世界はイラク、ガザ、ウクライナとますます風雲急を告げているが、僕にはニュース以上の情報もないし、まだ銀座散歩の続き。今回は、今までよりさらに時代離れした「新橋芸者」の話。半分以上は「荷風散歩」の続きでもある。地名としては銀座を少し出るときもある。というか、そもそも「新橋芸者」というんだから、新橋だろうと思われるかもしれない。新橋というのは、JR山手線で東京駅から有楽町を経て2つ目の駅である。行政としては港区になる。
ところが、それが違ったのである。荷風の年表を見ると、一度結婚したが父の死後すぐに離婚、なじみの芸者だった八重次と結婚したが、再び一年もたたずに離婚、という有名な話が出てくる。この「八重次」という人が「新橋芸者」だとある。荷風の代表的な傑作のひとつ「腕くらべ」は、新橋芸者の世界を描いたとある。主人公の芸者は金春通りに置屋があるとか、ひいきの役者が新富座で公演するとかという話が出てくる。そこで調べてみると、新橋芸者とは「銀座の芸者」のことだったのである。
先に新橋の説明として、東京駅から2つ目と書いたけれど、これは今の東京人の脳内地図では大体そう書いてあると思う。山手線(東京環状線)は東京駅が起点のように思い込んでいるからである。でも、東京駅の開業は1914年、つまり今年が東京駅100年なのである。有楽町駅は1910年の開業、神田、秋葉原などはもっと後で、そもそも明治時代には山手線はなかったのである。日本の鉄道は1872年に新橋ー横浜間が開業した。その話は教科書で習っていても、以後のことは意識しない。最初は品川から大きく山の手側にアルファベットのCの字のように鉄道が整備されていったのである。上野-新橋間の敷設が遅れたのは、各地の城下町などによくあるように、中心部の商業中心地には鉄道を引きにくかったためだという。環状運転が開始されるのは、1925年のこととなる。
東京駅がないんだから、明治時代には首都東京の表玄関は新橋駅(今の汐留)だったのである。もちろん地下鉄なんかないから、銀座というところも新橋駅が最寄り駅である。だんだん路面電車(後の東京市電、今の都電)が発達してくるが、それまでは新橋が銀座の正面出口だったのである。だから、今でも銀座や築地の芸者を「新橋芸者」と呼ぶし、芸者の組合は「東京新橋組合」となるが、場所としては「銀座8丁目」にある新橋会館にあり、その前の通りは「見番通り」と呼ばれている。
もっとも「新橋会館」というのは単なる商業ビルに見える。「見番通り」も特に風情があるわけではない。ホームページによると、「東京新橋組合」は料亭部と芸妓部に分かれ、新橋会館の7階に芸妓部の事務所や稽古場がある。でも、この一帯はバーやクラブなどが多く、夕方ともなれば和服姿の女性が多く行き来している。そういう中に芸者さんもいるのかなと思うけど、まあ銀座では歩いていて出会えるという感じではないと思う。見番通りは、中央通りの7丁目交差点、資生堂パーラーのところから花椿通りを西へ行って2本目の通り。1本目が「金春通り」である。ここは江戸時代に能役者の金春家の屋敷があったところだという。屋敷は後に移ったが、跡地に芸者が集まり花街として栄えたと解説プレートに出ている。この通りも今も飲み屋が多いようだが、「金春湯」という銭湯がある。
京大阪には立派な演舞場があるが東京にも作りたいと作られたのが「新橋演舞場」だという。1925年のことである。後、松竹に興行を委託し歌舞伎などの興行を行っているが、もともと新橋芸者の芸向上のため造られたところで、今も「東をどり」を行っている。ホームページの「演目・出演者紹介」というところを見ると踊りの動画が見られる。これもホームページで見つけたのだが、8月の終りに「なでしこの踊り」という催しが行われる。新橋演舞場地下特設会場にて、「一見さんお断りの新橋花街文化を、夏の涼みとともに味わう特別な五日間」だそうで、「お座敷遊びの体験と新橋芸者衆の芸の神髄を、新橋演舞場の会席弁当とともにお楽しみいただきます。」とのこと。料金は9000円なり。この新橋演舞場の真ん前が、かの有名な料亭の「金田中」である。もちろん今回調べて知ったのである。塀が長く続いて店の名が小さい。料亭は皆そんな感じ。3枚目は夜散歩した時。
新橋組合の役員名簿を見ると、「金田中」(銀座7丁目)や「新喜楽」(築地4丁目)などの超有名料亭の名前がズラッと並んでいる。つまり、花街というのは「一見さんお断り」の高級料亭で芸者を呼んで芸を楽しむところということになるか。「新喜楽」というのは築地市場やがんセンターの真ん前にある料亭で、芥川賞・直木賞の選考会が開かれることで有名である。佐藤栄作元首相が倒れたところとも出ている。この二つの店は僕でも名前ぐらいは聞いたことがあるが、もちろん行ったことはない。この二つが「日本の二大料理屋」なんだそうで、これに「吉兆」(東京店)(銀座8丁目)を加えて「日本三大料亭」なんだという。最初と2枚目の写真が「新喜楽」、最後が「吉兆」。料亭は大体似た感じの外見。
東京で今も芸者のいる街(花街)は、「東京六花街」という。柳橋、芳町、新橋、赤坂、神楽坂、浅草。芳町は人形町の地名、柳橋は浅草橋で降りて隅田川沿いの一帯で幸田文「流れる」の舞台だけど、だんだん衰退して今は一つも料亭がない。そこで柳橋を除き、今は向島を入れて「六花街」と呼んでいるとのこと。昔は柳橋と新橋で「二橋」と言われたらしい。江戸時代は柳橋が一番栄えていたが、その分旧幕びいきで薩長を田舎サムライとバカにした。薩長新政府の中心が霞ヶ関、日比谷などに置かれたため、明治になると新政府は新橋(銀座)を主に使った。ということで、権力と結びつき政治家や実業界と持ちつ持たれつ、花街が栄えてきたという歴史。今は芸者が少ない街もあるが、中では新橋は50人以上いて、ホームページに顔を載せている人も多いので、関心がある人は見ることができる。まあ、もちろん美人ぞろい。
ところが、それが違ったのである。荷風の年表を見ると、一度結婚したが父の死後すぐに離婚、なじみの芸者だった八重次と結婚したが、再び一年もたたずに離婚、という有名な話が出てくる。この「八重次」という人が「新橋芸者」だとある。荷風の代表的な傑作のひとつ「腕くらべ」は、新橋芸者の世界を描いたとある。主人公の芸者は金春通りに置屋があるとか、ひいきの役者が新富座で公演するとかという話が出てくる。そこで調べてみると、新橋芸者とは「銀座の芸者」のことだったのである。
先に新橋の説明として、東京駅から2つ目と書いたけれど、これは今の東京人の脳内地図では大体そう書いてあると思う。山手線(東京環状線)は東京駅が起点のように思い込んでいるからである。でも、東京駅の開業は1914年、つまり今年が東京駅100年なのである。有楽町駅は1910年の開業、神田、秋葉原などはもっと後で、そもそも明治時代には山手線はなかったのである。日本の鉄道は1872年に新橋ー横浜間が開業した。その話は教科書で習っていても、以後のことは意識しない。最初は品川から大きく山の手側にアルファベットのCの字のように鉄道が整備されていったのである。上野-新橋間の敷設が遅れたのは、各地の城下町などによくあるように、中心部の商業中心地には鉄道を引きにくかったためだという。環状運転が開始されるのは、1925年のこととなる。
東京駅がないんだから、明治時代には首都東京の表玄関は新橋駅(今の汐留)だったのである。もちろん地下鉄なんかないから、銀座というところも新橋駅が最寄り駅である。だんだん路面電車(後の東京市電、今の都電)が発達してくるが、それまでは新橋が銀座の正面出口だったのである。だから、今でも銀座や築地の芸者を「新橋芸者」と呼ぶし、芸者の組合は「東京新橋組合」となるが、場所としては「銀座8丁目」にある新橋会館にあり、その前の通りは「見番通り」と呼ばれている。
もっとも「新橋会館」というのは単なる商業ビルに見える。「見番通り」も特に風情があるわけではない。ホームページによると、「東京新橋組合」は料亭部と芸妓部に分かれ、新橋会館の7階に芸妓部の事務所や稽古場がある。でも、この一帯はバーやクラブなどが多く、夕方ともなれば和服姿の女性が多く行き来している。そういう中に芸者さんもいるのかなと思うけど、まあ銀座では歩いていて出会えるという感じではないと思う。見番通りは、中央通りの7丁目交差点、資生堂パーラーのところから花椿通りを西へ行って2本目の通り。1本目が「金春通り」である。ここは江戸時代に能役者の金春家の屋敷があったところだという。屋敷は後に移ったが、跡地に芸者が集まり花街として栄えたと解説プレートに出ている。この通りも今も飲み屋が多いようだが、「金春湯」という銭湯がある。
京大阪には立派な演舞場があるが東京にも作りたいと作られたのが「新橋演舞場」だという。1925年のことである。後、松竹に興行を委託し歌舞伎などの興行を行っているが、もともと新橋芸者の芸向上のため造られたところで、今も「東をどり」を行っている。ホームページの「演目・出演者紹介」というところを見ると踊りの動画が見られる。これもホームページで見つけたのだが、8月の終りに「なでしこの踊り」という催しが行われる。新橋演舞場地下特設会場にて、「一見さんお断りの新橋花街文化を、夏の涼みとともに味わう特別な五日間」だそうで、「お座敷遊びの体験と新橋芸者衆の芸の神髄を、新橋演舞場の会席弁当とともにお楽しみいただきます。」とのこと。料金は9000円なり。この新橋演舞場の真ん前が、かの有名な料亭の「金田中」である。もちろん今回調べて知ったのである。塀が長く続いて店の名が小さい。料亭は皆そんな感じ。3枚目は夜散歩した時。
新橋組合の役員名簿を見ると、「金田中」(銀座7丁目)や「新喜楽」(築地4丁目)などの超有名料亭の名前がズラッと並んでいる。つまり、花街というのは「一見さんお断り」の高級料亭で芸者を呼んで芸を楽しむところということになるか。「新喜楽」というのは築地市場やがんセンターの真ん前にある料亭で、芥川賞・直木賞の選考会が開かれることで有名である。佐藤栄作元首相が倒れたところとも出ている。この二つの店は僕でも名前ぐらいは聞いたことがあるが、もちろん行ったことはない。この二つが「日本の二大料理屋」なんだそうで、これに「吉兆」(東京店)(銀座8丁目)を加えて「日本三大料亭」なんだという。最初と2枚目の写真が「新喜楽」、最後が「吉兆」。料亭は大体似た感じの外見。
東京で今も芸者のいる街(花街)は、「東京六花街」という。柳橋、芳町、新橋、赤坂、神楽坂、浅草。芳町は人形町の地名、柳橋は浅草橋で降りて隅田川沿いの一帯で幸田文「流れる」の舞台だけど、だんだん衰退して今は一つも料亭がない。そこで柳橋を除き、今は向島を入れて「六花街」と呼んでいるとのこと。昔は柳橋と新橋で「二橋」と言われたらしい。江戸時代は柳橋が一番栄えていたが、その分旧幕びいきで薩長を田舎サムライとバカにした。薩長新政府の中心が霞ヶ関、日比谷などに置かれたため、明治になると新政府は新橋(銀座)を主に使った。ということで、権力と結びつき政治家や実業界と持ちつ持たれつ、花街が栄えてきたという歴史。今は芸者が少ない街もあるが、中では新橋は50人以上いて、ホームページに顔を載せている人も多いので、関心がある人は見ることができる。まあ、もちろん美人ぞろい。