永井荷風のゆかりの地を訪ね歩くのも長くなりそうな気がしてきたので、「文学映画散歩」というカテゴリーを作ることにした。「映画散歩」をするかどうかも分からないけど。さて、永井荷風という人も、どうも読んでないという人がいると思うので、荷風の人生を紹介しながら墓の話を。
荷風という人は、奇人変人、偏屈な人嫌い、孤独癖、孤高の人、徹底した個人主義者などと言われることが多い。結婚も二度したがすぐに別れてしまい、「シングルライフの元祖」のような生活を何十年と続けた。夕食は主に外食で、女性関係は「玄人女性」との交流に限定した。その中で得た見聞を小説に書いたので、花柳界の女性(芸者)や娼婦などを扱った作品が多い。だから、男性中心主義的な小説ではないかと思われて避けてしまう女性の文学ファンもいるのではないだろうか。
しかし、そういう理解は間違っていると思っている。永井荷風はフランスに憧れ、ボードレールやゾラなどを愛読した。しかし彼が本格的に「社会小説」を書こうとしても、東京は巴里ではない。日本の政治も企業も、欧米的な意味での資本主義社会の構成者ではなかった。日本の結婚も個人の自由で決まるものではなかった。だから明治大正の文学には、家の重圧で意に染まぬ結婚を強いられた女性が何人も登場する。なまじ教育を受け「初恋」なんか知ってしまったから、思いきるのに悩みがつきない。そういう未練を書きつづるのが、ある意味で明治文学の青春だった。しかし、大正以後の花柳界を舞台にした荷風の小説では、「恋のかけひき」や「自由恋愛(らしきもの)」が書かれている。それは男社会、階級社会の存在を前提にしているものの、一種の「社会風俗小説」、つまり欧米的な意味での小説に近くなっている。フランスでも「高級娼婦」が出てくる小説がたくさん書かれたが、日本でも「近代前期」においては「玄人女性」しか「自立した女性」が存在しなかったのである。
荷風の本名は永井壯吉で、父久一郎の長男として1879年に生まれた。一族は尾張藩に仕えたこともある豪農の出で、尾張藩の儒学者、鷲津毅堂の塾に学んで頭角を現し、明治になると藩命で米国に留学した。帰国後に工部省、文部省、内務省などに出仕するとともに、かつての師鷲津家の次女、恒と結婚した。留学経験のある新政府の官僚を父に、儒学者の娘を母に持つというのは、ちょっと考えても鬱陶しいことこの上ないだろうと思う。どうも壯吉少年は体が弱くスポーツに向いていないし、学問好きでもなかったようである。12歳で高等師範附属中(今の筑波大附属)に入学したものの、高校や帝国大学には入学できなかった。一ツ橋高等商業学校附属外国語学校清語科なるところに18歳で入学したが、出席不足のため20歳で除籍されたというのが最終学歴である。
それどころか、年表を見ると18歳で初めて吉原に出かけ、20歳で落語家に弟子入り、21歳で歌舞伎座で福地桜痴の弟子となるなどとある。遊芸に目覚め、本格的に官僚エリート社会から外れてしまったのである。親からすれば頭が痛かったことだろう。学校を出ていないので官僚は無理としても、何とか親の力で有力会社にでも入れたかったことだと思う。今なら若い時に音楽活動をしていたなどと言っても不思議に思う人はないけど、明治時代にエリート官僚の子どもが「芸能界」を目指すなど、あってはならないスキャンダルである。
それどころか、小説なるものも書き始め、「新任知事」という作品を書いて、これが叔父(父の弟)の福井県知事、阪本之助(さかもと・さんのすけ)を批判したものとして、叔父は激怒し絶交されるという家族内の波乱を引き起こしている。この阪本なる人物は、実は作家・詩人の高見順の父親なのであるが、(だから永井荷風と高見順は「いとこ」にあたる)、ウィキペディアを見ると驚くべきことが書いてある。「母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性」というのである。高見順は一度も実父に会ったこともなく、後に母子で上京し、「私生児」といじめられながら、一高、東大に合格した。こういう叔父などは筆誅を加えてしかるべき存在だろう。
荷風は名作「すみだ川」を1903年(24歳)で発表し、新進作家として地歩を固めつつあったが、父はそれを認めず荷風をアメリカに留学させることにした。しかし、アメリカでも大学を出ることはなく、イデスなる女性と交際するようになる。父は横浜正金銀行ニューヨーク支店の勤務を命じるが、荷風はオペラ通い。そこで父が手をまわしてフランスのリヨン支店に転勤をさせるが、荷風は仕事はそっちのけで辞職してしまい、憧れのパリで芝居やオペラ通いに歓喜した。この間、日本人の目で欧米を観察、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いていた。パリで知り合った上田敏の推薦で「あめりか物語」が刊行されたのは、荷風が日本に戻る船中のことだった。帰ってみれば、新進の人気作家となっていたわけである。父の計略は逆効果。
帰国の2年後、1910年、31歳の荷風は森鴎外、上田敏の推挙で慶應義塾大学に教授として迎えられる。一応、ここが荷風の社会生活の最上だった。父もまあそれなりに認めたのか、結婚させれば何とかなるということだろうが、1912年9月に湯島の材木商斎藤政吉の娘ヨネと結婚した。ところが年末には、前からなじみの芸者八重次と箱根に旅行している最中に父が脳溢血で倒れた。よりによって芸者と温泉にしけこんでいるときに親が倒れなくてもいいようなもんだけど、荷風の運命は根っからの親不孝者に出来ているのである。父は翌年1月2日に死去。さっそくヨネを離婚し、翌年1914年には八重次と結婚してしまい、弟とは絶縁となり30年以上会うことはなかった。ところが、もう翌年には八重次も家を出てしまい、1916年には慶應大学教授も辞職する。
以後はずっとシングルで、散歩と文筆の日々ということだけど、この荷風の前半生を見れば、「荷風は誰をも愛することのなかった徹底した個人主義者」などというのは「半面の真実」であって、そんな人は文学者や画家などには無数にいるだろうと思う。でも荷風は「仮面の結婚」を続けるには純粋に過ぎたという方が当たっている。「すみだ川」を読めば判るが、この純真可憐な少年の魂を美しく歌い上げる詩人というのが荷風の本質である。欧米を見たことで、日本の近代の不純が身に沁みた。ましてや、わが一族の中に上層階級であることによる不義腐敗の匂いを嗅いできた。それでも父が生きているときは、結婚せざるを得なかった。それほど「家父長制度」の存在は重いのである。一度結婚して捨てられたヨネは可哀想だけど、荷風はだからガマンしていられるという人ではなかった。
荷風が下層の女性を描くときに目は、冷徹でありつつも暖かいものがある。リッチな生まれであることが魂の幸せにはつながらないことがよく判るのである。だから、荷風は本当は三ノ輪の浄閑寺(じょうかんじ)に葬られることを望んでいた。「遊女の投げ込み寺」である。吉原の身寄りのない遊女を葬った。その中の一人になりたかったのであるが、死後のことは自分ではどうしようもない。父が用意した都立雑司ヶ谷霊園の中に荷風の墓があるのである。まあ、どうしようもないことであるし、墓自体には関心がないのでどうでもいい。雑司ヶ谷霊園は夏目漱石やジョン万次郎などの墓があるところで、荷風の墓はわりと入り口近くにあった。ところどころに看板があるので、大きな案内はないが何とか分かった。拡大すれば永井荷風の字が読めると思う。
一方、浄閑寺には荷風の碑が作られた。寺の裏の方、吉原遊女の慰霊塔の真ん前である。隣には山谷の労働者を祀る「ひまわり地蔵」もある。他にも三笑亭歌笑などいろいろある寺なのだけど、とりあえず荷風の碑と刻印されている「震災」の文章を載せておきたい。文には重複あり。
新吉原総慰霊塔の写真なども載せておきたい。
荷風という人は、奇人変人、偏屈な人嫌い、孤独癖、孤高の人、徹底した個人主義者などと言われることが多い。結婚も二度したがすぐに別れてしまい、「シングルライフの元祖」のような生活を何十年と続けた。夕食は主に外食で、女性関係は「玄人女性」との交流に限定した。その中で得た見聞を小説に書いたので、花柳界の女性(芸者)や娼婦などを扱った作品が多い。だから、男性中心主義的な小説ではないかと思われて避けてしまう女性の文学ファンもいるのではないだろうか。
しかし、そういう理解は間違っていると思っている。永井荷風はフランスに憧れ、ボードレールやゾラなどを愛読した。しかし彼が本格的に「社会小説」を書こうとしても、東京は巴里ではない。日本の政治も企業も、欧米的な意味での資本主義社会の構成者ではなかった。日本の結婚も個人の自由で決まるものではなかった。だから明治大正の文学には、家の重圧で意に染まぬ結婚を強いられた女性が何人も登場する。なまじ教育を受け「初恋」なんか知ってしまったから、思いきるのに悩みがつきない。そういう未練を書きつづるのが、ある意味で明治文学の青春だった。しかし、大正以後の花柳界を舞台にした荷風の小説では、「恋のかけひき」や「自由恋愛(らしきもの)」が書かれている。それは男社会、階級社会の存在を前提にしているものの、一種の「社会風俗小説」、つまり欧米的な意味での小説に近くなっている。フランスでも「高級娼婦」が出てくる小説がたくさん書かれたが、日本でも「近代前期」においては「玄人女性」しか「自立した女性」が存在しなかったのである。
荷風の本名は永井壯吉で、父久一郎の長男として1879年に生まれた。一族は尾張藩に仕えたこともある豪農の出で、尾張藩の儒学者、鷲津毅堂の塾に学んで頭角を現し、明治になると藩命で米国に留学した。帰国後に工部省、文部省、内務省などに出仕するとともに、かつての師鷲津家の次女、恒と結婚した。留学経験のある新政府の官僚を父に、儒学者の娘を母に持つというのは、ちょっと考えても鬱陶しいことこの上ないだろうと思う。どうも壯吉少年は体が弱くスポーツに向いていないし、学問好きでもなかったようである。12歳で高等師範附属中(今の筑波大附属)に入学したものの、高校や帝国大学には入学できなかった。一ツ橋高等商業学校附属外国語学校清語科なるところに18歳で入学したが、出席不足のため20歳で除籍されたというのが最終学歴である。
それどころか、年表を見ると18歳で初めて吉原に出かけ、20歳で落語家に弟子入り、21歳で歌舞伎座で福地桜痴の弟子となるなどとある。遊芸に目覚め、本格的に官僚エリート社会から外れてしまったのである。親からすれば頭が痛かったことだろう。学校を出ていないので官僚は無理としても、何とか親の力で有力会社にでも入れたかったことだと思う。今なら若い時に音楽活動をしていたなどと言っても不思議に思う人はないけど、明治時代にエリート官僚の子どもが「芸能界」を目指すなど、あってはならないスキャンダルである。
それどころか、小説なるものも書き始め、「新任知事」という作品を書いて、これが叔父(父の弟)の福井県知事、阪本之助(さかもと・さんのすけ)を批判したものとして、叔父は激怒し絶交されるという家族内の波乱を引き起こしている。この阪本なる人物は、実は作家・詩人の高見順の父親なのであるが、(だから永井荷風と高見順は「いとこ」にあたる)、ウィキペディアを見ると驚くべきことが書いてある。「母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性」というのである。高見順は一度も実父に会ったこともなく、後に母子で上京し、「私生児」といじめられながら、一高、東大に合格した。こういう叔父などは筆誅を加えてしかるべき存在だろう。
荷風は名作「すみだ川」を1903年(24歳)で発表し、新進作家として地歩を固めつつあったが、父はそれを認めず荷風をアメリカに留学させることにした。しかし、アメリカでも大学を出ることはなく、イデスなる女性と交際するようになる。父は横浜正金銀行ニューヨーク支店の勤務を命じるが、荷風はオペラ通い。そこで父が手をまわしてフランスのリヨン支店に転勤をさせるが、荷風は仕事はそっちのけで辞職してしまい、憧れのパリで芝居やオペラ通いに歓喜した。この間、日本人の目で欧米を観察、「あめりか物語」「ふらんす物語」を書いていた。パリで知り合った上田敏の推薦で「あめりか物語」が刊行されたのは、荷風が日本に戻る船中のことだった。帰ってみれば、新進の人気作家となっていたわけである。父の計略は逆効果。
帰国の2年後、1910年、31歳の荷風は森鴎外、上田敏の推挙で慶應義塾大学に教授として迎えられる。一応、ここが荷風の社会生活の最上だった。父もまあそれなりに認めたのか、結婚させれば何とかなるということだろうが、1912年9月に湯島の材木商斎藤政吉の娘ヨネと結婚した。ところが年末には、前からなじみの芸者八重次と箱根に旅行している最中に父が脳溢血で倒れた。よりによって芸者と温泉にしけこんでいるときに親が倒れなくてもいいようなもんだけど、荷風の運命は根っからの親不孝者に出来ているのである。父は翌年1月2日に死去。さっそくヨネを離婚し、翌年1914年には八重次と結婚してしまい、弟とは絶縁となり30年以上会うことはなかった。ところが、もう翌年には八重次も家を出てしまい、1916年には慶應大学教授も辞職する。
以後はずっとシングルで、散歩と文筆の日々ということだけど、この荷風の前半生を見れば、「荷風は誰をも愛することのなかった徹底した個人主義者」などというのは「半面の真実」であって、そんな人は文学者や画家などには無数にいるだろうと思う。でも荷風は「仮面の結婚」を続けるには純粋に過ぎたという方が当たっている。「すみだ川」を読めば判るが、この純真可憐な少年の魂を美しく歌い上げる詩人というのが荷風の本質である。欧米を見たことで、日本の近代の不純が身に沁みた。ましてや、わが一族の中に上層階級であることによる不義腐敗の匂いを嗅いできた。それでも父が生きているときは、結婚せざるを得なかった。それほど「家父長制度」の存在は重いのである。一度結婚して捨てられたヨネは可哀想だけど、荷風はだからガマンしていられるという人ではなかった。
荷風が下層の女性を描くときに目は、冷徹でありつつも暖かいものがある。リッチな生まれであることが魂の幸せにはつながらないことがよく判るのである。だから、荷風は本当は三ノ輪の浄閑寺(じょうかんじ)に葬られることを望んでいた。「遊女の投げ込み寺」である。吉原の身寄りのない遊女を葬った。その中の一人になりたかったのであるが、死後のことは自分ではどうしようもない。父が用意した都立雑司ヶ谷霊園の中に荷風の墓があるのである。まあ、どうしようもないことであるし、墓自体には関心がないのでどうでもいい。雑司ヶ谷霊園は夏目漱石やジョン万次郎などの墓があるところで、荷風の墓はわりと入り口近くにあった。ところどころに看板があるので、大きな案内はないが何とか分かった。拡大すれば永井荷風の字が読めると思う。
一方、浄閑寺には荷風の碑が作られた。寺の裏の方、吉原遊女の慰霊塔の真ん前である。隣には山谷の労働者を祀る「ひまわり地蔵」もある。他にも三笑亭歌笑などいろいろある寺なのだけど、とりあえず荷風の碑と刻印されている「震災」の文章を載せておきたい。文には重複あり。
新吉原総慰霊塔の写真なども載せておきたい。