尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ザンジバル、フレディ・マーキュリーの生地

2018年12月24日 22時33分48秒 |  〃 (歴史・地理)
 「ボヘミアン・ラプソディ」について書いたけれど、フレディ・マーキュリーの出自の問題を書いてないのでもう一回。「クイーン」のヴォーカリストであり多くの曲を作詞作曲したフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)だが、本名(というか前名というか)はファルーク・バルサラ(Farrokh Bulsara)というインド人だということは全く知らなかった。生まれたのはザンジバルストーンシティ(世界遺産になっている)である。宗教はゾロアスター教(拝火教)だった。

 その間の事情は複雑で、世界理解は難しいと実感する。ザンジバルと言われても判らない人が多いと思うので、ちょっと調べて書いてみたい。ザンジバルはアフリカ東部のタンザニア沖にある島部である。タンザニアの「ザ」がザンジバル由来で、昔はタンザニアの大陸部を指す「タンガニーカ」と「ザンジバル」は別の国だった。タンガニーカは1961年に独立し、ザンジバル王国も別の国として1963年に独立した。王国だったザンジバルで1964年1月に革命が起き「人民共和国」が成立、その後合併してタンザニア連合共和国となったのである。

 ザンジバル諸島はウングジャ島ペンバ島という二つの大きな島からなる。普通ザンジバルと呼ばれているのは、中心地だったウングジャ島。合わせた面積は沖縄県ほどで、人口約130万人。16世紀にポルトガルに占領され、その後オマーン王国が占領する。オマーンが西インド洋の制海権を握って栄えていた時代があったのである。そのためムスリム系の王家が支配した。ザンジバルのムスリム商人はタンガニーカ湖周辺まで奴隷を求めて支配勢力としていた。

 19世紀末にイギリスが進出し、1896年のイギリス・ザンジバル戦争に敗北してイギリスの保護領となった。この戦争は何でも「37分23秒」でイギリス艦隊の砲撃で宮殿が壊滅し、世界最短の戦争だそうである。(ギネス記録に載ってるとウィキペディアに出ている。)一方、タンガニーカの方は「ドイツ領東アフリカ」となり、第一次世界大戦のドイツ敗北後にイギリスの信託統治となった。(ドイツ領東アフリカだったルワンダ、ブルンジはベルギーの信託統治。)このようにタンガニーカとザンジバルは別々の歴史を持つ地方だが、イギリス領となったためインド人の進出も多かった。

 インド人は世界中に進出している。マレー半島では下層のゴム園労働者として移住した。一方、ゾロアスター教徒などは豊かな商人として移住することが多い。もともとペルシャで栄えていたゾロアスター教徒だが、次第にイスラム教に押され、1000年前からインド西部に移住する人々が出た。そのためインドでは「パールシー」(ペルシャ人)と呼ばれるようになった。今では10万人もいないというが、マイノリティとして生き抜くために教育を重視し、高い経済力を身に付けた人々が多い。インド最大の財閥と言われるタタもパールシー。

 1964年のザンジバル革命でムスリム王朝が倒され、アフリカ系住民が中心となる政権ができた。この事態の中でアラブ系とインド系の住民は国外追放となった。映画の中で父親が「追放された」と言ってるのは、その時のことを指していると思われる。英連邦ではイギリス本国の国籍を植民地にも認めていたから、多分もともとバルサラ一家も英国籍を持っていただろう。そこでイギリスに移住したわけだろう。映画を見ても難民として食うや食わずで暮らしている感じではない。高い経済力を持って、本国に移住したという意識なんだと思う。
 (ストーンシティ)
 ウングジャ島の旧市街は「ストーンシティ」と呼ばれて、その美しい街並みは2000年に世界遺産となった。ヨーロッパとアラブの影響を受けた石造りの町が広がっている。しかし、ザンジバルは今でも独自の革命政府を持ち自治権を有している。タンガニーカ地域から訪れるには、国内移動ではなくパスポートがいるらしい。なかなか行けるところではないけれど、そういうところから「追放」されたということは、フレディ・マーキュリーの人生にとって大きな意味を持っただろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする