インドネシアのリリ・リザ監督の話が途中で終わってしまったので、続き。(ちなみに、リリ・リザは男か女かと聞いてる人がいたけど、男性監督。)2008年の「虹の兵士たち」とその続編である2009年の「夢追いかけて」である。どちらも非常に感動的な映画で、映画的な感興と「異文化理解」的な興味をともに満足させてくれるが、同時に「世界どこでも、子どもたちの世界は共通」という当たり前の事実を実感させてくれる映画でもある。この映画もなぜ公開されないのかが不思議で、これからでも是非正式に公開して欲しいと強く思う映画。
「虹の兵士たち」は、インドネシアのブリトゥン島のイスラム学校に通う10人の子どもたちの物語で、新任の女性教師ムスリマと「二十の瞳」とでも呼びたくなる映画。1974年に始まり、1979年頃を中心に小学校卒業までを描く。インドネシアも経済的に成長していく頃で、今見て懐かしくなるんだと思うけど、その年最大のヒット作となったリリ・リザの代表作。イスラム学校の話は後で取り上げるが、まず「ブリトゥン島」とはどこか。字幕ではブりトン島とあるが、ウィキペディアでは「ブリトゥン」とある。知っている人はほとんどいないと思うが、ちょうどスマトラ島とカリマンタン島の中間あたりにある島である。2000年まで南スマトラ州に属していたが、現在は隣のバンカ島とともに、バンカ=ブリトゥン州になっている。人口は16万ほどで、西にあるバンカ島が60万を超えているので、それに比べるとずっと小さい。映画でも重要な背景となっているが、錫が産出する。
まず、冒頭で学校が成立する条件の10人の生徒が集まるかどうかで、ドキドキさせられる。成立した後で、5年後に飛び、子どもたちは小学校高学年になっているが、その後新入生はなく、生徒数は同じ。高齢の校長とムスリマ、それと若い男性教師がいるが、若い二人には他の学校から転勤の勧誘がある。ムスリマは子どもたちに責任があると残るが、男性教師は去る。高齢の校長もだんだん病気となり、亡くなってしまう。給料も遅配という環境で、ムスリマも裁縫で収入を得ながら教師をしている。そんな環境でも、子どもたちは頑張り、独立記念日のパレードに初参加し、錫公社の学校に負けないように創意工夫でダンスを仕上げる。主人公で語り手であるイカルは、その頃先生に頼まれて近くの村のお店に、学校のチョークを買いに行く。そこでチョークを出してくれた女の子の爪の美しさに一目ぼれ。思春期のときめきを経験する。タイトルの「虹の兵士たち」は校外学習で訪れた海辺で見た虹の素晴らしさに、ムスリマが子どもたち皆を「虹の兵士たち」と呼んだことから。そんな美しい自然の中の学校で、設備は恵まれないながら、そこには「心の教育」があった…。
というのも、それが校長の方針で、子どもたちには「道徳」を重視した「宗教教育」を行わないといけないという考えなのである。そこでちょっと心配がある。イスラム学校とはどんなものなのか。いわゆる「学力の保障」は出来ているのだろうか。最後に、島の学校対抗のクイズ大会があり、それにも出場しようと頑張ることになり、社会科や算数の問題も出るのである。そこで算数が得意な子がいて、その生徒ランタンが間に合うかどうか、ハラハラさせる。というのも彼の住所は海辺の漁村で、そこから自転車で来るときに道に大きなワニが出ると「通行止め」なのである。いつもはすぐ動くワニなのに、この日に限って道にずっと立ち止まってしまう…。でも間にあって、彼の活躍で同点になるが、でも最後の「時速」と「時間」の問題で彼が答えた問題が誤答とされ…。しかし、とまあ定番的な展開ではあるものの、この学校の生徒たちは二つのカップを獲得したのである。
この島最初の学校である「イスラム学校」とは何か。その国の人には自明の制度は説明されないから、どうも判らない。以下は僕の推測で間違っているかもしれないが、こんな感じではないか。近代的な学校制度ができるまでは、日本で言えば「寺子屋」のような存在で、イスラム教に基づく学校があっただろうと思う。やがて近代的な学校制度が整備され多くの生徒がそっちに通うようになっても、イスラム学校は昔からの伝統ということで、つぶされないで残る。ホントは義務教育制度があれば、すべての子どもはどこかに通う必要があるが、この島の場合貧しい家の女の子などは通ってないから、まだ義務教育ではないのである。ブリトゥン島では錫公社が従業員の子弟のための付属小学校を作っている。島の多くの家庭はそこに通わせるが、制服等があり貧しい家庭は通わせられない。そういう家庭が「イスラム学校」に通わせるが、10人という基準があるということは、一応その程度が集まれば、不十分ながら公費の補助があるということだろう。そういう公設民営のようなシステムであるまいか。貧しい家庭の子が集まる場で、「イスラム教をガチで教える学校」という存在ではない。だから、日本で言えばフリースクールとか、夜間中学などに近い感じで、山田洋次の「学校」のように教師と生徒の濃密なドラマが展開されるような場なんだと思う。校長先生は、生徒が校庭で遊んでいてなかなか教室に来ないと、「大きな舟を造ったヌーの話をするよ」という。皆目を輝かせて話を聞くが、これはノアの方舟の話なのである。イスラム教は旧約聖書を受けて成立しているから、ノア(ヌー)は共通の教材なのである。
「虹の兵士たち」のラストで、イカルは大人になっていて久しぶりに島を訪ねる感動的な場面がある。そこでイカルはソルボンヌに留学すると話すが、そこまでの経緯を語るのが「夢追いかけて」である。ブリトゥン島に高校はないので、島を出ないといけない。小学校卒業後に親が死んで引き取られたいとこのアライともうひとりジンブロンの三人はいつもつるむ友だちとなる。高校時代のバカ騒ぎ(成人映画を見に行くとか)は、青春映画定番の「三バカ大将」もので、どこの青春も同じだなあと思う。誰かを好きになり、進路を考えて悩み…。そんなドタバタも終わり、ジャワに出て受験勉強。めでたく合格し、卒業したものの、就職先はなく、イカルは郵便局で働く。そしてアライは行方不明。夢を追いかけて、島を出て大学まで来た彼らの行く末は…。というどこの国でも多分感情移入できる青春の彷徨を、ヒット曲などを散りばめながら快調に描いて行く。前作と合わせて、カット割りやカメラの移動が実にうまく、映画のリズムの快適さが伝わる。特に「虹の兵士たち」は風景が広いので、パン(カメラの横移動)が多かったように思うが、それも気持ち良いのである。
インドネシア映画「ビューティフル・デイズ」という作品があるが、それに出てくる高校では、なんと創作詩のコンクールがあってビックリした。日本の学校では考えられない。「夢追いかけて」では、先生が「好きな言葉を言え」という時間がある。「『目には目を』では、世界は盲目となる マハトマ・ガンディー」とか。これはいいなと思ったけど、日本では言えるだろうか。大人でも。この映画では、生徒が皆、スカルノ、ハッタなどの独立運動家の言葉や世界の政治家の言葉を憶えている。こういう映画を見て、発見することは、青春の世界共通性とともに、どんな国の学校にも学ぶことが多いということだと思う。
特にインドネシアは重要な国である。位置的にも、資源的にもそうだけど、ASEANNの盟主的存在として「G20」にも参加している。世界最大のムスリム人口の国でもある。中東で興ったイスラム教だが、南アジア、東南アジアに広がり、もともと人口が多いところだから、インド亜大陸からマレー半島、インドネシア一帯が世界で一番イスラム教徒が多いわけである。インドネシアでは、2002年と2005年にバリ島で爆弾テロを起こした過激派勢力もあることはあるが、その大部分は穏健なイスラム教であるのはもちろん。戒律も中東に比べれば緩やかではないか。スカルノらの作ったパンチャシラ(建国五原則)の第一は「唯一神への信仰」となっているが、イスラム教は国教ではなく、世俗国家である。唯一神信仰はキリスト教も同じである。公式に無神論を言うのはできないのではないかと思うが、そういうインドネシアの社会を理解することは、非常に大切ではないかと思う。「ごく普通のイスラム教徒」がどんな暮らしをしているか、それを知るという意味でも大事な映画である。それとともに、こういう映画を見ると(あるいは音楽などでもいいが)、その国に親しみを感じるということである。頭で考えるだけでなく、自然に親しみを感じる文化交流がベースにないと、世界との友好は成り立たない。そういう意味でも、是非公開されて欲しい映画だなと思う。
「虹の兵士たち」は、インドネシアのブリトゥン島のイスラム学校に通う10人の子どもたちの物語で、新任の女性教師ムスリマと「二十の瞳」とでも呼びたくなる映画。1974年に始まり、1979年頃を中心に小学校卒業までを描く。インドネシアも経済的に成長していく頃で、今見て懐かしくなるんだと思うけど、その年最大のヒット作となったリリ・リザの代表作。イスラム学校の話は後で取り上げるが、まず「ブリトゥン島」とはどこか。字幕ではブりトン島とあるが、ウィキペディアでは「ブリトゥン」とある。知っている人はほとんどいないと思うが、ちょうどスマトラ島とカリマンタン島の中間あたりにある島である。2000年まで南スマトラ州に属していたが、現在は隣のバンカ島とともに、バンカ=ブリトゥン州になっている。人口は16万ほどで、西にあるバンカ島が60万を超えているので、それに比べるとずっと小さい。映画でも重要な背景となっているが、錫が産出する。
まず、冒頭で学校が成立する条件の10人の生徒が集まるかどうかで、ドキドキさせられる。成立した後で、5年後に飛び、子どもたちは小学校高学年になっているが、その後新入生はなく、生徒数は同じ。高齢の校長とムスリマ、それと若い男性教師がいるが、若い二人には他の学校から転勤の勧誘がある。ムスリマは子どもたちに責任があると残るが、男性教師は去る。高齢の校長もだんだん病気となり、亡くなってしまう。給料も遅配という環境で、ムスリマも裁縫で収入を得ながら教師をしている。そんな環境でも、子どもたちは頑張り、独立記念日のパレードに初参加し、錫公社の学校に負けないように創意工夫でダンスを仕上げる。主人公で語り手であるイカルは、その頃先生に頼まれて近くの村のお店に、学校のチョークを買いに行く。そこでチョークを出してくれた女の子の爪の美しさに一目ぼれ。思春期のときめきを経験する。タイトルの「虹の兵士たち」は校外学習で訪れた海辺で見た虹の素晴らしさに、ムスリマが子どもたち皆を「虹の兵士たち」と呼んだことから。そんな美しい自然の中の学校で、設備は恵まれないながら、そこには「心の教育」があった…。
というのも、それが校長の方針で、子どもたちには「道徳」を重視した「宗教教育」を行わないといけないという考えなのである。そこでちょっと心配がある。イスラム学校とはどんなものなのか。いわゆる「学力の保障」は出来ているのだろうか。最後に、島の学校対抗のクイズ大会があり、それにも出場しようと頑張ることになり、社会科や算数の問題も出るのである。そこで算数が得意な子がいて、その生徒ランタンが間に合うかどうか、ハラハラさせる。というのも彼の住所は海辺の漁村で、そこから自転車で来るときに道に大きなワニが出ると「通行止め」なのである。いつもはすぐ動くワニなのに、この日に限って道にずっと立ち止まってしまう…。でも間にあって、彼の活躍で同点になるが、でも最後の「時速」と「時間」の問題で彼が答えた問題が誤答とされ…。しかし、とまあ定番的な展開ではあるものの、この学校の生徒たちは二つのカップを獲得したのである。
この島最初の学校である「イスラム学校」とは何か。その国の人には自明の制度は説明されないから、どうも判らない。以下は僕の推測で間違っているかもしれないが、こんな感じではないか。近代的な学校制度ができるまでは、日本で言えば「寺子屋」のような存在で、イスラム教に基づく学校があっただろうと思う。やがて近代的な学校制度が整備され多くの生徒がそっちに通うようになっても、イスラム学校は昔からの伝統ということで、つぶされないで残る。ホントは義務教育制度があれば、すべての子どもはどこかに通う必要があるが、この島の場合貧しい家の女の子などは通ってないから、まだ義務教育ではないのである。ブリトゥン島では錫公社が従業員の子弟のための付属小学校を作っている。島の多くの家庭はそこに通わせるが、制服等があり貧しい家庭は通わせられない。そういう家庭が「イスラム学校」に通わせるが、10人という基準があるということは、一応その程度が集まれば、不十分ながら公費の補助があるということだろう。そういう公設民営のようなシステムであるまいか。貧しい家庭の子が集まる場で、「イスラム教をガチで教える学校」という存在ではない。だから、日本で言えばフリースクールとか、夜間中学などに近い感じで、山田洋次の「学校」のように教師と生徒の濃密なドラマが展開されるような場なんだと思う。校長先生は、生徒が校庭で遊んでいてなかなか教室に来ないと、「大きな舟を造ったヌーの話をするよ」という。皆目を輝かせて話を聞くが、これはノアの方舟の話なのである。イスラム教は旧約聖書を受けて成立しているから、ノア(ヌー)は共通の教材なのである。
「虹の兵士たち」のラストで、イカルは大人になっていて久しぶりに島を訪ねる感動的な場面がある。そこでイカルはソルボンヌに留学すると話すが、そこまでの経緯を語るのが「夢追いかけて」である。ブリトゥン島に高校はないので、島を出ないといけない。小学校卒業後に親が死んで引き取られたいとこのアライともうひとりジンブロンの三人はいつもつるむ友だちとなる。高校時代のバカ騒ぎ(成人映画を見に行くとか)は、青春映画定番の「三バカ大将」もので、どこの青春も同じだなあと思う。誰かを好きになり、進路を考えて悩み…。そんなドタバタも終わり、ジャワに出て受験勉強。めでたく合格し、卒業したものの、就職先はなく、イカルは郵便局で働く。そしてアライは行方不明。夢を追いかけて、島を出て大学まで来た彼らの行く末は…。というどこの国でも多分感情移入できる青春の彷徨を、ヒット曲などを散りばめながら快調に描いて行く。前作と合わせて、カット割りやカメラの移動が実にうまく、映画のリズムの快適さが伝わる。特に「虹の兵士たち」は風景が広いので、パン(カメラの横移動)が多かったように思うが、それも気持ち良いのである。
インドネシア映画「ビューティフル・デイズ」という作品があるが、それに出てくる高校では、なんと創作詩のコンクールがあってビックリした。日本の学校では考えられない。「夢追いかけて」では、先生が「好きな言葉を言え」という時間がある。「『目には目を』では、世界は盲目となる マハトマ・ガンディー」とか。これはいいなと思ったけど、日本では言えるだろうか。大人でも。この映画では、生徒が皆、スカルノ、ハッタなどの独立運動家の言葉や世界の政治家の言葉を憶えている。こういう映画を見て、発見することは、青春の世界共通性とともに、どんな国の学校にも学ぶことが多いということだと思う。
特にインドネシアは重要な国である。位置的にも、資源的にもそうだけど、ASEANNの盟主的存在として「G20」にも参加している。世界最大のムスリム人口の国でもある。中東で興ったイスラム教だが、南アジア、東南アジアに広がり、もともと人口が多いところだから、インド亜大陸からマレー半島、インドネシア一帯が世界で一番イスラム教徒が多いわけである。インドネシアでは、2002年と2005年にバリ島で爆弾テロを起こした過激派勢力もあることはあるが、その大部分は穏健なイスラム教であるのはもちろん。戒律も中東に比べれば緩やかではないか。スカルノらの作ったパンチャシラ(建国五原則)の第一は「唯一神への信仰」となっているが、イスラム教は国教ではなく、世俗国家である。唯一神信仰はキリスト教も同じである。公式に無神論を言うのはできないのではないかと思うが、そういうインドネシアの社会を理解することは、非常に大切ではないかと思う。「ごく普通のイスラム教徒」がどんな暮らしをしているか、それを知るという意味でも大事な映画である。それとともに、こういう映画を見ると(あるいは音楽などでもいいが)、その国に親しみを感じるということである。頭で考えるだけでなく、自然に親しみを感じる文化交流がベースにないと、世界との友好は成り立たない。そういう意味でも、是非公開されて欲しい映画だなと思う。