は役に立たない。年齢による退官制度は軍から生まれたのである。

 日本では「外部評価」による資格制度が少ない。ドイツなどでは昔からある同業者組合などの資格認定が有効だという。日本でも大企業内部では熟練工を表彰するような仕組みがあり、「○○マイスター」などと呼ばれたりする。しかし、その資格は会社内でしか通じないことが多く、従って安易に辞めるわけにはいかない。同業他社に転じたら、(ある程度は経験者優遇を受けられても)大分下がった地点からスタートしなければならない。これが「長期雇用」が多くなる理由だという。そう言えば、看護師や保育士など資格で勝負できる職業は流動性が高い感じがする。

 いま日本で問題なのは「低学歴化」だという。日本で高学歴というと、有名大学を卒業しているという意味で使うことが多い。しかし、それは本来の高学歴ではない。大学を出て得られる資格は、どんな大学でも「学士」である。それに対して大学院を修了することで「修士」「博士」の資格になる。これが本来の「高学歴」である。欧米では、例えば会計に欠員が出たら、「経営学修士の資格を持つか、同等以上の経験を有する」などと求人するという。一方日本では将来経営者を目指すなら、大学院へ行ってる時間が不利になる。大卒一括採用時に、出世競争がスタートしてしまうからである。
(大学院進学率)
 この本でもう一つ理解できることは、どの国の制度もその国の歴史的な成り行きがあって成立しているということだ。だから立場はどうあれ、どこかの外国の制度は良さそうだと思って、継ぎ接ぎ式に持ってきてもうまく行かないという。だが、この「一括採用」による「低学歴化」は今後変えてゆくべきだろう。日本の将来にとって、きちんと勉強していない(学問的トレーニングを受けていない)人が政府や大企業を運営することは不安材料である。大学院へ行くことそのものよりも、「勉強して自分をヴァージョンアップする」ことが企業の中で評価されるような仕組みがあるかどうかということである。

 今書いたことは、この本に書かれていることの10分の1にも及ばない。あまりにも多くも問題が出ていて、それは「日本社会のしくみ」を究明しようという熱意のもとに、雇用だけでなく教育や社会保障、政治や歴史全般にも追求が広がっていくからだ。頑張って読んでみれば、いろんな問題を知ることが可能だ。しかし、それと同時に「文献研究の限界」にも触れている。その社会の中で生きている人には、あまりにも当たり前で書くまでもないことは、文献として残りにくいのである。そこで慣習や慣行などを洗い出してゆくことも必要となる。研究のやり方のトレーニングとしても役立つ本だ。
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