尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

第一次世界大戦とは何だったかー第一次大戦100年①

2014年07月03日 23時20分01秒 |  〃 (歴史・地理)
 2014年は第一次世界大戦が起こってから100年目の年になる。第一次世界大戦は、戦場がヨーロッパが中心だったこともあり、日本ではなかなか理解されていない。どことどこが戦ったのか、正確に言える人は少ないのではないか。しかし、第一次世界大戦は「現代史の起点」である。基本的なことは知っていないとまずい。また、第一次世界大戦の「戦後処理」が今も尾を引いている問題が世界には多い。そういった問題を2回に分けて書いておきたい

 1914年6月28日に、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエヴォ事件が起きた。当時ボスニアはオーストリア=ハンガリー二重帝国の領土とされていた。そのオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドに対し、隣国セルビアの民族主義者ガブリロ・プリンツェフが爆弾を投げつけて暗殺した。今年は記念行事も行われたというが、プリンツェフに対する評価は、近隣諸国の間で対立が続いている。サラエヴォは、ユーゴスラヴィア崩壊後に悲惨な内戦が起こったボスニア・ヘルツェゴビナの首都である。
(サラエヴォ事件)
 暗殺事件直後の時点で、これをきっかけに世界大戦が起こると考えた人は誰もいなかった。第二次世界大戦は、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、3日には英仏がドイツに宣戦布告した。しかし、第一次世界大戦では、オーストリアがセルビアに宣戦布告するまでに1カ月かかった(7月28日)。その後8月1日にドイツがロシアに宣戦、3日にドイツがフランスに宣戦、4日にイギリスがドイツに宣戦と、どんどん戦争が拡大した。日本は8月23日に日英同盟を理由にドイツに宣戦布告した。

 当時ヨーロッパの「列強」は2つの陣営に分かれて対立していた。20世紀初頭には、イギリスはロシアの南下がインド支配や中国情勢に影響を与えるのを恐れて、日英同盟(1902年)、日露戦争(1904~05年)で日本を支援した。それ以後はドイツが強大化して、「三国協商」(イギリス、フランス、ロシア)と「三国同盟」(ドイツ、オーストリア、イタリア)が対立した。戦争になるとイタリアは同盟国を抜けて連合国(協商国)に参加した。トリエステなどのオーストリア領「未回収のイタリア」という領土問題が存在し、連合国は秘密裏に返還を約束してイタリアを引き抜いた。その代りにドイツと友好関係にあったオスマン帝国がドイツ、オーストリア側にたって参戦した。

 その頃、バルカン半島は戦争が絶えず、「ヨーロッパの火薬庫」と言われていた。伊土戦争(1911、イタリア対オスマン帝国)、第一次バルカン戦争(1912、オスマン帝国対ギリシャ・ブルガリア・セルビア・モンテネグロ)と第二次バルカン戦争(1913、ブルガリア対ギリシャ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア)など戦争が相次いだ。伊土戦争は北アフリカのリビアの争奪だが、イタリアの勝利を見たバルカン諸国はオスマン帝国を攻撃した。勝利後は領土の帰属で仲たがいして、第二次バルカン戦争が起きた。だから今度は「第三次バルカン戦争」が起きたかと多くの国々が思っていた。

 戦争の経過をずっと追っていくと大変だが、西部戦線(ドイツ対フランス・イギリス)も東部戦線(ドイツ対ロシア)もこう着状態となった。「塹壕戦」(ざんごうせん=穴を掘った陣地に立てこもり、本格的な地上攻撃ができない状況がずっと続く)となり、戦争が長引いた。ドイツの無差別潜水艦攻撃を理由に、アメリカがイギリス側で参戦し、やがて連合国有利に進展する。また毒ガスなどの「新兵器」が登場し、今までの戦争と全く様相を異にした大惨事になった。当時のイギリス国王ジョージ5世は、ヴィクトリア女王の長男エドワード7世の次男。一方ドイツのウィルヘルム2世の母ヴィクトリアはヴィクトリア女王の長女で、二人はヴィクトリア女王の孫どうしだった。
(「塹壕線」)
 第一次世界大戦は「総力戦」の始まりだった。毒ガス、潜水艦、戦車、飛行機などが使用され、「科学戦」でもあった。国家が総力を挙げて戦う時代が始まった。だから、犠牲者も兵士だけでなく、「銃後」の民衆にも広がった犠牲者1000万人とも言われる。戦争の負担に耐えられないロシアでは革命が起こり、「社会主義革命」まで進んだ。戦争が終わったのもドイツの厭戦気分が広がりドイツ革命が起こったからである。ロシア、ドイツ、オーストリア、オスマンの4大帝国が崩壊した。戦争に勝利した英仏日の植民地は残っていたが、ヨーロッパでは基本的に「民族自決」が実現した。

 直接戦火に見舞われなかったアメリカが世界経済の中心となり、世界政治への影響力も強まった。ウィルソン大統領の提案により、国際的平和機関として国際連盟が成立した。アメリカは上院の反対で参加しなかったが、それでも「そういうものができた」という「人類史的意義」は大きい。(日本も常任理事国となり、新渡戸稲造や柳田國男などが活躍した。)国際労働機関(ILO)、国際連盟保健機関(WHOの前身)、ナンセン国際難民事務所(UNHCR=国連難民高等弁務官事務所の前身)、国際司法裁判所など国際的な専門機関が作られ「国際的協調」が世界に広まった。

 英仏の植民地だったアフリカ諸国やインドなどの兵士も動員され、まさに「世界大戦」になった。オスマン帝国辺境でアルメニア人の大虐殺が起きたり、現在のパレスティナ問題につながる問題も起こった。日本は中国山東半島にあったドイツの海軍基地チンタオ(青島)を攻撃し、山東半島を占領した。その「成果」を中国に認めさせるため、1915年に「21カ条要求」を突き付け、強引に認めさせた。日本が最後通牒を発した5月7日と要求を認めさせられた5月9日を、中国は「国恥記念日」と呼んだ。1919年にヴェルサイユ条約で日本の山東省権益が中国の反対にもかかわらず認められると、5月4日、北京の学生数千人が天安門広場からデモを始めた。これが「五四運動」で、中国現代史の始まりとされる。
(五・四運動)
 ヴェルサイユ条約のドイツに対する過大な賠償金が、ワイマール共和国の崩壊とナチス勃興の主要な原因となったと言われる。結局、「人類は第二次世界大戦を防げなかった」のである。それが「第一次世界大戦を考える意味」であり、「アウシュヴィッツとヒロシマのあとで、戦争をなくすことが人類にはできるのだろうか」という問いに向かい合うことが、第一次世界大戦を考える意味でもある。
コメント (2)
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