尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「ジミー、野を駆ける伝説」

2015年02月02日 23時54分59秒 |  〃  (新作外国映画)
 「ジミー、野を駆ける伝説」という映画は、イギリスのケン・ローチ監督(1936~)が今の世界に対して放った快作で、今こそ見て欲しい映画。常に労働者階級、名もなき民衆に心を寄せた映画を作り続けてきた巨匠ケン・ローチ、78歳にして今も健在なり。最高傑作だと思う「麦の穂をゆらす風」(カンヌ映画祭最高賞)で描いたアイルランド内戦の悲劇、そこから10年ほど経った1930年代アイルランドの農村が舞台である。自由で気高いひとりの男を印象的に描いて、今を生きるわれわれにメッセージを託した。
 
 1932年、ジミー・グラルトン(バリー・ウォード)は10年ぶりにアメリカからアイルランドに帰国した。内戦後に国外追放になっていたが、1932年の選挙で政権が交代し帰れるようになったのである。と言っても、このジミーという人物は有名な人物ではない。実在の人物だと言うが、ほとんど知られていない人物で、そういう「無名の人物」の高潔な志を描いたことが、この映画の最大の特徴であり感動するところである。では、ジミーという人は何をしたのか。政治的な革命家などではなかった。明らかに労働者、農民の運動を支持している人物だと描かれているが、やったことは「ジミーのホール」(原題)という文化活動の拠点を作ったことなのである。

 ジミーは老いた老母とともに静かに暮らしたかったように思うが、村の若者たちには「ジミーのホール」が伝説化していて、地主の娘を含む多くの人々が「是非再開して」と訴える。ジミーは久しぶりに廃屋になっていたホールを開けて、整備を始める。そこでは昔、詩を読み、絵をかき、ボクシングを練習し、何よりも音楽とダンスを楽しんだ。教会堂では得られない「文化の殿堂」であり、学びと楽しみの場であるとともに、皆が集って何でも語り合い恋と友情を育む場だった。しかし、それが地主階級とカトリック教会には警戒され、村に自由の風を吹かせる「共産主義者」であるとみなされ、ジミーは追放されたのである。こういう「文化運動」は日本でも、大正時代や戦後改革期に全国で数多く見られたものである。だんだん忘れられてしまって、映画などでも余り描かれないが、非常に大切なものだったと思う。

 ホールが再開されると、多くの若者を含めて多数が集まりダンスを楽しんだが、誰が来ているかを教会の神父はチェックしていた。教会の説教では、神父はホールは無神論者、共産主義者の場所であると説く。ジミーは教会に行って神父に「ホールの運営委員に加わって欲しい」と頼むが、神父はどうせ多数決で自分の意見は反対されると断る。ジミーの声望は高まり、地主に追い出された農民を救援するためジミーに演説して欲しいと頼まれる。内部ではどうするか、応えるべきか、それとも挑発と取られないようにするべきか、激論が交わされる。結局、農民について行ったジミーは頼まれて演説にたって、感動的なスピーチをした。そういう姿勢が村の支配勢力を怒らせて、弾圧が企まれていく。ある日、ホールは放火されて全焼し、神父の中にも「いまキリストが再臨したら、また十字架に掛けられる雰囲気だ」と批判する人も出てくる。ジミーは懺悔の場を借りて、神父にたいして「あなたの心には、愛ではなく憎しみの方が多い」と言い放つ。

 自由に生き、誠実に働き、私欲を求めず、皆のために生きたジミー。自由に歌い、自由にダンスができる環境を求めただけなのに。そして、神の名のもとに「愛ではなく憎しみを説く」者への痛烈な批判。今の日本へ、今の世界へ、心の底からのメッセージである。今だからこそ、特に痛感したのは「政教分離」という原則がどうして作られてきたかという問題である。宗教勢力が保守派、富裕層と結託し、神の名を利用して民衆を押さえつけ、自由な考えを持てないようにしてきたのである。だから、自分たちで芸術、スポーツ、娯楽を楽しむ場を作るという、それだけのことが憎しみの的となったのである。80年前にアイルランドで起こったことは、今の世界にも通じてしまうのは悲しい。ジミーはふたたび国外追放とされ、二度と戻ることはできなかったということである。1945年に亡くなり、どんな人物かもよく判らない、ホントに「伝説の人物」だったらしい。ジミーの「生きざま」が心に沁みとおる、忘れられない映画である。アイルランドの農村風景も美しく、心が洗われる。
コメント (2)
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