尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「消滅世界」と「抱く女」①

2018年12月02日 21時16分45秒 | 本 (日本文学)
 村田沙耶香「消滅世界」(河出文庫)と桐野夏生「抱く女」(新潮文庫)が相次いで文庫化されたので、続けて読んでみた。「抱く女」の解説を村田沙耶香が担当しているというつながりがある。両書ともとても面白くて読みやすい。あっという間に読めると思うけど、中身は深い。あちこちで立ち止まる。現代日本で、特にセクシャリティを考えるときに必読の作品だ。

 まず「消滅世界」から。村田沙耶香(1979~)は2016年に「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した。「消滅世界」はその前作で、2015年に発表された。さらに前作は「殺人出産」、最新作は「地球星人」で、どっちもまだ読んでないけど、名前を見ただけでもすごそうだ。とにかく今このような小説を書いてる人がいるということは、好き嫌いを超えて知っておくべきだ。そう言わざるを得ないほど、「消滅世界」はぶっ飛んでる。正直言えば、僕には気持ち悪くて受け入れがたい。

 それでも傑作だし、面白く読める。その作家的力量は明らかだが、こういう発想はどこから出てくるのか。「消滅世界」では人々はもはやセックス(男女の性交渉)によって子どもを作ることはない。「人工授精」で妊娠するのである。(普通の夫婦であっても。)というか、夫婦間に性交渉はあってはならない。それは「近親相姦」とみなされてタブーとされる。信頼でつながれた家族間に、セックスのような面倒で汚いものを持ち込んではならない。

 どうしても「コイビト」を持ちたいなら、それは家庭外なら許される。それでも「ヒト」の恋人を持つ人は年々少なくなっていて、キャラクターなどの「コイビト」(それは今の世の中の概念では、「恋人」ではないと思うけど)を持つ人が多くなっている。主人公の「雨音」は両親の「交尾」で生まれた「人類最後」(?)の人間で、「近親相姦」としていじめられるし、母親にも嫌悪感を持って育つ。そんな雨音はヒトにもキャラクターにも「コイビト」がいる珍しい存在だ。

 雨音の一回目の夫は、夫婦でありながら映画を見ていてキスしてきた「変態」だった。離婚したのち、再婚するが二人とも「コイビト」がいる。しかし夫とコイビトの関係がうまくいかなくなり、悩んだあげく「実験都市」の千葉県に移住することを決意する。実験都市では子どもたちは集中的に教育され、夫婦間の人工授精も一元的に管理されている。男も人工子宮を付けて妊娠する実験が続けられている。男女の別なく子どもを産めるなら、大人は全員「おかあさん」である。すべての子どもは集中的に育てられるから、子どもたちは大人を見れば「おかあさん」と慕い寄ってくる。
 
 映画「カランコエの花」について書いたときに、養護教諭の教え方に疑問を持ったと書いた。セクシャル・マイノリティに関して授業をして、「思春期になれば誰かを好きになる。それって素敵なことだ。そして中には好きになる対象が同性の人もいる。それも素敵なことだと思う」って言うようなことを語る。つまり「ロマンティック・ラブ神話」を自明視して、その中に今まではヘテロセクシャルだけが入ってたけど、これからはホモセクシャルも組み入れる。それが「LGBT理解」だとすると、「ロマンティック・ラブ」神話そのものを受け入れられない人にはかえって抑圧の増大にならないか。

 村田沙耶香は世の「ロマンティック・ラブ神話」を解体させる戦いの最前線にいる。この小説が面白く出来ているのは間違いない。また「ペット」「犯罪」など無くなるはずのないものを周到に小説世界から排除して、読んでる間は何となく納得させてしまう手腕は大したものだ。しかし、小説は言葉で書ける範囲内で何を書いてもいいけど、「消滅世界」まで行くと正直僕には気持ち悪い。

 斎藤環による解説を読むと、この小説は「ユートピア」か「ディストピア」か、女性の間で論争になったと出ている。「ユートピア」(理想社会)と「ディストピア」(反ユートピア、恐怖社会)は正反対のようでいて、実はコインの裏表だと思うけど、この小説に限っては明らかに「ディストピア」。それは「性」(であれ何であれ)を集中的に管理するという社会そのものに「恐怖」しか感じない。そういう意味で、僕は恐ろしい社会だなと思った。
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