戦国時代に名将といわれた武将は綺羅星のごとくいるが、吉弘嘉兵衛ほどその生き様に感銘を受けた武将は居ないといっても過言ではない。
主君大友義統が領地召し上げとなり、名門大友家が滅亡した後もお家再興の望みを捨てずに、野に伏していた。
秀吉没後、豊臣秀頼より西軍に付けば領地復活との誘いを受けた大友義統を、これからは徳川の世ゆえ東軍に付くべく進言するも、叶わずやむなく西軍に組した主君に従い、別府石垣原の合戦で死に場所を此処と定め、旧知の黒田家重臣井上九郎右衛門と一騎打ちをし、見事に討ち死にしたがまったくもって義に厚く生きた武将であった。
名将は名将を知るの喩えどうり官兵衛も嘉兵衛統幸の見事な散りざまを惜しみ、その地にて供養をし魂の安穏を祈った。
石垣原合戦場跡に吉弘神社が建立され、今もなおその遺徳を偲び、お参りする人々が絶えない。