もはや「老」とか「翁」とか呼びたいジャン=リュック・ゴダール が、なんと3Dの新作を作って昨年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞してしまった。その「さらば愛の言葉よ」(Adieu au Langage)が公開されている。(東京ではシネスイッチ銀座のみ。)こういうのは名画座では(少なくとも3Dでは)見られないと思い、見に行ってきた。1930生まれのゴダールだが、クリント・イーストウッドも同年で、元気なことでは負けていない。ゴダールは判らない映画ばかりになってしまったけれど、実は21世紀に作られた「愛の世紀」「アワー・ミュージック」「ゴダール・ソシアリズム」も見ている。やはり気になる。

さて、では判ったかというと、今回も全然判らん感を抱いて映画館を出ることになる。3D用メガネを持参しないと400円追加されるにもかかわらず、上映時間は69分しかない。一分あたりのコスト・パフォーマンスがはなはだよろしくない。だけど、映像は凝縮されていて、けっこう長く感じる。なんだ映画はこのくらいの時間でいいではないかと思ったりもする。
物語性が乏しい(多少ないこともない)のは最近のゴダール作品と同じ。だから判りにくいんだけど、3Dの映像は極めて鮮烈で、なんだか世界を再発見する感じもある。わざわざ3Dにするというと、宇宙空間を駆け抜けるとか特撮に偏しているけれど、ゴダールは日常世界の人間と自然しか撮らない。わざわざ3Dにしなくてもと普通思うような素材なんだけど、新鮮で発見に満ちている。大体、3Dというのは立体感をだすためのはずなのに、なんだか判らない目くるめく映像体験のために使っている。わざわざ左右をずらせているのである。そういう使い方があるわけだと3Dアートの世界を切り拓いた。
男と女がいて、その関係をたどる中に、犬が出てきて「犬の目」で世界を示す。この犬はゴダールの愛犬だそうで、カンヌ映画祭の「パルムドッグ賞」受賞。(これは「アーティスト」で危機を知らせた犬などに授賞するシャレ。)人間は「言葉」に囚われているが、犬は「自由」に世界を生きる。ついに、人間界をも相対化する映画に行きついたのか。ゴダールは、やはり只者ならず。でも、全然判らないな。
今では判る「勝手にしやがれ」だって、公開当時は判りにくいと思われた。「気狂いピエロ」だって判りやすくはないだろう。だけど、初期作品は「物語」が詰まっていたのは確かだった。「東風」などの政治映画を作った時が、ある意味では一番判りやすい映画だったのかもしれない。詰まらないだけで。当時の映画は、言語によるプロパガンダに映像が従属していた。今回はついに「Adieu au Langage」だから、「愛の言葉」は邦題であって、言葉そのものにサラバと告げているのか。しかし、実は書物からの引用が相変わらず多く、それは日本語字幕で追わなければならないので、3D映像に耽溺するジャマになる。やっぱり、けっこう「言葉の映画」なのである。今でもゴダールに、あるいは映像表現の可能性に関心を持つ少数の人は見ておいた方がいいかもしれない。大方の人には勧めないけど、まあ、こういう映画もあるという話。どんなもんかと見てみたい人はどうぞ。


さて、では判ったかというと、今回も全然判らん感を抱いて映画館を出ることになる。3D用メガネを持参しないと400円追加されるにもかかわらず、上映時間は69分しかない。一分あたりのコスト・パフォーマンスがはなはだよろしくない。だけど、映像は凝縮されていて、けっこう長く感じる。なんだ映画はこのくらいの時間でいいではないかと思ったりもする。
物語性が乏しい(多少ないこともない)のは最近のゴダール作品と同じ。だから判りにくいんだけど、3Dの映像は極めて鮮烈で、なんだか世界を再発見する感じもある。わざわざ3Dにするというと、宇宙空間を駆け抜けるとか特撮に偏しているけれど、ゴダールは日常世界の人間と自然しか撮らない。わざわざ3Dにしなくてもと普通思うような素材なんだけど、新鮮で発見に満ちている。大体、3Dというのは立体感をだすためのはずなのに、なんだか判らない目くるめく映像体験のために使っている。わざわざ左右をずらせているのである。そういう使い方があるわけだと3Dアートの世界を切り拓いた。
男と女がいて、その関係をたどる中に、犬が出てきて「犬の目」で世界を示す。この犬はゴダールの愛犬だそうで、カンヌ映画祭の「パルムドッグ賞」受賞。(これは「アーティスト」で危機を知らせた犬などに授賞するシャレ。)人間は「言葉」に囚われているが、犬は「自由」に世界を生きる。ついに、人間界をも相対化する映画に行きついたのか。ゴダールは、やはり只者ならず。でも、全然判らないな。
今では判る「勝手にしやがれ」だって、公開当時は判りにくいと思われた。「気狂いピエロ」だって判りやすくはないだろう。だけど、初期作品は「物語」が詰まっていたのは確かだった。「東風」などの政治映画を作った時が、ある意味では一番判りやすい映画だったのかもしれない。詰まらないだけで。当時の映画は、言語によるプロパガンダに映像が従属していた。今回はついに「Adieu au Langage」だから、「愛の言葉」は邦題であって、言葉そのものにサラバと告げているのか。しかし、実は書物からの引用が相変わらず多く、それは日本語字幕で追わなければならないので、3D映像に耽溺するジャマになる。やっぱり、けっこう「言葉の映画」なのである。今でもゴダールに、あるいは映像表現の可能性に関心を持つ少数の人は見ておいた方がいいかもしれない。大方の人には勧めないけど、まあ、こういう映画もあるという話。どんなもんかと見てみたい人はどうぞ。